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《第1期》 ‐餡の香りと夏の暮れ、彼岸に咲いた約束の花。‐
『はしゃいで泳いで、それから』
しおりを挟む「ひづりん! 待たせたねぇ!」
ひづりが用事を済ませて更衣室の少し手前まで来たタイミングで、どうやらようやく着替え終わったらしい、出て来たハナ達と出くわした。
「おお」
ひづりは正直に感嘆の声を漏らした。もちろん、それは二人の水着姿を見てのことだ。
今日の三人の水着は、先日学校帰りに揃ってショップモールの水着コーナーを回って購入した物なので、誰がどんな物を買ったのかなどは当然分かっていたし、試着した姿も見はしていたのだが、実際にこうしてそれらを直に身につけて明るい太陽光の下で見ると、試着室などで見るよりどうもずっと栄えて映るものらしい、とひづりはその予想外の光景に驚かされていた。
ハナは、当然と言った風に布面積の少ないビキニを選んでいた。上下でデザインが違うタイプで、上は全体的に黒の生地、谷間の辺りにワンポイントとして浅黄色の細い紐が交差して縫い付けてあり、下は白の生地に美しい黒のエスニック柄が描かれ誘惑的な大人っぽさを出しつつ、しかし腰の左右で控えめに揺れるその小さな装飾品付きのリボンがしっかりと可愛らしさを備え合わせていた。女子高生としてはあまりにもグラマラスな彼女のその自慢のスタイルに、それらはばっちりと決まっていた。
特に、上を黒にしたそのセンスを、ひづりは素直に、水着コーナーで試着して見せられた時と同じ心持ちで関心していた。
奈三野ハナは非常に男受けをするスタイルだ、と以前クラスの男女グループがそんな話をしていたのをひづりは図らずも漏れ聞いた事があった。胸が大きくて、ウエストが細くて、太もも周りの肉付きが良い。そういった特徴を以って、彼女はそうなのである、というのだ。
男受けどうこうは知ったことではないし、女のひづりには分かりもしなかったが、ただ何にせよ、その体が誰の物であるかと言えば、当然奈三野ハナ本人の物なのだ。ハナは最近胸がまた成長した事を自慢げに嬉しげにしていたが、と同時に、自分の理想とする体のバランスから少しずれた、と嘆いてもいた。贅沢な悩みのように思わないでもないが、彼女の言わんとする《それ》を、ひづりも僅かながら分からなくもないのだった。
ハナはあえて、胸を小さく見せる黒のトップスを選んだのだ。自分の理想とする全体像をイメージして、そこに効果的な色を置ける。ハナは美術の成績もよく、それがこういった局面で特にひづりを関心させていた。
アサカは今回、意外にもビキニを選んだ。幼稚園から付き合いのあるひづりをして、彼女がへその出る水着を選ぶのを見たのはこれが初めてだったので、店で彼女がそういった種類の、つまりビキニの商品を見ていたのには、ひづりも彼女の内面に最近何らかの変化があったのだろうと察するに至った。
そうしてハナにアドバイスを受けながらアサカが最終的に選んだのは、上下共に半透明ほどに生地の薄い少し青みがかったフリルが付いた、白と藍をチェック柄に編み合わせた生地の上下揃いのビキニだった。
正直言ってひづりは少々、いや、戸惑うほどに、アサカのその初ビキニ姿に見惚れた。幼馴染で、子供の頃は一緒にお風呂に入ったりしたし、家族ぐるみで海やプールにも行ったし、最近では水泳の授業で体のラインや肌を多少見たりもしていたのだが……いや、だからこそかもしれない。
その藍色の水着がとても似合っていて可愛らしい、という事だけではなかった。この歳になって、初めてこういったプールで彼女が見せた、その元々細い体の線に剣道の鍛錬で良い筋肉の付き方をした彼女の胸の下から腰までのラインというのは言葉通り息を呑むほどに綺麗で、ひづりの眼にはどんな女性の体より美しく映った。
しかも今日は勇気を出してコンタクトレンズを用意したという。たまに眼鏡を外した顔を見る事はあったが、こうしてこの姿で外された眼鏡は、おそらく当人が思った以上の効果を発揮していて、少なくともひづりにはしっかりとその効果が突き刺さっていた。
