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《第1期》 ‐餡の香りと夏の暮れ、彼岸に咲いた約束の花。‐
『旅先より』
しおりを挟む「さぁ!! 敵情視察に行くぞぉ!!」
チェックインを終え、男女で分けたそのやけに広い豪華な温泉つきの二部屋に各々荷物をどっかりとまとめてしまうと、廊下に出た吉備ちよこがにわかにそう叫んだ。
問題なく予定通りの時刻で温泉宿に到着出来たため、宿の夕飯の時間までまだ一時間以上あった。事前にこの近くの飲食店街に和菓子屋があることを突き止めていたちよこは、和菓子作り担当であるサトオと和鼓たぬこのため、凍原坂家を除いた残りの全員で向かうことを決めていたのだ。
またその和菓子屋の丁度お向かいには稲荷寿司も売っているお弁当屋があるということで、それは実に一行にとって都合が良かった。
お酒なら頼めば大量に出てくるだろうとしても、宿屋の夕飯で稲荷寿司を大量に、とはとてもいかない。なので、天井花イナリだけはそちらの弁当屋で買った稲荷寿司で先に夕飯としてもらい、そしてその間に、主にサトオと和鼓たぬこがこの岩国の飲食店街にある和菓子屋の商品を味得して今後の参考にしよう、ということだったのだ。
ちなみにそこに凍原坂家――凍原坂春路と《フラウ》と《火庫》が同席せず宿で留守番となったのには、ここにもれっきとした理由があった。
夕飯前に近くの和菓子屋へ出掛けよう、という話になったところで、にわかに凍原坂が言ったのだ。
「すみません。私はちょっと《フラウ》の相手をしないといけないので、今回は留守番をしています」
と、おもむろに鞄から取り出したオモチャのねこじゃらしをその手に持って。
いわく、《火庫》の方はいつでもどこでもどんな事態でも大抵は大人しいのだが、しかし《フラウ》の方はそうではないらしく、日中、たとえば今日のように新幹線の中で半日も大人しく眠らせておいてしまうと、体力が有り余ってしまい、夜に寝付けなくなってはしゃぎだしてしまうのだという。
だから夕飯までの間に、また夕飯のあと温泉を楽しんだ後にも、軽く運動させてあげなければならない、というのだ。
普段からひづりは、猫を飼っているというクラスメイト達からよくその猫ちゃんたちに関する話を聞かせて貰っていた。その内に、やはり凍原坂の言ったような、要するに《フラウ》のように、昼間大人しくさせすぎると夜中に暴れだすタイプの子というのは確かに居るのだという。
凍原坂が、すっ、とねこじゃらしを取り出した時の、《フラウ》の反応と言ったらなかった。こういうところなのだ、ひづりがときめいてしまうのは。にわかにその視線がフヨフヨと揺れるねこじゃらしのオモチャに釘付けになって、一気にそのテンションが跳ね上がったのが分かる、落ち着きの無い体の揺らし方……。……可愛い……。でっかい猫が居る……。
『凍原坂さん。長旅で凍原坂さんもお疲れでしょうから、その大任、私にも半分ほど受け持たせていただけないでしょうか』という提案を胸にひづりが「和菓子屋なんて知ったことかい! 猫が居るんじゃ猫が!」と一歩を踏み出そうとしたところ、しかしにわかに心臓に殺気が突き刺さってその口も足もぴたりと止まってしまった。
殺気の出所は、凍原坂を挟んだ《フラウ》の向かいに居る《火庫》だった。
白く長い前髪によって酷いかげりが落ちる、深海の様な青い瞳と光を映さない黄色い瞳のその眼差しは、
『凍原坂さまと私達の時間に入って来るな』
と言う明確に過ぎる意図を伴ってひづりを鋭く射抜いていたのだった。
なので諦めてひづりは姉たちについて行く方を選んだ。ちっちゃいとは言え、彼女は《悪魔》と《妖怪》のミックスなのだ。怒らせたらマズイことくらい、ひづりにも分かっていた。特にあの《火庫》の方は絶対に敵に回してはいけない、性格としてはアサカと似ているタイプだというのが、初めて会った時からすでに分かっていたから。
…………《火庫》ちゃんが眠ってる時に……次は必ず……次に凍原坂さんがお店に来た時に……猫用のおもちゃも用意しておいて……《フラウ》ちゃんを……。
「ひづり? 何ぶつぶつ言ってるの?」
「何でもねぇよ……」
玄関までの道すがら訊ねて来た姉にひづりは冷たく返した。
