和菓子屋たぬきつね

ゆきかさね

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《第1期》 ‐餡の香りと夏の暮れ、彼岸に咲いた約束の花。‐

   『再召喚』

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 《二匹》は同時に姿勢を屈めると、それぞれ捕まえていた馬の心臓に向かって、ずんっ、とその額の《角》を突き刺した。
 馬は二頭共びくんと体を震わせてけたたましい絶叫を上げた。当然だ。先端に絶えず炎が燃え盛っているあの螺旋状の《角》を内臓深くまで突き立てられたのだ。貫かれ内蔵を直に焼かれて苦しまない生き物など居ない。一瞬で二頭の眼からは命の光が消えその巨体がぐらりと傾くなり《角》を引き抜いた《二匹》によって石畳へと同時に叩き付けられた。
 そのまま《フラウ》と《火庫》はその両手から各々、紫苑と緋の炎を走らせた。どうやら炎は額の《角》からだけ出せる訳ではないらしい、それらが馬を焼き、続いて戦車を焼き始めた。
「ぐっ……!」
 《ベリアル》が跳び退くと戦車は二色の炎に包みこまれ、それは瞬く間に暴力的な焔の塊と成り、馬も戦車も黒焦げになるまで焼き上げられ、やがて消滅した。
「……にゃはん? ちよこの肩の《契約印》が無くなっておるな? イナリが退去したのか? ……よもや、貴様がやったのか、《ベリアル》?」
 その背の翼で羽ばたいて空中に逃げた《ベリアル》に《フラウ》が訊ねた。
「……凍原坂さまの大事な知己様に手を掛けましたの……? ああ、凍原坂さまがあんな、あんな悲しそうな顔をしていらっしゃいます……そんな、ああ、凍原坂さま……凍原坂さま……」
 慣れていない《治癒魔術》に励む凍原坂の表情がひどく苦しげなのは、きっとここまで走って来た事だけが理由では無いだろう。恩人である万里子の娘であるちよこの、このような致命傷。彼は冷静さを保とうとしているが、果てしなく気が気ではないはずだった。そんな凍原坂の気持ちを慮って、《火庫》は切なげな声を漏らした。
「何故だ!! 己らの弱体した《魔性》では我の《結界》を打ち破れる訳がない!! 一体何をした――」
 刹那、その言葉を遮るように《二匹》の手から全く同時に二色の炎が交差しながら弾丸のように発射された。咄嗟に身をよじったが炎は《ベリアル》の翼の端をぶち抜いて焼いた。
「ぐ、う……!」
 ふらり、と空中で《ベリアル》がわずかに姿勢を崩した。
「……その口ぶり。はぁ、つまり見ておったわけか。わっちらを。そこなデブの《契約者》と共につけ回し、観察し、わっちらがいずれこの観光地である神社に来ることを見越して、罠を張っておったというわけか」
 《フラウ》が《ベリアル》に向けて推察を並べた。どことなく普段の暴走気味な《フラウ》とは少し様子が違うようにひづりには見えた。
「にゃはぁん。だが事実、この通りよ。確かにわっちらそれぞれの《魔性》も《神性》も低いが、《火庫》と互いに息を合わせれば話は別よ。元の姿ほどとまではいかぬが、にゃっははぁん! 《堕天使》風情の脆弱な《結界》なんぞ、飴細工ほどのこともないわ。いや、飴細工の方がまだ味わい甲斐がある。……して、貴様の肉は良い味がするのか? ササミはわっちは好物だ。食われに来たのだろう? なぁ《堕天使》よ」
 《フラウ》の、その《フラウロス》の部分である右目がイエローダイヤモンドのようにぎらんぎらんと輝き、殺意を伴って《ベリアル》に向けられていた。
「凍原坂さまを悲しませましたのね……。悪い鳥さんだわ……毟って差し上げないと……毟って毟って毟って焼きましょう……ねぇ《フラウ》……償わせて済むお話ではありませんものね……死んでも殺しましょう……焼いて焼いて焼いて焼いて焼いて……さっきのお馬さんのように真っ黒な炭にしてから肥溜めに捨てていきましょう……」
 物静かなその声量とは裏腹に、《火庫》の体の周囲には緋色の炎が車輪のように円の配列で浮かび、バチリバチリと燃え盛っていた。白髪の間から覗く《火車》の深海のような藍色の右目が、瞬きもせず《ベリアル》を暗い瞳で見つめていた。
 《フラウ》と《火庫》はその二色の炎を再び《ベリアル》に向かって飛ばすなり、にわかに左右に分かれた。《ベリアル》は黒い羽根を発射して炎を打ち落としたが、その《二匹》の動きに対してはひどく戸惑いを見せた。
 先ほども《フラウ》自身が言った通り、そして天井花イナリが午前に城で語ってくれたように、やはり彼女たちは《二匹》同時に息を合わせれば《フラウロス》だった頃と同程度の《魔性》を発揮できるらしい。だから先ほども、《二匹》は《ベリアル》という一つの敵を前に、同じ戦意を以って、そうして同時に防御を行ったために、突撃して来た戦車をがっしりと受け止める事が出来たのだ。
