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《第1期》 ‐餡の香りと夏の暮れ、彼岸に咲いた約束の花。‐
9話 『花札千登勢と彼岸花』(前編)
しおりを挟む9話 『花札千登勢と彼岸花』(前編)
ひづりには最近、一人、気になっている客が居る。
気になっているといっても、素敵な異性が、とか、そういうのではない。
極端な話をしてしまうと、少々怪しんでいる。ひづりには最近一人、少々怪しんでいる客がいる。
三十代くらいの女性で、綺麗なウェーブのかかった黒髪は和鼓たぬこの様に腰の辺りまでふわりと垂れ、いつもパリッとした高そうな紺のスーツを着こなした姿勢の良いそのいでたちはあたかも『仕事の出来るキャリアウーマン』といった雰囲気を醸し出しているのだが、しかし何故かいつもキャスケット帽を被って来店するのだ。
スーツに、キャスケット帽である。
まぁ、人のファッションに口出し出来るほどひづりもファッションセンスに自信は無かったし、する気も無かったが、問題はそこではない。その深めに被ったキャスケット帽のせいで顔は常に陰を湛えており、更には終始無表情、と来ている。結果、全体的には品のあるはずのその佇まいは首から上のかげりのせいで台無しとなり、姿勢が良く清潔感もあるが不自然に影を持っている女性、というどうにも眼を引く存在となっていたのだった。
しかしひづりが彼女を気にしているのはやはりその見た目だけに限っていない。
彼女は週に大体二回……いや、違う。週に、二回は、必ず来店している。週に二回、必ずひづりは彼女の応対をしていた。今週に至ってはなんと三回だった。しかも思い出せる限り、ひづりが働き始めた最初の週からそうなのである。
元々常連なのかもしれないと思ったが、天井花イナリに聞いてみると「いや、あの者はひづりが働き始めた頃から来るようになったと記憶しておるぞ」と言う。
《和菓子屋たぬきつね》では来店時、客は天井花イナリかひづりによって席へ案内されるのだが、その後注文を受ける際、その彼女は必ず、ひづりがそばを通った際や、ひづりの手が一瞬空いた隙に、非常にタイミングよく、というより、どうもタイミングをしかと見計らって声を掛けて来ているようで、少なくともひづりは天井花イナリが彼女の注文を受けているところを一度も見たことがなかったし、彼女自身も「無いぞ」と言っていた。
……という具合に、つらつらと気になる点をひづりはいくつも上げる事が出来る訳なのだが、しかし、かと言って別に何か問題がある訳でも無いし、何か不愉快な思いをしているという訳でも、また無いのだ。
彼女は普通に甘味と飲み物を言って、ひづりがそれをメモをして、和鼓たぬこから受け取った菓子を彼女の元へ運んで、それでおしまい。注文以外の会話は無く、ちよこが彼女の席へ遊びに行っているところも見た事が無い。
ただ働いている折、やはりどうにも何故かよくその《視線》を感じる。自身、自意識過剰なのかとも思ったが、天井花イナリいわく、たしかに彼女はひづりの事をよく見ていると言う。思い違いではないようなのだ。
そして更に、とはいえこちらは気のせいかもしれないのだが、ひづりは以前に一度、彼女と会った事があるような気がするのだった。単純に認識が頭の中で勝手に逆転してしまって、以前にも会った事があったような、という思い違いをすることは別に珍しいことでもないのだが、けれども確かにひづりは彼女を以前一度、どこでだったか、何か、ひどく心を揺さぶられるなかで出会った気がして、そのためにどうにも気になってしまうのだった。
そしてそれが何だったかまるで思い出せない。だからなんとも胸につっかえて、ずっと気になっている訳なのであった。
ただ、何故彼女が自分にばかり注文を取らせるのかは謎だったが、別にそれを嫌と思ったことはなかったし、むしろ彼女の纏う雰囲気がひづりは何となく好きだった。
背筋を伸ばした綺麗な姿勢のままお品書きを見る、キャスケット帽とふわふわの黒髪から覗くその鼻の高い横顔。注文の際に発するのはいつも必要最低限の声量で、菓子が届けられるまではいつも窓の外や焼き目の入った柱などをぼうっと見つめている、その静謐な佇まい……。
一年生の頃から図書委員を続けている通り、静かな場所や本が好きなひづりにとって、おとなしくて静かな人、というのはそれだけで好感を抱く相手であったのだ。
だからその日、客足が少しばかり減って暇が出来たタイミングで、ひづりは注文された商品を届けた際に、思い切って彼女に少し話しかけてみる事にしたのだった。
「いつも来てくださってありがとうございます」
それだけのお礼からで良い。急にぐいぐい行くのも得意ではなかったし、ちよこほど自由人でもないひづりには、それが標準仕様のコミュニケーションの第一歩であった。
膝から上げた片手をそのまま机の上の黒文字に伸ばそうとしたタイミングで話しかけられた彼女はにわかにぴたりとその動作を止めると、おずおずと顔を上げた。
眼が合う。驚いたようなその眼差しに、ひづりは反射的に気づいた。
