和菓子屋たぬきつね

ゆきかさね

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《第1期》 ‐餡の香りと夏の暮れ、彼岸に咲いた約束の花。‐

8話 『~娘の職場にノーアポ突撃!!~ 官舎幸辰の振替休日大作戦!!』

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 8話 『~娘の職場にノーアポ突撃!!~ 官舎幸辰の振替休日大作戦!!』



 葬儀の際、万里子の棺桶を前にして泣く者は少なかった。というより、そもそも参列者が少なかった。
 かつてあきる野市に在った万里子の元・実家、おうぎ家は、現在とある事情にてその本家としての機能を完全に失っており、遠近関わらず扇に連なる人間は今や散り散りとなっていた。万里子の親類で葬儀に参加していたのは彼女の妹と実父のみであった。
 万里子はその生涯の半分をイギリスで過ごしていたが、あちらであろうと日本であろうと、あまり友人というものの影を見せた事がなかった。弔問者に彼女の知人を名乗る人物は居なかった。
 それゆえ参列者はほぼ官舎の人間ばかりとなったが、これも決して多いとは言えなかった。
 悲しいことだが、幸辰自身、それは仕方が無いことだと覚悟していた。悼んでくれたり、沈痛な面持ちを浮かべてくれる者も居るには居たが、そもそも二十二年間家を空け続け、子育てを幸辰に全て任せきりにして海外に居た万里子への印象というのは官舎家の人間にしてみれば必然的に悪く、またそもそも彼女と顔を合わせたことのある者自体、少なかったからだ。
 だから葬儀の席で泣いていたのは幸辰と、万里子の妹の花札千登勢と、実父の花札市郎と、そして意外にも、ひづりだった。
 幸辰はそれまでずっと、ひづりは母親に対して良い感情を抱いていないと思っていた。ただ「鬱陶しい」という態度を露骨に出しつつも、万里子が誘う温泉旅行には姉と共におとなしく連れていかれていたし、またそれなりに楽しんでもいたと記憶していた。話し合う機会が少なかったとはいえ、ひどい喧嘩をしているのを見たこともなかった。
 だから、年に二回ほどしか日本に帰って来ず、ほとんど会うことが無かった母の死を見ても、ひづりは大していつもの表情をそれほど崩しはしないだろうと幸辰は思っていた。なんならきっと大泣きしてしまうのはむしろ自分の方で、そんな情けない姿を見せないよう必死に心構えまでしていたのだ。
 だが予想は異なった。学生時代から万里子のことを溺愛していた妹の花札千登勢が姉の棺桶にしがみついて子供のように泣き喚くその向かいで、同じように爪が割れそうなほどに棺桶のふちを握り締めて涙を流しながら何度も、それこそ何度も「ごめんなさい、ごめんなさい……」と母親の亡骸に向かって謝り続けるひづりの姿を見て、幸辰は言葉を失ってしまった。その一瞬だけは妻を失った悲しみさえ忘れてしまい、思わずそばに寄って次女の震える肩を抱くことしか出来なかった。
 棺桶に蓋がされ葬儀が始まると、しかしひづりはカラッとしていた。眼と鼻を赤くしつつも、その後も涙が止まらない様子の花札千登勢とは違い、しゃんと胸を張って、それどころか幸辰の手を握り締めて来た。まるで「今一番悲しいのは父だから」と言わんばかりのその慰めるような寄り添い方に、幸辰は妻を失ったことよりも、そちらの娘の優しさに思わず涙が溢れてしまった。
 長女のちよこの方は泣かなかった。元々そういう性格の娘であったから、幸辰は驚きも、もちろん責めもしなかった。母親に対してそれでも学ぶ事があると考えていたのだろう、それを失ったからか少々寂しげな顔をしてはいたが、それよりもおそらくは幼年期以来だろうあんなにも取り乱して咽び泣き喚いていたひづりを見て幸辰と同じ心境に至ったか、彼女の表情もまた沈んでいるように見えた。
 棺桶が運ばれていく間、ひづりはまた今にも泣き出しそうな顔をしながらも、それでも幸辰の心を支えるようにずっと手を握ってくれていた。そんなひづりの反対の手を、ちよこは握っていた。
 官舎幸辰の新婚生活からこれまでの二十二年あまり、妻とはほぼ常に遠距離だった。年に二回会って、旅行に行く、そんな、一般的に見てあまりにも寂しい距離にあった。けれどついぞその愛が揺らいだことは一度もなかった。
 愛していた。愛されていた。だから、男として、夫として、官舎幸辰の人生はこの日、完結したのだった。
 だがまだ残っていることがある。官舎幸辰のまだ、《父》としての人生が。
 ――優しい娘に育ったよ、万里ちゃん。幸辰は、官舎の墓に収められる妻の遺灰の壷を見つめて想い、そして誓った。
 これからも支えていきます。あなたが遺したものを、あなたの決意が遺したこの美しいものを。俺が必ず。
 だからいつかまた会うその日まで、どうかお元気で――。