 だからこそ、その《二匹》の分散に《ベリアル》は戸惑ったのだろう。
 その姿から、また《ソロモン王の七二柱の悪魔》と名乗った《ベリアル》は、おそらく天井花イナリの《神性》と同等の《魔性》を持っているのだろう。あるいは《堕天使》ゆえに《神性》と《魔性》を持っているのだろう。
 つまり単純な話をすれば万全の状態の《ベリアル》を前に、今、二手に分かれてしまったことで《フラウ》と《火庫》は再び普段の、天井花イナリに片手間に転がされていた時ほどの状態にまで弱体化してしまっているのだ。
 しかし状況は《二匹》の不利にはならなかった。むしろ逆だった。
 《フラウロス》と《火車》は、《フラウ》と《火庫》になった事で弱体と同時に肉体の軽量化もしていた。ゆえに、空から放たれた《ベリアル》の黒い羽根の弾丸を、身軽になった《二匹》は、更にその猫科の特徴を以ってだろう、境内を素早く駆け抜けながらすべて回避し、避けきれない弾はその炎で燃やし撃墜していた。
 そして何よりその《二匹》を不利どころか優位にしていたのは、《フラウ》と《火庫》が《二匹》である、という点だった。つまり二対一なのだ。遠距離での攻防に於いて、それは圧倒的な戦力差になる。何故なら《背後が取れる》からだ。
 いくら上空から全体を見渡して遠距離での攻撃が出来ると言っても、だからといって《二匹》の標的を同時に完全に対応出来るわけが無い。仮に《ベリアル》がいくら頭が良いとしても、その眼は正面を向いてついていた。逃走するための草食動物の眼をしていない。正面だけを見据える、捕食者の眼の配置をしている。人間と同じ、《死角のある眼》だ。
 《ベリアル》が《フラウ》を狙えば、その背後にすかさず《火庫》が忍び込む。《ベリアル》が《火庫》を狙えば、目聡く《フラウ》がその背後を狙う。そうして《死角》から放たれたその炎が、一発一発は弱いながらも、しかし確実に《ベリアル》の体をじわりじわりと焼いていく。《二匹》が二手に分かれたことでその《魔性》と《神性》は弱体化したとしても、こうして一方的に受け続ければ十分な負傷になるらしく、少しずつだが《ベリアル》のその背中の翼や服、髪、そして肌まで焼かれ始めていた。離れたり合流したりを繰り返しつつ放たれる《フラウ》と《火庫》の炎はその時々で速さも威力も変化しているらしく、様々な角度から弱めの炎が飛来してきて少しずつ削られるかと思えば、いきなり《二匹》は合流し、強烈な一撃を飛ばしてくる。
 まさにそれは獲物を群で囲み、巧妙に攻め立てて襲い掛かる雌ライオンのような戦法だった。
「ぐっ、くそっ、がっ!」
 加えて《ベリアル》は自ら決定的な失敗をしている事にひづりも気づいていた。
 それは空だった。《フラウ》も《火庫》も空は飛べないようだが、《ベリアル》は飛べる。しかしその利点を、《ベリアル》は自分で張ってしまっているその狭い《結界》のために天高くまで逃げる事も、自在に前後左右へ動くことも制限されていた。
「にゃははははどうした《ベリアル》! 貴様で編んだ《鳥かご》であろうが! どうするのだどうするのだ? 解除するか? ああ? にゃはははは」
「……うふふ……墜ちますわ……あの鳥さんもうじき……うふふ」
 自分で狭めた空を不自由そうに動き回り被弾しながらそしてやはり当たらない攻撃を繰り返す《ベリアル》に、《フラウ》と《火庫》は笑みすら浮かべていた。
 ひづりはこのまま《二匹》の優位が続いてくれることを願った。このまま《ベリアル》が焼き殺されるのも良いが、この一方的な攻防に耐えかねて奴がこの《結界》を解いてくれれば尚良い。そうすれば、どうにか凍原坂の《治癒魔術》で出血を抑えている姉を境内から連れ出し、病院へ運ぶ事が出来る。
「ぬ、ぬうううう!! 人間に加担する不埒者どもが!! よくも! よくもぉ!!」
 すると《ベリアル》はにわかに急降下し、神社のど真ん中に落下するように着地した。
 飛べるという利点を捨て地に下りた《ベリアル》にすかさず炎を宿した両腕を掲げた《二匹》だったが、凍原坂は咄嗟に制止の声を掛けた。ひづりもそれにすぐ気づいて同じく《二匹》に攻撃の中止を求めた。
「駄目だ! 《フラウ》! 《火庫》!」
 鋭く発された凍原坂の声にぴたり、と《二匹》はその動きを止めた。ひづりも彼女達の炎が発射されずその手のひらで停止したのを認めつつ、心臓がドキンドキンと鳴るのを感じていた。
