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《第1期》 ‐餡の香りと夏の暮れ、彼岸に咲いた約束の花。‐
『母親の代わりに』
しおりを挟む白米に、秋刀魚の塩焼き。シーザードレッシングのサラダ。冷やっこ。そして帰路にあるドーナツ屋で買ってきたドーナツ十種類セットと、同じく本屋に顔を出して手に入れてきた、二千円分の図書券。官舎幸辰が思いつき、実行できる次女のご機嫌取りの方法など、せいぜいこんな物だった。
最近、ひづりは特に連絡もアルバイトも無い日には大抵十八時には帰って来ており、現在の時刻は十七時半を過ぎていた。天井花イナリ氏が言ったのだから、もうじき帰ってくるはずだった。
『はぁーん。なるほどね。それでひづりのこと怒らせちゃったんだー。あはは、はははん、お父さんらしいね』
次女の帰りを待つ間、幸辰は夕刻の心地良い風が流れ始めた窓辺で長女に電話を掛けていた。父の今日の失態を長女はそこまで面白がりもせず、かといって責めもせず、笑ってくれた。少々性格に難のある長女で、幸辰ですら量りかねる部分のある娘だったが、そこに昔から家族愛があることだけはちゃんと分かっていた。
『うん。まぁきっと許してくれるよ。っていうか、それほど怒ってないかもね。むしろ逆かも』
「逆?」
電話口から飛び出した長女の意外な言葉に幸辰はオウム返しした。
『ふふ、へへへ……。まぁあと少しすれば帰って来るんでしょ。それで分かるよ』
「そう……なのか?」
結局長女はその、思えば今日の天井花イナリと同じような物言いで締めくくった。
『……あとね、私もそうだけど ひづりもそうなんだよ。というか、ひづりは特にそうだよ』
するとにわかに話題を変えるように、長女は急に真面目な声で言った。
「何がだい?」
訊ねると、ちよこは《娘の声》で語ってくれた。
『ひづりね、うちでアルバイトを始める前に言ってたんだ。「アルバイトを始めたい。お父さんに負担を掛けたくないし、自分は大丈夫だって分かって欲しいから。ちゃんと成長してるから、親に頼りっきりじゃないってところを見て欲しいから」って』
……それを聞いて、幸辰は思わずベランダにしゃがみこんで口元を押さえた。
ああ、そうだったのか……。特に金銭に困っていた風でもなかったのに、急にアルバイトを始めると言い出したのは、母の死で悲しみに暮れる自分を安心させようと思ってのことだったのか……。
『ひづりはいつだって正しくて、優しくて、暖かい。そういうところ、私も大好き。だからお父さんも、ひづりに大事に想われてるってこと、忘れちゃ駄目だよ』
「ああ……ああ。もちろんだ。ありがとうちよこ」
『いいよ。じゃ、またね。私の分はひづりに言って貰うとするよ。ばいばい』
最後にまた謎の発言を残し、ちよこはプツリと通話を切ってしまった。
私の分? どういうことだ、と思った矢先、玄関の鍵が開く音がした。
帰って来た! 幸辰は慌てて立ち上がると涙を拭い、リビングに戻って出迎えるべく駆け出した。
「お、おお、……ただいま」
ちょうど扉に鍵を掛け終えて靴を脱いでいたひづりは、廊下に飛び出してきた父親を見るなり気まずそうに挨拶した。
「ああ! おかえり!!」
幸辰は満面の笑顔でそれに返した。
「あれ、何? どしたの? 泣いてたの?」
眼と鼻を赤くしているのに気づいたらしいひづりの問いに、幸辰は「ああ! うちの娘達があんまりに良い子過ぎてな!」と我ながら少々意味の分からない返事を暴投した。
「……すごいじゃん。どうしたの。ほんと、何」
テーブルに並べられた自身の好物フルコースと、それからおもむろに手渡された図書券に、ひづりは呆然としていた。
「……今日のお詫びのつもりで、用意したんだ。たぬこさん、眼を覚ました?」
訊ねると、我に返ったようにひづりは隣の父を振り返って頷いた。
「ああ、うん。あの後すぐに眼を覚まして。お酒、気に入ってくれたみたいだったよ。父さんが謝ってたってこともちゃんと伝えておいたから、今日のことはもう心配しなくていいと思うよ。天井花さんも、お酒飲んで幸せそうにしてる和鼓さんを見て、とっても嬉しそうにしてたし」
ひづりはむしろそっちを喜んでいるような柔らかい口調で報告しつつ、手を洗い、うがいをした。
「……だから、いいよ。許したげる」
そう言って手を拭うと、幸辰の前に右手の掌を少し高めに差し出した。幸辰は表情を明るくして、それに反対の手のひらを合わせた。昔からの、《仲直りの儀式》だった。
「しかし、これじゃあ逆だ」
するとにわかにひづりはそう言った。幸辰は気づいた。それは先ほどのちよこと、そして店で聞いた天井花イナリ氏の声音と同じ種類のものだったのだ。
いよいよ気になって幸辰はついに訊ねることにした。
「ひづり、逆って、どういうことなんだい? さっきちよこに電話した時も、それから天井花さんと話をした時も、同じようなことを言われたんだ。それが分からなくて、天井花さんには少しあきれられてしまった。何があるんだい? 今日、何かあったのかい?」
テーブルに着く直前に、幸辰は問い詰めた。