奈三野ハナと味醂座アサカは正反対、という揶揄をひづりは今まであまり良い様に感じていなかったが、しかし正直なところ今日、この日に至っては、少々同意してしまうようだった。
育ち過ぎなくらい豊満な肉体にセンス良く合わされた、布面積も少なく大人っぽい魅惑的なビキニを着たハナ。
反対にアサカは、体は少しばかり細めだが体のあらゆる曲線に無駄というものが一切無く、数年武術を嗜んで来たその整った立ち姿は藍色の水着と相まってとても落ち着きを感じさせておりもはや瀟洒とさえ言える雰囲気を出しつつも、けれどそれを覆う薄い空色のフリルによって彼女のまだあどけない少女らしさをふっと思い起こさせている。
周囲の視線をひづりは意識したが、おそらく気のせいではない。行き交う人の視線が必ず一瞬、あるいは数秒、ハナとアサカへと向けられていた。
それほどまでにこの二人の並んだ水着姿というのは誰の眼にも分かるほどに《絵》になっていたのだった。
「見て見てひづりん! どうこの水着!? さすがのひづりさんもこれにはうっかり惚れちゃったりなんかしちゃったりなんかするんじゃない!?」
「ああ、似合ってる。逆に似合いすぎてて隣歩くの恥ずかしいわ」
「え、あ、おお、え? あれ? それは……褒めてる……?」
ひづりの即答にハナは少々挙動不審な反応をしたあと、仁王立ちのまま首を傾げた。
「わ、私は、どうかな、ひぃちゃん……?」
気を取り直してベタなセクシーポーズをとるハナのかたわら、アサカが一歩踏み出してひづりに訊ねてきた。
「……うん、可愛いと思う。似合ってる。とても」
正直な感想を述べたところで、アサカの顔だけでなく、言ったひづりの顔も赤くなった。ひづりは自身の心臓が高鳴っているのに気づいた。
「えへ……えへへ……」
アサカは頬を押さえて嬉しそうに照れていた。その様がまた可愛らしくて、ひづりは微笑ましい気持ちになった。
「この差!! この差よ!!」
ハナが嘆くように、理不尽そうに叫んだ。
「うるせー騒ぐな。ただでさえあんた目立ってるんだから。ほらさっさと行くよ」
「えーんひづりんが冷たいよぉー。待ってよぉ~」
文句を垂れながらも、歩き出したひづりとアサカの隣にハナは追いついた。
両手に華だな、などと思って、ひづりはちょっと可笑しくなった。
今日は楽しもう。それが一番だ。
「そういえばひづりん、それなに咥えてるの」
まだそれほど混み始めている訳ではないプールはその広さと相まってどことなく閑散としているようにさえ感じた。実際は周囲の蝉時雨がしっかりと騒がしいのだが。
「スルメイカ。更衣室ちょっと向こうで売ってたから、二人が着替えてる間に買ってきた」
白い小さな封筒の口からフライドポテトのように飛び出しているそれをまた一本つまんでひづりはその口に咥えた。
「女子高生がプールに到着して真っ先に買ったのがそれ……だと……?」
驚愕の色に顔を染めつつ、ハナはひづりの手元の雑なパッケージングがされたスルメイカの束を凝視した。
「だって普通ひづりん? 華の女子高生が水着でプールに来たなら、そこはアイスとか、フランクフルトとかあるじゃん? そういうのじゃん? あ。っていうかそうだよフランクフルト食べよう!? 食べてるとこ見たい! あたし達に見せてくれひづりん、フランクフルト食べてるところを。お金なら出すからいくらでもあたしが」
ひづりの手がハナの頭を結構強めに叩いて黙らせた。
「私が何食べたっていいだろ。それに馬鹿に出来ないもんだぞ、食べるか」
ひづりは小さい紙袋に無造作に突っ込まれている中からその一つを手に取ってハナの方に差し出した。
ハナはそれを見つめて一瞬思案するような顔をした後、笑顔で答えた。
「わーありがとー! もらう~!」
しかし彼女のその口はひづりの手に摘まれている物へではなく、現在進行形でひづりが咥えているスルメイカの先端へと向けられ、けれど即座に反応したひづりの手によって完全に阻まれた。人差し指と親指にスルメイカを挟んだままのひづりの手が、彼女の形の良い顔を覆っていた。