 《ベリアル》が着地した《そこ》が問題だった。拝殿の正面。卑怯、とはこういう事を言うのだろう。その縁の下は、おそらくひづりたちが来る直前に、奴が痛めつけて無理やり押し込めたであろう観光客で敷き詰められていた。彼らはまだ生きている。痛い、痛い、といううなり声がずっと聞こえていたから。
 ひづり達にとっては赤の他人だ。しかしそれでも神社の境内であれだけの人間を《フラウ》と《火庫》に焼き殺させる訳になどいかない。凍原坂もひづりも意見は同じだった。
「……は。やはり止まるか。人間の号令に従って……地上に降りた我を殺す機会を、むざむざ逃した…………」
 《ベリアル》はそのままゆっくりと立ち上がると《フラウ》に向かって叫んだ。
「《フラウロス》……ッ! 一体どこまで飼いならされたのだ己は!! 獰猛の名を天地に響かせた《悪魔》の王がそのザマとは! 民に申し訳が立たぬと思わぬのか! 恥を知れ! 己はもはや王ですらないわ!!」
 そのように《ベリアル》は好き勝手な罵声を撒き散らした。
「それに己は《魔界》では《ボティス》のやつと幾度も争っておったではないか……! 殺し合い、奪い合っておったではないか!! そのような無様なナリになったとは言え、あろうことかその《ボティス》に関わった人間共を守ろうなど……!! どれだけ恥を晒すつもりか!!」
 火薬が連続で炸裂するかのように《ベリアル》はそのよく回る舌で《フラウ》を非難した。
「…………《ボティス》……?」
 すると、不意に意外そうな声を漏らして首を傾げた後、《フラウ》は《ベリアル》にその紫苑色の炎を向けたままひづりを振り返った。その眼はやけに丸っこく見開かれており、先ほどまでの戦闘中の猛った顔ではなく、普段、《和菓子屋たぬきつね》で騒いでまわる時の可愛らしい顔になっていた。
 それから再び《ベリアル》を振り返るとその小さな耳をにわかにピン、と立てて嬉しそうな声音で叫んだ。
「そうだ《ボティス》だ! 名前! 忘れておったのだ! にゃはは! まさかこのようなタイミングで思い出すとはな! 《ボティス》、《ボティス》!! そうよ!! 我が宿敵にして永遠の競争相手の名は《ボティス》と言うのであったなぁ!! なんだあやつめ名前を偽っておったのか!? けったいなことよ! 次に会った時にはこれまでの分、存分に呼んでやらねばならぬな《ボティス》ぅ!! にゃは、にゃはは、にゃはははぁーん!!」
 いや、あの、今そんな楽しそうに笑ってられそうな雰囲気の状態じゃないんですけども……という視線をひづりは《フラウ》の後頭部に送った。
「ひづりさん。ちよこさんの傷、今どうにか塞がったよ」
 傍らでそっと掛けられた凍原坂の声にひづりは振り返り、そして姉の顔を見た。傷が塞がった。その一言でひづりは安堵で胸がいっぱいになった。
「ただ、どうも出血があんまりにひどいようだ。顔色が悪いし、体温もひどく下がっている。すぐにでも輸血が必要だ。……それに傷跡もめちゃくちゃだ。口径の大きい銃で撃たれたようになっている……傷自体はどうにか塞いだが、上腕骨の上部先端と、特にそこに繋がる鎖骨先端が粉々になっている……私の様な未熟者の治療では痛みまでは抑えてあげられない。長引けば痛みで脳に障害が残る危険もある。すぐにでも病院で治療を受けさせないといけないが……ここまで複雑に骨折した骨では二度と右腕が機能しなくなる可能性も……」
 悔しそうに、歯がゆそうに、凍原坂は顔を苦しみに歪めて言った。ひづりは姉の顔を再び見る。過呼吸を起こしている様でありながら、一方でそれはひどく浅い。顔色は青く、握っている彼女の手の温度は下がっていくばかりだった。
「何が可笑しいのか!!」
 笑い声を上げ続けていた《フラウ》に対して、やがて《ベリアル》が吼えた。
「答えろ《フラウロス》!! なぜ邪魔をする!? 己らの一体どこに《道理》があるのか!? ただの人間の身で《悪魔》を呼び出し、《契約》を利用して《人間界》に縛りつけ、あるべき《悪魔》としての振る舞いを阻害したそこの人間共を、そして残された《魔界》の国民を放置しておる《ボティス》の行為を、なぜ是とする!? そこのどこに、一体どこに《道理》があるというのだ!! 答えてみせよ!!」
 吼えると同時に、《ベリアル》の黒い羽根が再び《二匹》に降り注いだ。
 しかし今は《フラウ》も《火庫》も、ひづりや凍原坂を背にして寄り添っている。《魔性》も《神性》も上がっている。ぼん、ぼん、とすべての羽根が容易く燃えて風に散った。