ひづりは顔を上げてその母親似の鋭くも大きな眼をくりんと丸くすると、やがておもむろに眼を閉じて口角を上げた。
「……は。やっぱり、気づかなかったか」
しょうがない父親だ、という響きがそこにあった。
「座って」
そう促すと、ひづりは帰宅するなり冷蔵庫に真っ先にしまいこんでいた《和菓子屋たぬきつね》のロゴの入った箱を取り出して幸辰の目の前に置いた。
「これは……?」
真新しい、清潔感のある白い紙のお土産箱だった。中は見えない。
「母さんが居なくなった途端これなんだから、冗談じゃないですよ、本当に」
一段と呆れた様子でひづりはぼやきながら箱を開いて見せた。
「あ……」
三つ、区切られて並べられた和菓子が、その箱の中には収められていた。
ひづりは丁寧にそれらをまた幸辰の前に一つずつ並べると、説明した。
「こっちの綺麗なミニ和風パフェが和鼓さん製で、こっちの金つばがアサカ製。……で、これが、その、私のだ」
気恥ずかしそうに、ひづりはその少々形の悪い、雪の結晶をイメージしたらしい白餡の乗ったあんみつを最後に指差した。
「……誕生日おめでとう、お父さん。これからも元気で居て、ね」
そして次女はそう言った。
幸辰はかたわらに立つ娘の顔をおもむろに見上げて、それから自身の腕時計の日にちを確認して、そこで本当にようやく、今日一日の天井花イナリや、長女の意味深な発言、そして数日前に振替休日を取ると言った際に上司や部下がやけに優しかった理由をようやく以って理解した。
七月十七日。今日は、官舎幸辰、四十五歳の誕生日だった。
「やっぱり忘れてた。母さんが生きてた時は、真っ先に母さんが電話して来てたもんね。だからどうせ気づかないだろう、って、姉さんと話してたの。案の定だった」
ひづりは困った風に笑いつつも、少し悲しげに言った。確かにそうだった。四十を過ぎたあたりから、幸辰は自身の誕生日というものに疎くなっていた。だがそれを当日の零時零分に知ることが出来ていたのは、今まで海外にいながらもお祝いの電話を毎年くれていた妻のおかげだった。
そうしたところでまた、今日、店に味醂座アサカが居た理由が幸辰には分かった。タイミングを得られず聞けずじまいだったが、ひづりの事が大好きなあの娘のことだから、ひづりと同じ職場で働こうと考えて《和菓子屋たぬきつね》へ面接や顔合わせに出向いていたのではないだろうか、という事を考えていたのだが、どうやらそうではなかったのだ。
味醂座アサカはお菓子作りが得意だった。幼少の頃から付き合いのあるひづりは、これまで何度も彼女から誕生日やバレンタインなど事あるごとに手作りのお菓子を受け取っていた。そういった日にはひづりはいつも帰宅するなり上手にラッピングされたそれをリビングに持って来ては照れくさそうに「アサカがくれた」と簡潔に、自慢なのか、ただの報告なのか分からないような態度で教えてくれていた。またうちの数回、食べきれないからとひづりから分けて貰った事があったため、それがプロではない十代の娘が作る物としては上等に過ぎる出来である事も幸辰は知っていた。
ひづりは料理はそれなりに出来たが、菓子作りはあまり得手ではなかった。それを幸辰は知っていた。実際、そういう人は意外に居ると聞く。またその逆だという人も。
ひづりは前者で、後者かどうかは分からないが和鼓たぬこと味醂座アサカは菓子作りに堪能だった。最初にそちらの方向で考えていれば、今日三人が《和菓子屋たぬきつね》の厨房にエプロン姿で集まっていた事を考えれば、さすがの幸辰でも気づけそうなものだったが、残念ながら今日一日、彼の頭の中は次女ひづりのことでいっぱいだったのだ。
『娘のことばかり見るのも良いが、娘が見ているものや好きなものについても、少しくらい興味を持っておった方が良いぞ』
にわかに天井花イナリ氏の言葉が脳裏に蘇り、幸辰は猛省した。そういうことだったのですね……。
ひづりのこれは――この誕生日ケーキ代わりの手作りの和菓子は、『これからは私たちがちゃんと誕生日を憶えていてあげるから』という、どこまでも優しく暖かい、娘から父へ向けられた最上級の愛情表現だったのだ。
「和鼓さんのとアサカのは絶対に味の保障出来るから安心して。でも私のはちょっと、上手くいかなかったから、あんまり……」
「ひづりいいいいい!! お父さん長生きするからなああ!!」
感極まりに極まった幸辰は思わず椅子から転げ落ちるように膝をつくとひづりにぎゅうと抱きついて叫んだ。
「だっ!? や、やめろ! 離れろ! む、胸に顔を押し付けるなこら!! はーなーれーろー! たっ、誕生日に親を殴らせるなああ!!」
――官舎幸辰の、男としての、夫としての人生は終わった。二ヶ月前に、それは儚くも散り、二度と戻る事は無い。
けれど私の幸せは今もここに在って、そしてこれからも続いていく。いつまでも、とはいかなくても、この日々が続く限り、私は全身全霊を以って、愛した妻の遺したこの愛らしい忘れ形見を、許される限り、そばでずっとずっと見守っていよう。
頭頂部にやや優しめのげんこつを食らいながら、官舎幸辰は最高の幸いを胸にそう誓った。
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