「……くれるって……言ったじゃん……」
顔面を手のひらで押さえつけられたまま、ハナが嘆くような声を漏らした。
「誰が口移しでスルメイカを奢るんだ。女子高生なんだろ」
顔から手を離すとそのまま手に持っていたスルメイカをハナの口に押し込み、ひづりは咥えていた分を自身の口の中に収めた。
「……ひぃちゃん、私、私も、あーんして欲しい!」
……まぁそうなるよな、と予感はしていた。
ひづりは赤面しそうになるのを口腔内のスルメイカを噛み締めることで耐え、ハナにしたのと同じように、スルメイカを紙袋から一本取り出してアサカの口に入れてあげた。
「……うふ、うふふ……ありがと」
先端を齧るとその小さな口をもぐもぐさせながらアサカは少し体を屈め、嬉しそうな笑顔になってひづりの顔を見つめた。
可愛い。普段も可愛いが、今日のアサカは本当にとてつもなく可愛いとひづりは思った。
「おう」
暑いなぁ、とごまかすようにひづりは片手で顔を軽く扇ぐ。
ふと、ハナがニヤリとした顔でこちらを見ているのに気づいた。
「な、何だよ」
「……ひづりん、いいよ、分かってるぜ。その顔は、皆で日焼け止めの塗り合いっこしたい、って思ってる顔……だろ……?」
「違うし素直に嫌だわ」
「私はしたいよ! ひぃちゃんに塗ってあげたいよ! 背中とか……背中とかに!!」
にわかに爆発するような勢いでアサカが主張したので残りのスルメイカを全部彼女の口に突っ込んで黙らせると、ひづりはハナの頭を軽く叩いた。
「……ハナ? そういえば浮き輪は? 持って来てないみたいだから入り口のところで借りるんだと思ってたんだけど、どうするんだ?」
長いプールサイドを歩いた先にあった日陰で各々日焼け止めを塗り終えると、まぁまずは手始めに、と、紹介雑誌にも載っていた非常に幅の広い曲がりくねった流れるプールに入ろうとしたところでひづりはふと気づき、訊ねた。奈三野ハナはビート板あるいは浮き輪無しでは水に入れない人類だった。一応それらが無くても浮くだけなら出来るらしいが、遊泳出来ない人間が浮き輪無しで入水するのははっきり言って安全ではない。
するとハナは自慢げにまたキメポーズを取ると眼を伏せ、指先を額にそっと触れて得意げに語り始めた。
「……ひづりん。あたしが何故プールに来たか、もう一度よく考えてみたまえ」
「何って、そりゃぁお前……」
「そうだよ!! ひづりんとアサカの可愛い水着姿を見るためだよ!! よってあたしは水に入りません! 陸地の木陰から、二人がきゃっきゃうふふしてるのを丸一日、ひたすら眺めさせて貰う! ひづりん、パーカー預かるぜ! アサカも! 外したコンタクトレンズのケース預かるぜ! スライダーでも流れるプールでも、二人仲良く行ってきな!!」
……これほど自分の欲望に清々しい女もそうは居ないだろうなぁと思いつつも、たしかにラッシュパーカーはどうにかする必要があると思っていたし、アサカのコンタクトレンズにしても泳ぐ間は外して度入りのゴーグルをしなくてはならないのでその間コンタクトの収納ケースの置き場所も一考せねばならなかったのだ。
なので、ひづりは「まぁくっついて来ていろいろ触って来る訳でもないなら別にいいか」と思い、ハナにラッシュパーカーを預けて流れるプールにアサカと入る事にした。
「……すぅーはぁー……すぅー……」
即刻前言撤回。渡されるなりハナはひづりのラッシュパーカーに顔を押し当てて深呼吸した。買ったばかりで、それも更衣室を出てすぐに脱いで抱え荷物にしていただけだったから油断していた。
ハナは、美人でスタイルも頭も良いくせに、いきなりこういう事を平然とする奴なのだ。
「やめろ返せバカ!!」
「ずるい! ハナちゃん私もそれしたい!!」
「あぁもうまたアサカまでそっちのスイッチ入っちゃったじゃないか!!」
なるべく体の線を隠そうと思って持ってきたつもりだったそのラッシュパーカーは全くの逆効果を発揮し、炎天下の下、入水前から無駄に汗を掻く羽目になってしまった。