「《道理》ぃ……? にゃはん。知ったことではないわ。第一、そんなもの何故この《フラウロス》が通らねばならん? 全て砕いて燃やして貫いて、其処こそが我が道、我が《道理》である。……ふん、そもそも、にゃはは。《堕天使》などという半端者の貴様が、《道理》だの、かくあるべきだのと抜かすこと自体、滑稽の極みであろう。なあ? 自分でそう思わんのか? 何故笑われておるのかすらわかっておらんかったのか? 道化も大概にせよササミ。にゃは、にゃは、にゃは、ふにゃははははははは!! ……それにだ」
 にわかに《フラウ》の《角》の先端の炎がひときわ、ごおぅ、と激しく燃え上がった。
「思い違いもそこまでにせよ《堕天使》。わっちが興味を抱いてるおるのは、後にも先にも、《魔界》にあってはあの《ボティス》のみだ。あやつ以上に我が《角》を交えるに値する《魔族》は他に居らん」
 その地の底から吼えるような深みのある声にひづりは胸がズキリと痛む気がした。やはり《フラウロス》も彼女を、《ボティス》のことを。
 しかし一転、《フラウ》はその炎を少し弱めると戦闘の構えを解き、余裕のある声音で語りだした。
「加えて、わっちはこの《火庫》共々、このとーげんざか達と暮らすのが、今はとても気に入っておる。……ああ残念であるなササミ野郎? また貴様の《道理》を破ってしまったか? にゃはん」
 煽る煽る。《フラウ》の口上に《ベリアル》の顔は瞬く間に険しくなったが、しかしそれでも自身の現状の優位性を思い出して冷静さを取り戻したか、にわかに笑って見せた。
「なるほど? 意固地な癖に、変に移り気なのだったな、己は、昔からそうだったのを忘れていたよ、《フラウロス》。そうして子猫になった気分はどうなのだ? ……ふん、しかし悪いことをしたか? お気に入りの《ボティス》を、たった一手で《魔界》に送り返してしまって……。ふふふはは……己の大事な《おもちゃ》は《魔界》に落ちたぞ? ほれ、追ってこい。その短い子猫の手足でつらいなら、我が手伝ってやらんでもないが……?」
 境内の空気が一度にびしりと張り詰め、ひづりは肌が凍るような感覚を味わった。
「……にゃっはははは。そうかそうか。そんなおかしな事を言うのは、《天界》から《魔界》へ堕ちた時の後遺症か? 移り気で気分屋なのはお互い様ではないか《堕天使》よ? 《天使》なのか《悪魔》なのかハッキリしたらどうなのだ? ……まぁ、貴様の様な脳の足りぬ者が《ソロモン》に《名》を貰い、《悪魔》を名乗る資格があると自惚れていること自体、三千年前からのあまりに趣味の悪い冗談が過ぎるのだがな。それにだ、ああ、それにだ《ベリアル》……。《契約印》を破壊して《ボティス》をあちらに帰した? 一本とってやっただと……? 貴様が、《ボティス》に……?」
 にわかに《フラウ》の体から黒い湯気のようなものが滲み出した。今までにも何度か同じものをひづりは見ていた。だがやはり慣れない。今はそれが自分に向けられていない事だけが幸いだと感じてしまうほどに。
 ばぁん、と破裂するような音がして《フラウ》の《角》の炎が、手のひらから燃えていた炎が、一気に三倍ほどにも燃え上がった。
「それが気に食わん!! 《ボティス》に膝をつけさせるのは、打ちのめすのは、他でもないこのわっちだけだ!! 貴様ごとき半端者の鳥公風情がその首を挟んで来て、無事に生きて帰れると思うておるのか……!! へし折ってねじ切って焼き殺してやる!! 道化でも王を名乗るなら死の度胸を見せてみろ!!」
 かつて聞いた事の無い怒号と共に《フラウ》はその右手に燃え盛る焔を《ベリアル》へ向けて発射した。
 いけない! ひづりの声も凍原坂の声も遅かった。その巨大な紫苑色の火炎が拝殿に直撃する――。
 ……はずだったが。
 やはり《ベリアル》は飛び退いて、人質にしていた拝殿から数メートル上昇したが、《フラウ》の炎は拝殿に届くわずかなところで横から飛来した緋色の炎に弾かれ、あらぬ方向へ飛んで空を覆う《結界》の一箇所にぶつかって穴を開けただけで終わった。穴は再びすぐに閉じてしまった。
「邪魔をするな《火庫》!!」
 《フラウ》が隣の《白猫》に吼えた。
 《火庫》は激昂する《黒猫》をちらりと見た。
「凍原坂さまが『やめろ』とおっしゃったのよ……凍原坂さまが『やめろ』とおっしゃったのに、何故『やった』の……?」
 あ、ああ、いけない。ひづりは気づいて焦りが胸を埋め始めた。
「あの下に敷き詰められている奴らか! 奴らが死のうが関係あるのか!! 赤の他人ではないか!! そうだ、とーげんざか!! 何故止めるのだ!?」
 《フラウ》は激怒を露にしたまま凍原坂を振り返った。その凄味の有る声音にひづりも肩が強張った。普段の《フラウ》ではなかった。完全に《フラウロス》の性格が出ているようだった。その間に《ベリアル》はまた神社の真ん中に降り立った。
