和菓子屋たぬきつね

ゆきかさね

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《第1期》 ‐餡の香りと夏の暮れ、彼岸に咲いた約束の花。‐

   『紬』

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 ひづりは左手でぎゅっと自身の右肩を掴んだ。確かに何かがある。分からないが、とにかく自身の右肩に、姉の負傷した箇所と同じ場所に、疼きのようなものを感じている。
「……そうか。《契約印》の譲渡の準備がしてあった、と、そういうことか。ではまだ《ボティス》は《魔界》に帰ってない……保留状態でさまよっている、ということか……」
 《治癒魔術》で自身の右腕の傷を癒しつつ聞き耳を立てていた《ベリアル》は納得がいったという声音で背筋を伸ばし、こちらを見据えた。
「ならば改めて殺すしかなくなったではないか。姉を恨むがいい、ひづりとやら。己の姉の行いのために、己は死ぬ」
 そう言うなり《ベリアル》は周囲の羽根を一度にこちらへ発射した。
 雷鳴のような音だった。何十発もの羽根の弾丸が《防衛魔方陣術式》に当たっては弾いて破裂して消えていく。
「……っち。死にぞこないのくせに、初歩の《召喚魔術》だけは立派に使えるか」
 依然、《ベリアル》とひづりたちを隔てているそのちよこによる《防衛魔方陣術式》は健在だった。噂に聞いた通りの強固な《盾》であるらしかった。
 だが。
「うっ……う……!」
 サトオに抱きかかえられているちよこが苦しげな声を上げ、耐えるようにその体を震わせた。
「姉さん!?」
「ちよちゃん!?」
 サトオに支えられて開かれているちよこの左手の手のひらは《ベリアル》を正面に捉え続け、《防衛魔方陣術式》を維持していた。しかし、ぜぇ、ぜぇ、と息が急に荒くなって、顔はもうほとんど死人のようだった。
「は。だが、結局はまた我慢比べだ。どこまで維持出来るか、試してやろう」
 涼しげな顔で《ベリアル》は再び羽根の弾丸を空中に整列させた。
「どうしたら良いんですか!? どうしたらあの《悪魔ひと》を呼び戻せるんですか!?」
 焦り、ひづりはサトオに訊ねた。呼べるのなら。《ボティス》との《契約》がまだ残っていて、彼女を呼び戻せるなら。帰って来てくれるなら。
 彼女ならきっとこの《ベリアル》を倒してくれる。そして《結界》は消えて、姉さんを病院に運ぶ事が出来る。《ソロモン王の七二柱の悪魔》の一柱である《ボティス》さんなら、強力な《治癒魔術》も使えるはず。《ヒガンバナ》さんや、《フラウ》ちゃんたちの傷だって……!!
「ッ!!」
 《ベリアル》から放たれた第二射が、《防衛魔方陣術式》を再び激しく打ち鳴らした。
「ッづぅ、ぐぅ、く……っ」
 轟音の中、《盾》を張り続ける姉がまた苦しげな声を漏らす。こんな体で《魔術》を使っているのだ、維持するだけでも精一杯だろう。ぐうたらで、奇行ばかりして人を困らせて、果ては仕事をしたくなくて泣き出すような女のくせに、こんな……。
 心臓がいつ止まってもおかしくないほどの出血と激痛と《魔術》の行使。その負担に耐えながら吉備ちよこはこの場にいる全員を守っていた。
「やらせない……絶対に、ひづりだけは……絶対に……絶対に……」
 ちよこはうわごとのように呟いていた。もはや気力だけで意識を保っているようだった。
「……もう一度呼び出す……? 今、《ボティス》を再召喚すると言ったのか? ひづり?」
 第二斉射の後、《ベリアル》が顔を上げてひづりに声を投げて来た。
「なるほど理解した。馬鹿なのだな、己は」
 罵声を付け加え、そして続けた。
「一体全体、どうやって召喚するつもりなのだ? 《悪魔》召喚の儀式には最低でも動物の頭蓋骨と貢物が必須だ。どこにある、そんなものが? それに第一」