 月曜日。普段なら平日で多くの日本人が憂鬱な気持ちで学校や会社に出向くその日。官舎幸辰は振替休日を貰っており、午前九時の現在にあって、まるで土曜日か日曜日の様な心持ちで我が家のリビングに居た。二人暮らしの次女、ひづりはすでに学校へ行っていて、家には幸辰一人が残されていた。
 今日、官舎幸辰にはとある《計画》があった。大いなる計画だ。父親として、ひづりのパパとして、成さねばならぬ事があるとその胸に熱い想いを抱き、この振替休日を貰ったのである。ひづりには内緒で。
 最近、次女のひづりはアルバイトを始めた。長女夫婦が経営する和菓子屋、《和菓子屋たぬきつね》で現在は接客の仕事などをしていると、その長女ちよこからこっそりと聞いていた。ひづりはそういった事をあまり話してくれない。何となく父親に話すのが恥ずかしいのだろう。
 次女は幼い頃からしっかりとした娘だった。それはもう度が過ぎるほどで、母親に似たのかいい加減でぐうたらさの目立つ長女のその駄目人間さを補うかのように、歳不相応なほどにしゃんとした背筋の伸びた娘に育ってくれた。だからアルバイトを始めると聞いても幸辰はそれほど心配にはならなかった。次女は器量も良く、学校の成績はまぁ中の上くらいのようだが、しかし何かを効率よくこなすという事に関してはとても秀でていると、父親の贔屓目を抜きにしてもそう見えていた。
 ただ、そんなしっかりしている反面、次女には少々怒りっぽいところがあり、それが幸辰には心配だった。普段からイライラしている、というのではない。むしろ逆で、普段はとても大人しくて、本が好きで、感受性が強くて、物静かで優しい娘なのだ。
 だがひとたび理不尽な要求をされたり暴力や暴言を向けられると、彼女は信じられないような気迫で真正面から立ち向かい、凄まじい怒号を以って説教を叩きつけ、時には殴り合い投げ合いの喧嘩さえして、またある時は街中で大の大人を屈服させて正座させ泣かせるなど、集まった警察も駆けつけた幸辰も驚かされるという事が今までに数え切れないほどあったのだ。
 それくらい、《理不尽》というものに対して次女の官舎ひづりは怒りやすかった。
 娘が物事を正しい方向に考えられる。それはほぼ男手一つで育ててきた幸辰にとって非常に喜ばしい事だったが、同時にそのひづりが『やる』と決めた時の、そのまるで恐れを知らないところは、ただただひたすらに恐ろしかった。いつか大きな怪我をしたり、……想像もしたくないが、命を落とすようなことになったりしなければいいと、日々願わずにはいられなかった。
 ただ近頃、正確には二年前、中学三年生の暮れくらいから、突然彼女は落ち着きを得たようだった。街中でいきなり喧嘩をおっぱじめるような事は、完璧に無くなった訳ではないようだが、極端に減ったようだった。理由は分からない。それに関しても幸辰は教えてもらえていない。だが、毎日のように生傷をその体に作っていた娘が、時には酷い打撲の痕を顔につけて帰って来たことすらあった娘が、……確かに今でもそのきらいはあるし、まっすぐな性格は変わっていないのだが、とにかく、どうにか多少なりともその落ち着きを得た事は、幸辰にとって安堵以外の何ものでもなかった。