「駄目だ《フラウ》。……本当は戦って欲しくなどないが、君達が戦ってくれることは、私の大切な人たちの命を守る事に繋がる。私には出来ない事だ。だからせめて君達のやりたいように戦わせてあげたい。それに時間もない。……けれど……駄目だ。あいつは、あの《ベリアル》という《悪魔》は、あの神社の下に人質にしている人たちを使い捨ての駒としか考えていない。だからあえて殺さずにあそこに押し込めているんだ。《フラウ》。駄目なんだ。私は君に人を殺して欲しくない。《火庫》にもだ。《フラウロス》だった君は違うとしても、今の君は私の《フラウ》だ。お願いだ……《フラウ》……」
「……ぬぅ」
 《フラウ》は不服そうに視線を逸らしてまた《ベリアル》を睨んだが、次弾を発射する気は、とりあえずはなさそうだった。しかし問題は起きているはずだった。
 今の一撃、《フラウ》が凍原坂の意思を無視して放った一撃のせいで、《火庫》が《フラウ》を『凍原坂を困らせる相手』として認識してしまったのだ。それがひづりにも感じ取れてしまうほどに、《フラウ》に対する《火庫》の藍色の眼差しは先ほどまでと異なっていた。
 普段、《フラウ》が天井花イナリに勝てないのは《火庫》がそこで一緒に戦う気がないからだ。
 《ベリアル》を共通の敵と見なし、ほんの先ほどまで《二匹》は一緒に戦うという気持ちを抱いていた。しかし今の《フラウ》の一撃で亀裂が入ってしまった。せっかく合っていた《二匹》の歯車が外れてしまっている。おそらくだが《二匹》の《魔性》と《神性》は今……。
「っはん」
 《ベリアル》が再び拝殿を背にしたまま、黒い羽根の弾丸を撃ち始めた。
 ひづりと凍原坂を背にした《フラウ》と《火庫》は、互いに『凍原坂を守らねば』という気持ちこそ共通して行動に至りそれらを撃ち落とし始めたが、先ほどよりずっとその火力は下がっているようだった。やはりひづりが恐れた通りだった。《二匹》の気持ちが整っていない。
 しかし何よりまずいのは。
「ふぅ……ふぅ……」
 《フラウ》も、そして《火庫》も、息が少しずつ上がって来ているのだ。
 まさかとは思っていた。けれど普段の《二匹》の行動をこれまで見てきたひづりは、それが目の前で現実の事実として確信に変わっていくのをついに認め、もう気が気ではなくなっていた。
 そうなのだ。インターネットや本で調べた情報によれば、《フラウロス》は黒豹の姿をした《悪魔》で、《火車》は化け猫の《妖怪》なのだ。どちらも互いに、猫科の特徴を持っている。
 ひづりは猫が好きだった。だからわかってしまうのだ。
 猫科の動物は基本的にそのスタミナが長時間持続しない種が多い。睡眠の頻度が多いのも体力の温存や摂取した栄養の消耗を抑えるためだと言われている。つまり長期戦向きではない動物なのだ。
 そして不幸な事に、この《二匹》も、猫科の特徴を濃く持つこの《二匹》も、その弱点を持っているようなのだ。
 一方で向こうの《堕天使》、《ベリアル》のその翼は鳥類のものだった。鳥類は長距離飛行が可能な体力を持つ者が多い。実際、《ベリアル》の表情にはまだ余裕が見られた。
 そんな、まさかそんなことで。……いや、生物の戦いというのは実際そんな理由で生死を分けるものなのかもしれない。
 人質を取られ、防衛一方の持久戦では、あまりに《フラウ》と《火庫》は不利だった。
 凍原坂も分かっているのだろう。《二匹》に体力が無いことは。先ほど駆け回って遠距離での攻防をした時にずいぶんもう体力を消耗してしまっていることを。
 そしてひづりは知っていた。凍原坂が《二匹》を戦わせたくなどないであろう事を。
 知っているのだ。彼がどんなにこの《二匹》を愛し、暮らしているのかを。そして同じように《二匹》がどれほど凍原坂との生活に幸いを感じているのかも。彼女らがここで戦わず、凍原坂を守らず見捨てて《魔界》に帰る訳などないことも。
 だが、打つ手が見当たらない。《ベリアル》は本気の火力でその羽根をこちらへ飛ばしてくる。それを《フラウ》と《火庫》は全て燃やし尽くさなくてはならない。しかも正面から向かい合っている以上、上空で遠距離の撃ち合いをしていた時と違って今の《ベリアル》には《死角》がない。拝殿の下の人質を考慮した慎重な《二匹》の攻撃は全て叩き落とされ、かと言って鋭く速い強力な一撃を撃てばおそらく高い確率で拝殿は倒壊し、参拝客を死なせてしまう。
 炎と羽根がぶつかり、破裂し、焦がす音が境内に響き続けていた。しかしその衝突の距離はどんどん《フラウ》と《火庫》の方へと近づいていた。
 やがて撃ち漏らした羽根が《火庫》の肩を裂き、続けて《フラウ》の右太腿を貫いた。
「がっ……」
 幼い子供の様な細い彼女の足から血があふれ出す。
「《火庫》! 《フラウ》!!」