 滑稽でならない、という風に《ベリアル》は笑った。
「ひづり。先ほど己の体を掴み上げた時によぉく見せてもらったぞ。己は《召喚魔術》はおろか、《魔術》の一つも使えぬのだろう? 使えるなら、とっくの昔に我へ、無様な抵抗の一つでもしていたはずなのだからな。己は無価値だ。だから我にとって、己は視界に入れる道理すらなかった。だから己は今、生きているのだ。道具も、貢物も、儀式も知識も《魔術》も無く、《悪魔》の王に謁見しようだと……? 自惚れるのも大概にせよ、人類風情が……!!」
 《ベリアル》の言葉にひづりは返す言葉が無かった。実際、官舎ひづりには何も無い。たとえ《契約印》があったからといって、《召喚魔術》の初歩の初歩だという《防衛魔方陣術式》すら知らない、使えない。そんな自分がどうやって……。
「……それは……違います」
 その時、にわかに隣からうめくような声が響いた。
「ひ、《ヒガンバナ》!? 駄目、駄目ですわよ、動いては……!」
 出血がまだ止まってもいなかったのに、先ほどひづり達をちよこの《防衛魔方陣術式》の内側に引き込むために無理をして、そして力尽きたようにうつぶせで倒れていたはずの彼は、しかしまたその血まみれの体を起こそうとしていた。その身を案じて千登勢が止めようとする。その顔は涙でぼろぼろになっていた。
「いいえ、千登勢さま……。それよりひづりさま。聞いて、ください……」
 彼は跪くようにしてひづりを正面に捉え、語った。
「確かに……召喚には、様々な準備が必要です……《魔術》の知識も……。ですが、ひづりさま……。ちよこさまがおっしゃったのは……再召喚は……『出来るかもしれない』ではないのです……ひづりさま……。『出来る』のです……あなたさまに、なら……」
 割れた狐面から覗く血まみれの口から再び血の塊が流れ落ち、びしゃり、と彼の周囲の血だまりを広げた。千登勢が彼の腕をぎゅっと掴んだ。
「ゼェ、ゼェ……。……ひづりさま……《契約》の本質とは、《尊敬》なのです……。今現在普及している《召喚魔術》に用いられるのは、供物としての宝石や動物の頭蓋骨……そして膨大な《魔力》ですが……。……わたくしは知っております、ひづりさま……。わたくしは、ふ、ふふ……。確信を以って……言えるのです……。あなたさまと、《ボティス》様との間に、もはや……そのような無粋なものは一切……必要、ありませぬ……」
 狐面から覗く彼の茜色の瞳がひづりの瞳を真っ直ぐに見つめていた。それはどこまでも美しい、《光》を見ている眼差しだった。
「呼んで、差し上げてください……あのお方の……《名前》……を……」
 ……ずるり、と《ヒガンバナ》の体がひづりの足元へ崩れるように倒れた。
「あ、ああっ、《ヒガンバナ》!? 《ヒガンバナ》!! 逝かないで、逝かないで!!」
 千登勢が泣き叫びながら再び《治癒魔術》の《魔方陣》を出して回復を試み始めた。
「何をわけの分からんことを言っておるのだそれは? 死に際で頭がイカレたのか? はっ、《下級悪魔》など、所詮その程度だ。《ボティス》が何故そばに置いたのか理解に苦しむ」
 次弾を既に用意した《ベリアル》が《ヒガンバナ》を見下しながら言った。
「では、第三斉射目。どうだ?」
 雷鳴と轟音が三度(みたび)ちよこの《盾》を叩いた。
 にわかに一瞬、《防衛魔方陣術式》の光が揺らいだ。
 三度目の斉射が終わった時、ちよこの呼吸は再び浅く、弱くなっていた。《防衛魔方陣術式》の光は薄まって、更にちらちらと揺らぐ。
「……次で割れそうだな」
 《ベリアル》は、もう飽きた、という態度で第四斉射の準備を始めた。
 ひづりは覚悟を決めなくてはいけなかった。姉の《防衛魔方陣術式》はもうこれ以上維持出来そうにない。次に攻撃を受けたら崩壊してしまう。そうなったら姉の、義兄の、叔母の、《ヒガンバナ》さんの、凍原坂さんの、《フラウ》ちゃんと《火庫》ちゃんの命がここで終わってしまう。