飲食店街に着くなり、もう一方の《悪魔》であるところの天井花イナリは先にお弁当屋さんで稲荷寿司を多めに買って渡されると、お弁当屋と和菓子屋の中心、飲食店街の中央に点在するベンチの一つに座らされて放置され、一行は和菓子屋へと入店した。ちなみにこれはちよこの判断だった。
初めての土地なうえ、時刻はもう十六時を迎えようとしている。本当に大丈夫かは分からない。しかし、もしうっかり誘拐されたとしても、たぶん犯人を少々アレコレした後に、普通に宿まで戻って来るだろう、という安心感だけはひづりの中にもあったので、大丈夫だろうと思うことにした。アレコレがあっても、姉が《認識阻害魔術》でどうにかするだろうし。…………ひづりは《フラウ》と遊べなかったことで、少々周りに対して雑になっていた。
だが、姉や千登勢たちとその和菓子屋に入りかけたところで、にわかに父からメールが来た。そこでようやく『宿に到着したら必ず連絡をするように』と言われていたのを完全に忘れていた事をひづりは思い出した。
ひづりはちよこに「私の分も何か頼んでおいて」とだけ言って、一人店の外に出ると父の幸辰に電話をかけた。
『無事着いた? 大丈夫? 和鼓さんとかも大丈夫だった?』
「うん、大丈夫だったよ。遅れてごめん、連絡するの忘れてた。もうチェックインして荷物下ろして、いま近くの飲食店街でちょっと和菓子屋にみんなで来てるとこ」
話しながら、ひづりは丁度向かいのベンチに座っている天井花イナリを見つめた。
稲荷寿司を食べている時の天井花イナリは普段の王様らしさとのギャップが凄まじく、それゆえに少々戸惑いを交えつつも、「可愛らしいなぁ」という感情の方がいつも強くひづりの胸には生まれていた。姉のちよこいわく、彼女は稲荷寿司を食べてる間は完全に無抵抗だそうだが、しかしその間の記憶まで無いわけではないらしいので、寝てる時の《フラウ》ちゃんみたいに撫でたらきっと後で何か言われるだろうなと思い、ひづりはこれまでその衝動に駆られつつも何度も踏みとどまって来たのであった。
天井花さんとの距離は今くらいが一番良い、とひづりは思っていた。彼女のもっと踏み込んだ部分に居ていいのはやはり和鼓さんだけだし、それにそこに人間である自分はきっと似合わないだろう、という自覚もある。だから位置的にはやはり《ヒガンバナ》さんと同じくらいの場所から、天井花イナリというその素晴らしい人格者である《悪魔》を尊敬していたい。ひづりはそう思うのだ。
『……ひづり? 聞いてるかい?』
「ああごめん、ちょっと考え事してた。何の話だっけ?」
『いや大した話ではないけども……。久々の旅行、どうかなって』
「……ああ、そうだね。ちょっとドキドキしてるかな」
旅行らしい旅行というものを、ひづりはもう九ヶ月以上もしていなかった。普通の家庭の平均は知らないが、官舎家では年に二回、必ず旅行に連れ出す女が居て、それがついこの間亡くなったからだ。
母は年に二回は日本に帰って来ていたが、別にそれは一般的な帰省シーズンであるところの年末年始やお盆ではなく、全く関係ない、六月とか十月とかにいきなり帰って来て、旅行に連れ出すのだった。最後の旅行は去年の十一月の事だった。
連れ出す者が居なくなったゆえの、九ヶ月なのだ。
『父さんはちょっと出不精だからなぁ。ひづりも、にぎやかなのより、図書館とか、近場のそういうところの方が好きだろう?』
「まぁね。そういうとこ、私と父さん、親子、って感じするよ」
『万里ちゃんの旅行好きは、きっとちよこに遺伝したな』
「ははははは、本当にね。……ちょっと矯正してやるべきだと思ってる」
『……ひづり? 暴力は駄目だよ?』
不安げに、そして真面目な声音で電話口の父が言う。
「姉さんが天井花さんや凍原坂さんたちのお金に手をつけたりしなければ、私も姉さんを殴るようなことは無いよ。父さんは、長女をそんなことをするような娘には育てた憶えはない、って自分を信じてたらいいよ」
それは遠まわしではあるが割とストレートに「いや、殴るよ」という返事だった。ひづりがそのようにきっぱりと返すと、父はもう諦めているのだろう、はぁ、と笑ったようなため息をついた。
『それでどうだい、岩国は。良いところだろうか』