 ちよこを再びサトオに任せ、凍原坂は膝をついた《フラウ》のそばへ駆け寄った。まだ軽症の《火庫》は羽根の嵐を打ち落とし続けているが、もう意識も朦朧とし始めている様子で、息はぜぇぜぇと苦しげになっていた。
 ふとおもむろに《ベリアル》の羽根の勢いが弱まり、やがて停止し、それらは再びその周囲をぐるぐると回り始めた。
「やはりその弱体した身で持久戦はきつかったようだな? 無策で飛び込んできた報いだ。必然の結果だ」
 得意げに《ベリアル》は顎を上げて語った。
 《火庫》が座り込んで、そのまま倒れた。
「《火庫》!!」
 《フラウ》に《治癒魔術》を掛けていた凍原坂は手を伸ばして《火庫》を抱き寄せた。
「と……げん……坂……さ、ま……」
 息も絶え絶えの状態で《火庫》は《父》の顔を見上げて微笑んだ。彼女の体には撃ち漏らした羽根による負傷が幾重にも刻みつけられており、明らかにもう限界を迎えていた。
「ああ、ああ……すまない……私がもっとしっかりしていれば……守れる術を持っていれば……ああ、《フラウ》……《火庫》……すまない……すまない……」
 《二匹》を抱き寄せて凍原坂はもう自身もほとんど残っていない体力と《魔力》で《治癒魔術》を掛けようとするが、やはり《魔方陣》はちらついて消えかかっており、《二匹》の傷が治っていく様子は無い。
 ひづりは、気づけばまた涙が零れていた。
 隣の姉夫婦に視線を向ける。凍原坂の《治癒魔術》によって出血はどうにか止まったようだが、ぐったりとして動かない青ざめた妻の顔に、夫のサトオは泣きながら手を握り締めてずっと声を掛け続けている。
 千登勢と《ヒガンバナ》を見る。《ヒガンバナ》の体に空いた無数の弾痕と、踏みつけられて出来た頭部の怪我は酷いらしく、《治癒魔術》をかけ続けていた千登勢の息は上がっており、凍原坂と同じくその《魔方陣》は消えかかっていた。
 最後にひづりはおもむろにまた天を見た。濃く暗い、葡萄色のドームのようなものが今も空を覆っている。先ほど《フラウ》の流れ弾で空いた穴は綺麗さっぱり塞がってしまっていた。
 どうして自分は何も出来ず、ここに居るのだろう。ひづりは座り込んだまま再び絶望に暮れていた。《治癒魔術》も使えず、《ベリアル》から皆を守る事も出来ず、救急車を呼ぶことさえ出来ず。
 自分が今怪我も無く生きているのは、ただ何も出来ないからだ、とひづりは自覚していた。
 《ヒガンバナ》のように許しを請うて前に出て怒りを買い、瀕死の重傷を負ったわけでもない。《フラウ》と《火庫》のように凍原坂を守るために戦って敗北したわけでもない。姉のように、《悪魔》と《契約印》による繋がりを持っていたが故にその右肩を撃ち抜かれた訳でもない。
 ただ何も出来なかったから。何より、《ヒガンバナ》と《二匹》の《悪魔》達に守られたから、傷を受けなかっただけ。ただそれだけで、偶然、無傷で腰を抜かし、石畳にへたりこんでいるのだ。
 足の傷に《フラウ》が顔を歪めている。いつもは涼しげな顔の《火庫》が息を切らしてだらりとその四肢を力なく放っている。そんな《二匹》を抱えたまま、凍原坂が泣きながら何度も謝っている。
 自身の中に多少なりともあった喧嘩への自信なんてものがまるで道化のように思え、ひづりは笑ってしまいそうだった。《悪魔》なんていう次元の違う存在の前では、その行いを止める事も、家族を守ることも出来ない。自分は惨めで、弱くて――。
「土産話にするには充分な遊戯だったぞ、《フラウロス》。それと、《火車》というんだったか? その妖怪は」
 その周囲に黒い燃える羽根を纏ったまま《ベリアル》がこちらに歩み寄って来ていた。もはやこちら側に戦力はないと判断しつつも死に際の抵抗を警戒しているのだろう、いつでも《フラウ》たちの火炎を打ち落とせるようにいくつか周囲に発射状態に待機させた羽根を浮かべている。
「《ボティス》は《契約》によってあの白狐の姿にされていたが、《契約》が切れた今、《魔界》では元の姿に戻ってあるべき王の勤めに戻っているだろう。歓迎の宴会でも開かれている頃ではないか? では次は《フラウロス》、己だ」
 そう言って羽根を一枚、《ベリアル》は発射した。
 ばんっ、と、それは凍原坂の顔のすぐ手前で破裂した。射出された羽根を、まだ意識のある《フラウ》が燃やしたのだった。
「やはりまだそんな元気があるか。理解出来ぬな。何故そこまでその《契約者》を庇う? 《ボティス》はもはや元の姿に戻って《魔界》に居るのだぞ。そしてその《契約者》が死ねば、己もその姿に縛っている《契約》から開放され《魔界》に戻る事が出来る。何が不服なのだ」
 見下す《ベリアル》に《フラウ》は苦しげな顔で、それでも笑みを浮かべて言った。