 ひづりは握っていた姉の手をそっと離すと立ち上がった。亀裂の入った頭部から滴り続けていた血がまた、ぼたり、ぼたり、と肩や胸に零れて落ちた。触れると、やはり折れているらしい、肋骨が数本、ぐらぐらと動いた。痛すぎてもうどこが痛いのかすら分からなかった。
 意識が朦朧とする。呼吸が上手く出来ない。痛い。怖い。立っている事でもう精一杯だった。
 しかし。
 この桃色に光る《盾》は、あのぐうたらな姉が張っている《意地》なのだ。
 なら、妹も、良いところを見せないと……いけないじゃないか……。
 すぅ、とひづりは息を吸った。割れた右側の肋骨が激痛を走らせ、血でぐしゃぐしゃに濡れた頭から更に滴った血がひづりの顔にまで垂れて来た。
 《悪魔》の召喚方法なんて知らない。貢物……? 儀式……? まるで知らない。けれど、《ヒガンバナ》さんが言ったんだ。そんなものは必要ない、と。
 呼べばいい。それだけで良いはずだ、と。ひづりは《契約印》があるという自身のその右肩を左手でぎゅっと掴んだ。
「……戻って……来て……」
 搾り出した声は小さかった割に、見返りとして激しい頭痛が落ちてきた。意識が途絶えそうになる。ああ、これは思った以上に脳に傷がついているのかもしれない、とひづりは喪失感に負けそうになった。
 けれどもう一度痛みに抗いながらひづりは息を吸って、歯を食いしばり、精一杯の声で叫んだ。
「戻って来て、ください。《ボティス》さん……!」
 吐き出した息と一緒に体から力が抜けてひづりは膝から崩れ落ちた。どうにか両手をついて倒れこむのだけは防いだが、駄目だった。痛すぎた。脳が悲鳴を上げ続けている。もう何もするな、と、ずきん、ずきん、と痛みで訴えている。視界が赤く染まっている。
 ……だが、辺りには何の変化も無かった。呼んだ声はほんの少しも響かず、《彼女》の姿はたとえ幻でもひづりの前には現れてくれなかった。
 駄目なのか。座り込んだままひづりは身の内を駆けずり続ける痛みに負け、ついに悲しみの涙が零れた。
 《立場》。その単語が、もはや思考力さえ朧げなひづりの頭の中を一つきりで残響していた。
 ただの人間と、《悪魔》の王。大きすぎる差。互いの間にある高すぎる《垣根》。自分は、《彼女》らが応えた《ソロモン王》じゃない。《悪魔》を使役する指輪なんてものも無い。《召喚魔術》の知識も無い。《ベリアル》の言う通り、官舎ひづりには何も出来ない……。
「……もはや道化ですらないな。飽き飽きだ。醜い。己ら人間の《命がけ》なぞ、享楽ほどの価値すらない」
 第四斉射が開始された。激しい轟音がひづりの脳にまた鋭い痛みをたたきつけてくる。ひづりはもうただ頭を抱えてそれに耐える事しか出来なかった。
 やはり超えられないのだろうか。《二人》は、姉の体にあった《契約印》の破壊によってあんなにもあっさりと《人間界》の滞在権利を奪われてしまった。そして自分は、そんな彼女達を連れ戻すことすらできない。
 いつかの日を夢見て、これからもずっと一緒に過ごす日々を願った自分が愚かだったのだろうか。馬鹿な小娘が見た、非現実的な夢だったのだろうか。
 ひづりは聞きたかった。いつかまた、神社への道中で《彼女》が語ってくれた《ソロモン王》の話を。《彼女》があんな顔で話す、その遠き彼方に出会ったという人間の王様の話を。
 そこから何か得られたら。その得た何かで、いつか人間と《悪魔》の間にある《垣根》を越えられたら……。
 いつかそんな日が来たらいいなぁ、なんて、そんな……。
「……《名前》……?」
 轟音と激痛の中、ひづりはふと何かを思い出した気がして我知らず声にならない声で呟いた。
 痛む脳裏に《ヒガンバナ》の言葉が蘇る。