 けれど、そんなひづりが接客の仕事をしているという。店には理不尽な客も当然来るであろう和菓子屋で、彼女は今、一体どんな具合なのだろうか。やはり父親としてはそこが気になってしまう。そう、気になってしまうのだ。
 けどひづりは「来ないで。来るな。やめろ」と言って冷たい。パパに冷たい。
 娘の働く姿を見たい、というのは父親として当然の感情ではないだろうか? お仕事を頑張っている娘の姿を見たくない父親など居るだろうか? いや、居るはずがない。
 なので今日、官舎幸辰はひづりのバイト先へ、ノーアポイントメントでこっそりドッキリ突撃するべく、今朝、まるでいつも通り出勤日であるかのように目覚め、共に朝食を摂り、さも出社する体でスーツに着替えてひづりと一緒に家を出て、そして途中の駅前で別れたのち、幸辰はにわかに踵を返して大急ぎで帰宅したのだった。ひづりが学校を終えてバイトに向かう時間までに、彼女の職場である《和菓子屋たぬきつね》の前で十分な準備をして待機するために。
 我ながら最高の振替休日の使い方だ、と幸辰は胸を張っていた。これ以上の使い道は無いと豪語させてもらいたい。だって次女は良い子だし可愛いしちゃんとお仕事出来ているか、お父さん心配なんだもの。
 帰宅すると幸辰はすぐに洗濯、掃除、その他もろもろ、ひづりと普段から共同でこなしている日々の家事を手早く済ませ、午後の一時になると家を出た。こっそりひづりの部屋に忍び込んで時間割を確認して下校する時刻を把握し、そして今日もひづりが洗濯した職場用のエプロンを提げて家を出ていくのも見ていた。《和菓子屋たぬきつね》が三ヶ月前から定休日が木曜日だけになっていることも調べて知っている。長女のちよこに直接聞かずとも、今日がひづりの出勤日で、いつ店に来るのかを把握するなど、幸辰にとっては赤子の手を捻るよりたやすい事であった。
 まず先にひづりの職場、《和菓子屋たぬきつね》の周辺で待ち伏せし、店の外から様子を窺う。それから普通に入店してひづりをびっくりさせる。あ、いや、違う。客として入店して、働いている姿を父親としてしっかりと確認する。うん、それが目的だ。
 おそらくひづりは怒る。たぶんパパは怒られる。それは分かっている。だって「来るな」って言われたもの。実際、割と本気のトーンで怒られる可能性は高い。優しい子なので父親を無闇に邪険には扱うことは無いのだが、仕事絡みだとかそういう事となると、あの子はそういうところがある。しかもなかなかに容赦というものが無い。
 ……でもね、ひづり、パパはひづりが働いているところが見たい。見たいんだ。それに最近実はちょっとひづりに怒られるのも嫌じゃないっていうか、邪険にされるのも案外気持ち良いなっていうか……何かこう、よくわからない気持ちがこの胸に芽生えつつあるので、出来れば叱られたいと思っている。月並みに仲の悪い父娘みたいな感じの、そういう対応をちょっと味わってみたい。これは欲だろうか。否、父性ろまんだ。
 そういう訳で、よし! 万里ちゃん! 俺、ひづりに怒られて来る!! 仏壇に手を合わせて玄関を飛び出した幸辰のその足取りはとても四十代前半とは思えない軽快さであった。


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