「……三千年経っても理解出来ぬ貴様に……つける薬などはないわ……」
 どす、どす、と放たれた二枚の羽根が《フラウ》の腹と左の太腿に突き刺さった。
「がっ!! は……」
「ふ、《フラウ》!!」
 凍原坂が悲鳴を上げる。《フラウ》の眼から光が薄らいでいく。
 ああ、ああ駄目だ、こんな、こんな……。けれどひづりは声が出なかった。立ち上がる事も、立ち向かう心も折れていた。
「では改めて……。凍原坂、だったか? その大罪、死を以って償うがいい」
 《フラウ》も《火庫》ももはや失神の状態にあると判断すると、《ベリアル》はその羽根の照準を再び凍原坂の頭と心臓に向けた。
 やめてくれ。やめて。ひづりは何の意味もないと分かりながらも、震えるその手を凍原坂たちの前に伸ばした。
 しかし立つ事すら出来ないほど怯えきったその足のせいでひづりは、がくり、と体勢を崩して転び、そのまま凍原坂の足元に転がった。普段ならこんな無様なこけ方などしないせいか、膝と肘と手のひらを酷くすりむいた。
「う、ぐ……」
 ひづりは力の入らない腕で体を起こした。しかしそこでふと違和感に気づいた。
 音がしない。声もしない。《ベリアル》のだ。横目に見えた隣の凍原坂はまだ生きていた。
 何だ? さっきまで、本当にたった今、《ベリアル》は凍原坂を撃ち殺そうとしていた。それがまだ成されていない。
「…………おい」
 おもむろに背後から声が落ちてきた。《ベリアル》の声だ。ひづりは肩を強張らせた。
 振り返る。見上げた二メートルを超えるその長身の迫力は凄まじく、ひづりはそのまま荒い呼吸を繰り返すしかなかった。
「何故、小娘、己の体に《契約印》がある……?」
 …………何だ? ひづりは、かすかな動揺の色が見える《ベリアル》の顔を見上げたまま何の反応も返せなかった。《ベリアル》の言っている意味が分からなかった。
 すると《ベリアル》はにわかにしゃがんでひづりの胸倉を乱暴に掴むとそのままぐいとその長身よりも上に掲げて怒鳴りつけた。
「答えよ!! 何故己の体に《契約印》があるのか!! 《フラウロス》と《火車》の《契約印》はそこの凍原坂という男のだ! あっちの《下級悪魔》はそこの女のだ! 小娘! 己の《悪魔》はどこだ!! 何故呼ばん!! どこに隠している!! 《ボティス》や《フラウロス》のように不遜な扱いをしているのならば、今すぐその《契約》している軟弱な《悪魔》の《名》と共に白状せよ!! そうすれば苦しませずに殺してやる!!」
 《契約印》? 一体何のことを言っているんだこいつは。訳が分からずひづりは困惑し、また締め上げられた喉で呼吸が出来ず、頭の中が真っ赤に染まっていった。
「吐け!!」
 言うなり《ベリアル》はひづりを石畳に叩きつけるように投げ落とした。二メートルの高さから受身も取れず《悪魔》の腕力で石畳にぶつけられた衝撃でひづりの呼吸は止まり、同時に自身の背中と後頭部の辺りで何かが割れる音を聞いた。
 しばらく動かなかった肺は数秒もすると回復したが、しかしそれと同時に強かにぶつけ、あるいは折れたらしい後頭部と背中側の肋骨の辺りから燃えるような痛みが襲って来た。
「ひづりさん!!」
「ひづりちゃん!!」
 凍原坂と千登勢の声が、耳鳴りのする鼓膜に遠くかすかに聞こえた。頭を起こそうとすると左耳の辺りから何かが零れて落ちた。血だった。やはり頭皮か頭蓋骨にひどい亀裂が入ったのだろう。触れて確かめる勇気は湧かなかった。
「ひづり。ひづりというのだな。まだ痛い眼に遭いたいか? 苦しみたいか? その腹を割いて臓物をかき回してやれば、その口も喋るようになるのか?」
 今度はひづりの髪の毛を掴んで持ち上げると《ベリアル》は反対側の手をそっと腹に当てて来た。ぞわり、とひづりの脳が冷えた。
 その時だった。
 ふわん、と、にわかに目の前に桃色の光が現れた。それは平面だが複雑な紋様をしており、ひづりと《ベリアル》の間で一枚の色ガラスのように透けて立っていた。
「!」
 掴み上げていた《ベリアル》の右腕が突然ひづりを開放し、逃げるように引っ込められた。
 《ベリアル》から開放され一瞬だけ宙に浮いたひづりの体は、今度はそっと大きな手のようなものに優しく抱かれ、かと思うと出し抜けに視界が暗転した。
 一秒も無かった。再び視界が開かれると、その手は壊れ物を扱うようにゆっくりと丁寧にひづりの体を地面に下ろした。
 驚く事に、そこはちよことサトオのすぐそばだった。ひづりの隣には千登勢も居て、驚いている間に今度は隣に《魔方陣》が現れ、そこから凍原坂と《フラウ》と《火庫》が、またその大きな手のひらによって運び出され、そばの石畳へと静かに下ろされた。