『呼んで差し上げてください。あのお方の《名前》を』

 ひづりは《ヒガンバナ》を振り返った。見ると、倒れ伏した彼の片手が不自然に天を向いていた。
 ……《ヒガンバナ》。その大きな手のひらに走る赤い模様が花の彼岸花に似ているからと、花札千登勢がつけた名前。

『また会う日を楽しみにしています』

 千登勢が教えてくれた、彼岸花の花言葉。
 ひづりは神社への道中で《彼女》から聞いた話を改めて思い返した。
 《ソロモン王》が《七十二の悪魔の王達》に、それぞれ《名前》をつけたという話。
 あの時ひづりは驚いたのと同時に、「素敵な話だ」、と思った。まるで絵本の中の物語のような、優しい出来事だと。

『やはり三千年を経ても、実に良き文化じゃな、と、不意に思うての』

 それを《彼女》はあの時そう語った。

『そうして共に過ごすうち、中には深く《ソロモン》を愛した《悪魔》も居った。当然その逆で殺意を抱き続けた《悪魔》も居った。わしは……まぁ、その中間辺りかの。あやつは面白かったからのう』

 穏やかな、《彼女》の微笑んだ横顔。

『その《名》は半ば強引につけられて、あやつが勝手に呼んでおっただけじゃった。しかし、《友達》というものをわしらはあやつから教わった。皆が皆それを理解し受け入れたとは言わん。しかし、わしはそれを――』

 それを。それを……。
 ……ああ、そういうことなんですね……。ちよこの《防衛魔方陣術式》がついにひび割れ始めたその音を聞きながら、微かにだが脳の痛みが引いていくのをひづりは感じていた。
 自分は思い違いをしていたのだ。《あの人》の本当の名前を知って、見失ってしまっていた。ああ、なんて馬鹿だったのだろう……。
 自分は、私は、《悪魔》の《ボティス》に戻って来て欲しいんじゃないんだ。
 あの《悪魔ひと》は、この《人間界》で《王様》でありたかったわけじゃないんだ……。
「……あなたに……私の魂を差し上げますから……」
 地面に手をついてうつむき、ひづりは消えない痛みに喘ぎながら、それでもぽつりぽつりと口にした。《ベリアル》の攻撃時間が長い。この斉射で《防衛魔方陣術式》を完全に破壊するつもりなのだろう。
「……和鼓さんと一緒に、《こっちの世界》でずっと……うちの和菓子屋で働いてくれるんでしょう……?」
 束にした羽根の一撃が放たれ、ついに《防衛魔方陣術式》の真ん中に大きな穴が開いて砕け、《盾》は光の粉となって消えた。《ベリアル》が勝ち誇ったように微かに笑み、最後の羽根の装填を始めた。
 強く握り締め過ぎたひづりの左手の指が服ごしに右肩の肉に食い込み、爪がめくれあがった。
「……何でも一つ、お願いを聞いてくれるんでしょう……。《悪魔》は、約束を違えないんでしょう……? だから……」
 あの日、名前を忘れたと言った《フラウ》に、彼女は《ボティス》と名乗らなかった。それは《ヒガンバナ》と再会した時もそうだった。
 彼女はいつもその《別の名前》を呼ばせていた。
 《ソロモン王の七二柱の悪魔》は皆、《ソロモン王》から名前をもらったのだ、と彼女は今日話してくれた。嬉しそうに、懐かしそうに。
 《ボティス》という《名》は、やはり彼女にとって《ソロモン王》からの大切な贈り物だったのだ。
 それをひづりの母、官舎万里子は勝手に《人間界》で暮らすための《名前》を彼女に押し付けた。
 本来なら突っぱねただろう。実際そうだったろう。あんな自分勝手な女に名づけられた異国の《名前》など。きっと最初はそうだったに違いない。
 けれどひづりはようやく気づいたのだ。理解したのだ。
 どうして彼女がこの《人間界》で《あの名前》を用い続けたのか。そう呼ばせたがったのか。
 最初は万里子によるだまし討ちの《契約》で自由を奪われたが、そこから数奇な運命を経て和鼓たぬこと共にこの《人間界》で生きることが許されるようになった。それを彼女は喜んでいた。受け入れ、愛していた。
 そうして今まで過ごしてきたこの《人間界》という居場所で生きる自分を、そこで生きる自分に与えられた《その名前》を、《ソロモン王》と共に在った《悪魔としての自分》と同じくらい、彼女は大切にしようと思ったのではないか。たとえそれが偶然だとしても、長くは続かないとしても。それでも。
 《ボティス》ではない、《もう一つの自分の名前》で和鼓たぬこと共に多くの人間たちと過ごす、そんな日々を。
「……消えろ」
 《ベリアル》の周囲に展開された星屑の様な数の死の矢が、《盾》を失ったひづりたちに一斉に降り注いだ。
 あの《悪魔(ひと)》は《ソロモン王》と共に生きた思い出とは別に、今を、この《人間界》で姉さんや和鼓さん達と生きる事を大事にしようと思ってくれた。自分に丁寧に仕事を教えてくれて、そしてこの一ヶ月、一緒に働いてくれた。
 だからひづりは呼んだ。初めて聞いた時「美しい」と感じたその《名》を。
 《悪魔あのひと》が愛した《変名へんめい》を。
 また呼びたい、と、そう思ったから。
「……私と、また一緒に働いて下さい……《天井花イナリ》さん……」




 ――刹那、ひづりの視界を 《白いもの》が覆った。







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