「来たばっかりだから何とも言えないけど、バスから見た錦帯橋と向かいの景色はとても綺麗で――」
…………ああ、違う。そうか。ひづりは父に話したい事があることを、先ほどバスの中から景色を眺めて思ったことの答えを、今ようやく理解した。
穏やかな気持ちが胸の中にあった。一つ息を吸ってから、ひづりは電話口の向こうに居る父に話してみた。
「……あのさ。上手く言えないんだけど……何だか今日の旅行ね、今まで母さんに連れまわされてたのと、やっぱり全然違うな、って思ってさ」
『……それは、やっぱりパパが居ないからか?』
「……………………まぁそれも一つかな」
『今、間がすごかったね?』
「何ていうか……いや、まだ宿に着いたばかりなんだけどさ。きっと母さんは、母さんで。それで私は私で。この一ヶ月で出会った人とか、《悪魔》とか、そういう出会いが私にはあって、そんな人たちとこうして旅行が出来るって、幸せなんだなって思ってさ。そうしたら、ちょっとだけ母さんと父さんの気持ちが、たぶんだけど、ちょっと見えたような気がした」
天井花さんや和鼓さん。凍原坂さんに、《フラウ》ちゃんと《火庫》ちゃん。そして叔母の千登勢さんに、《ヒガンバナ》さん。
この一ヶ月で官舎ひづりが出会って、親しくなった人たち。
かつての家族旅行の時、母の官舎万里子や父の官舎幸辰にとってのそれは、きっと自分とちよこだったのだろう。母にとって自分は子供であると同時に、その人生の中で出会った、親しい人間の一人だったのだろう。それを今日、ひづりは気づいたのだった。
何を以って母のその脳みそが、いきなり海外から帰って来るなり娘たちを攫って旅行に出掛けようなんていう思考回路になっていたのかは知らないが、けれどその時、どんな気持ちで新幹線に乗って、宿泊施設からの景色を見て、こうした飲食店街を回って、温泉に浸かっていたのか……。
それが今日、少しだけ実感として分かった気がした。それをひづりは父に伝えた。
『……ひづりはやっぱり、賢い子だね』
穏やかで優しい声が、携帯電話のスピーカーからぽつりと零れた。
『ひづり。たくさん楽しんでおいで。色んなものを見ておいで。今までと違う旅行だと思えるなら、尚更だ。あ、でも夜遅くまで起きてたりしちゃ駄目だからね? 一人で遠くに行くのも駄目だからね? 少なくとも、天井花さんか、千登勢ちゃんのどちらかと常に一緒に居るんだよ? それから、それからえーと……』
父親らしい事を言おうとして、しかし父がその《悪魔》が数人同伴していることを留意した場合に何と言えば良いか考えつつ口にしているのが分かり、ひづりはちょっと可笑しくなった。
「分かってる分かってる。大丈夫だよ。…………たぶん」
……妙な因縁つけてくる奴がいたりしなければ。うん。
『あっ。そういうところだぞひづり! パパ心配しちゃうんだからな!?』
「だ、大丈夫、大丈夫だってば。はは……。……うん。約束する。天井花さんと、千登勢さんからは離れないよ。危険なことに首突っ込んだりは、もうしないから」
ここまで男手一つで自分と姉を育ててくれた、……つい三ヶ月前に恋人を亡くしたばかりの父を悲しませるようなことなんて、出来るわけがない。
旅行は楽しむ。千登勢がくれた贈り物なのだ。当然だ。だがそれとこれとはまた別として、大事なことなのだ。
『約束だぞぅ?』
「うん」
『……ひづり、愛しているよ』
出し抜けに父はそう言った。いつものことではあるが、やはり急なことで可笑しくてひづりは笑って返した。
「ふふ、知ってるよ。……ああ、商品が来たみたい、姉さんが呼んでる。私もお店に入るよ。じゃあね」
『あ、ああ。また電話しておくれ。パパ、待ってるからね』
「掛けてきたのそっちでしょ? もう。じゃあね。……あっ、待って、それと」
言い忘れていたことを思い出し、引き留めた。『なんだい?』という声が電話口から返って来る。
「次は、父さんも私と一緒に旅行、行こうね」
通話を切り、ひづりはポケットに携帯電話をしまって店内に入った。
店の奥で、姉が、義兄が、叔母が、そして《悪魔》が、笑顔でひづりを待っていてくれていた。
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