 その手を見てようやく、《ヒガンバナ》さんだ、とひづりは分かったが、その作業を終えるなり彼は《魔方陣》の中から崩れるように現れて倒れこんだ。傷は依然として塞がっておらず、頭からの出血も止まっていない。
「よし! ちよちゃん!!」
 隣のサトオが言うなり、再び先ほど《ベリアル》との間に現れた桃色の紋様が……いや違う。
 それは直径二メートルはあろうかという《魔方陣》だった。
「姉さん!?」
 その巨大な《魔方陣》はサトオに支えられた姉の左腕から作り出されているようだった。ちよこは意識が戻ったようだが、やはりその顔色は悪く、呼吸も浅い。《魔方陣》を展開するための手はサトオに支えてもらってどうにか《ベリアル》の方へと向けられている。
 無理をしている。《ヒガンバナ》さんも、姉さんも。どうしていきなり。
 困惑するひづりの傍ら、サトオがにわかに言った。
「ちよちゃんが意識を取り戻して、言ったんだ。まだ、どうにか出来るかも知れないって!!」
 彼のそれは真剣な眼差しだった。真っ直ぐに受け止めつつも、ひづりは後頭部と背中で燃える激痛の中、困惑した。
 まだ、どうにか、って……一体何が……?
「最後のチャンスかもしれないんだ。だから聞いてくれ、ひづりちゃん。……ちよちゃんが言ったのはこうだ。ちよちゃんはこれから《防衛魔方陣術式》……っていう《魔術》で、ひたすら僕たちを守ってくれる。今、そこで光ってるのがそうだ。とても頑丈な盾の《魔方陣》らしい。そうそう破られるものじゃないから、時間を稼げるって!」
 《防衛魔方陣術式》。その仰々しい単語をひづりは聞いた覚えがあった。確か《和菓子屋たぬきつね》で働き始めたばかりの頃、姉がいくつか《魔術》を使える事に関して胸を張って来た時に耳にした。
 それは《召喚魔術》を学ぶ者が最初に習得する《魔術》だという。召喚した《悪魔》から己の身を守るために必須なものだからだ。これが習得出来なければそもそも《召喚魔術》には手を出してはいけないのだ、と、彼女は母からの受け売りだというそれを語っていた。その例外が、凍原坂や千登勢なのだろう。
 ひづりは《ベリアル》を振り返った。先ほどの《防衛魔方陣術式》が自身の右腕を貫くように現れた瞬間、咄嗟にひづりを手放して《ベリアル》はその腕を引いた。しかし間に合わなかったのだろう、その右腕はずたずたに引き裂かれ、血が流れ出ていた。確かに効果はあるようだった。
 しかし。
「時間を稼ぐって、何の……?」
「重要だ。手短に言うよ。よく聞いて」
 義兄は真剣な眼差しで語り始めた。
「ちよちゃんから言われていると思うんだ。『もし自分が死んだら、ひづりが次の《契約者》になるよう、準備がしてある』って」
 そう言われてひづりはハッとなった。憶えている。最初の面接の日、姉はそんなことを言って、ひづりの怒りを買ったのだから。
 そのとき姉は『自分が死んだら』と言っていた。それはつまり肉体の死のことだったのだろう。肉体が死に、葬儀を終えて火葬された時、肉体が消滅した時、その『自分が死んだら』は発動する、という意味だったのだ。しかし今、ちよこはまだどうにか生きている。ただしその状態で、体の一部分だけが死んでいる。
 《契約印》のあったその右肩だ。彼女は死なず、火葬もされないままで、その《契約印》のある場所だけが『死んだ』。
 だから――。
「《魔術》の事は僕にもよくわからないが……。とにかく、ちよちゃんの体の《契約印》は潰されてしまった。だから今、その《契約印》はひづりちゃん、君に移っているはずなんだ。だね!? ちよちゃん!?」
 サトオの問いに、《ベリアル》に対して《防衛魔方陣術式》を展開したままちよこは微かに頷いた。
「だからひづりちゃん!」
 サトオが再びひづりの眼を見つめて言った。
「《契約》はまだ切れてないんだ! 二人のお母さん……万里子さんが召喚した《ボティス》との《契約》はまだ生きてる! その《印》がひづりちゃんの体に残っているから!」
 そう言われた途端、先ほど《ボティス》という名を聞いた時、急に胸に不思議な感覚が走ったのをひづりは思い出した。あれは、もしかしてそういうことだったのだろうか。
 繋がっている。まだ。姉から移った、自分と《ボティス》の《契約》は生きている。
 それはつまり。
「……呼び戻せる、って事ですか? まだ、《契約》が果たされていないから……」
 どくん、どくん、とひづりの胸が温かい脈動を始めた。理解した自分の脳が急に右肩へと神経を繋いでいくのが感じられた。


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