……ああ、しまった。この人はきっと、話しかけられたりするのが嫌な人なのだ、と。
ごめんなさい、なれなれしくして。咄嗟にそう謝ろうと思った、その時だった。
「こんにちは~!」
にわかによく知っている声が……それこそ十七年間聞き続けてきた声が突然、入り口の方で恥ずかしげも無くそれなりに大きめの声で響いた。
ひづりは出かけた言葉を思わず飲み込み、と同時に眉間に皺を寄せてそちらを恨みがましい表情で振り返った。
「あ、ひづりー!」
ちょうど入り口すぐの位置から見える通路の先に居たひづりはすぐにその人物に見つかり、彼はそのまま軽い足取りで近づいてきた。
「へへぇ、父さん、また来ちゃった」
会社帰りだろう。スーツ姿の父、官舎幸辰はそのように上機嫌に、照れくさそうに、嬉しそうに笑って見せた。
「……また来て……もう……」
たまたま客足が減っているとは言え、その会話は店内中に十分響いており、いくつもの視線が刺さるのを感じてひづりは少し顔が赤くなった。
「――すまねぇな。娘が頑張って社会貢献してる姿をよ、つい、また見たくなっちまってよ……」
誰だお前は、という演技がかった仕草で父は照れ臭そうに鼻をこすって見せた。思わずひづりの頭に怒りの花が咲いた。
「あれー? お父さん?」
休憩室から這い出してきたらしい姉が暖簾をくぐって顔を出した。幸辰もそちらに気づく。
「あっはは、また来たんだ?」
「びっくりさせたくてね。今日はちょうど会社を早めに出られたからさ」
ごく自然な流れで姉と父が通路で世間話を始めた。周囲の視線がまた一段と強く集まり、「あら、ちよこちゃんのお父さん?」「男前ねぇ」などと声が上がり始めた。……ああ、もう、そういうのは休憩室でやってくれ恥ずかしい。
そこでひづりはふと思い出して、かたわらの女性を見た。彼女は片手でキャスケット帽のつばをつまんでうつむいていた。
その仕草に何か違和感を覚え、ひづりは更に彼女を注視した。彼女の顔は、その角度は、意図的に店の隅の方へと向けられていた。
……まるで、幸辰やちよこから顔を隠そうとしているような、そんな……。
そうしたところで、その肩と胸の辺りに乗って揺れている黒いふわふわした毛先を見たところで、ひづりはハッとなって思い出した。
その波打つ綺麗な黒髪をひづりは確かに見ていた。二ヶ月ほど、いや今ではもう三ヶ月前になるのか。
会ったことがあった。自分は確かに、この女性に。
隣に父と姉が現れた事で、ひづりの脳内で今までそのどうにもうまく結びつかなかった記憶のパズルが、今、奇跡的にぴったりと合ったのだ。
完全に思い出していた。ひづりは、この女性が誰なのかを。
「――千登勢、叔母さん?」
ひづりは少し屈んで、そのキャスケット帽に声を被せてみた。
にわかに彼女の肩がびくりと震えた。
ひづりは隣の父を押しのけて彼女の正面の席に滑り込むように座ると、その顔を確認した。やはりそうだ。彼女は再び視線が合って慌ててまた顔を背けたが、もはやひづりには確実に分かってしまった。
彼女の名前は花札千登勢。ひづりやちよこにとって母方の叔母で、そして官舎万里子の妹であった人だった。
三ヶ月前の葬式の日、ひづりと一緒になって官舎万里子の棺桶にしがみついて泣いていた、その人だった。
「え、千登勢ちゃん……?」
すると気づいて父もひづりの隣に掛け、千登勢の顔を覗き込むようにした。
「…………」
両手で帽子のつばを押さえて必死に顔を隠そうとしているが、もはや顔を見られてどうしようもない事を察しているのだろう、彼女は否定をしない無言をそこに置いた。
やはり、そのキャスケット帽は顔を隠すためだったのだ。彼女はひづりやちよこにバレないよう、帽子を深めに被って来ていた。それを、よもや親族三人が一度に現れてバレるなんて、どんな理由があって顔を隠していたのかは分からないが、こんな状況では戸惑うのも当然だろうとひづりは思った。
言い訳がましくなるが、ひづりが花札千登勢の事を今まで思い出せなかったのには二つ、ちゃんとした理由があった。
一つは単純に、母方に叔母が居るということ自体は何度か聞いたことがあったが実際に会ったのはつい最近が初めてだったからで。
そしてもう一つは、その初めてこの花札千登勢と出会ったのが母、官舎万里子の葬式の日一回きりで、それもあのとき彼女は……。
……そうなのだ。今の、丁度こんな具合に。
涙で顔をぐしゃぐしゃにして、その美人を台無しにしていたからだった。
花札千登勢はやがておもむろに帽子を取るとうつむいたままゆっくりと立ち上がり、向かいの席に着いているひづりと幸辰を見下ろした。
彼女は、ずびっ、と一度鼻をすするとにわかに顔を上げ、涙でマスカラが少々落ちた目元に力を込めながらはっきりと宣言した。
「きょ、今日は! 官舎幸辰さん! 貴方から、ひ……ひづりさんの養育権を貰いに来ましたのよ!!」
そう言って彼女はひづりの父、官舎幸辰にその細い指先を突きつけたのだった。
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