ひづり達が二つほど施設遊具を回った辺りから客足は一気に増え、十時には雑誌の写真に写っていたような混み具合となり、施設はその大きさに見合った賑わいを持つようになっていた。
早く来て回ったのは正解だったな、とひづりは思った。朝が早かった分、十一時前頃には三人とも空腹になり、他の客が集まり始める前に食事の席を取って昼食を済ませると、今度は逆に多くの客が飲食施設へ行ったため、施設遊具が空くようになっていた。
当初は水には入らないと主張していたハナだったが、午後になるとさすがに飽きてきて自分も一緒に遊びたくなったらしく、ウォータースライダーへ行こう、と言い出した。泳げなくても楽しめるからだ。
浮き輪を借り、ハナは纏っている大人びた雰囲気をほっぽりだしてスライダーを滑り、着水後も上機嫌ではあったが、もう一度滑ろうと再び上って来るまでに力尽きたのか、二回目を滑った後はスライダー着地点のプールサイドの隅の方に座り込んで水をぱしゃぱしゃと蹴っていた。
一方のアサカは朝から勢いが止まらなかった。行く施設行く施設、全てその体に宿る運動神経と運動能力と体力で以って最大限に楽しんでいた。しかし度々その慣れないビキニは脱げそうになっており、慌ててひづりが注意するとその度に顔を赤らめて、そこからしばらくは大人しくなるのだが、次の施設遊具に行くとさっぱり忘れてしまった様子で眼を輝かせ、競泳水着でも着ているかのような勢いでまたプールに飛び込むのであった。
「アサカぁ本当にスゲェぜ……あたしゃ逆立ちしたって真似出来ねぇ……」
ひづりも体力には自信がある方だったが、さすがに付き合いきれず休憩にとハナのそばまで来て座り込んだ。午後の三時。ここへ来てから既に六時間が過ぎていたが、尚もアサカはそれこそイルカのように水中を駆け続けていた。
「ああ、私もちょっと少し疲れたよ」
「ほい、ジュース」
「え? あ、ありがとう」
ひづりからは机の陰、隣の椅子に置いていたらしい、ペットボトルのスポーツ飲料をハナは手に取って差し出した。
ハナはこういうところが実に気が利くというか、スマートだ、とひづりは思った。
「いくらだった? こういうとこだし結構高かったでしょ」
ひづりが訊ねるとハナは頬杖をついたまま首を横に振った。
「美少女が仲良く二人泳いで遊んでキャッキャウフフしてるのを一日中、日陰で優雅に眺めさせてもらってるんだ……。払うとしたら小銭じゃ足りないぜ……」
ハナはそういうところ本当に治した方が良いと思う、と呆れつつ、ひづりは「後で自販機を見かけたら値段を見ておこう」と頭の隅に置いた。
ハナに貰ったスポーツドリンクの封を切り呷っていると、気づいたらしいアサカがプールから上がって来てゴーグルを外し、活き活きとした笑顔で言った。
「スポーツドリンク? ひぃちゃん、私にもちょうだい」
「ハナに貰ったんだ」
と返しつつひづりは少し視線を下げ、先ほどハナがスポーツドリンクを取り出した空席に視線をやったのだが、しかし、そこには空の、おそらくハナが先に飲み干したらしい一本のペットボトルが倒れているだけで、……アサカの分は用意されていないようだった。
「あちゃー! ごめんなアサカ! アサカの分、買うの忘れちゃってたヨー! 仕方ないからひづりんのを分けて貰ってネ!! 間ッ接ッキッッッスで!!」
そういう魂胆か!! 嘘くさい芝居じみた口調で額を押さえ天を仰いだハナをひづりはにわかに睨み付けた。
「か、買ってくるよアサカの分……」
と、ひづりは席を立ったが、
「――財布ぅ、更衣室まで取りに行くのかい……?」
背後でハナがいやらしい声を上げた。いま三人が居るのは施設の北側で、更衣室は南端にあった。
……そういう頭の使い方をする女は身近にもうすでに一人、生まれた時からそばに居るから本当にやめて欲しい、とひづりは内心頭を抱えた。
「か、かっかか間、間接キ、キス……」
アサカが両手の指先を胸の前で合わせたまま顔を赤くして、ひづりの持つペットボトルをじっと見つめていた。
「あぁ可愛そうに、たくさん泳いで汗掻いてるアサカにひづりんはジュースを分けてあげないのかぁ~。熱中症になったらすっごくつらいのになぁ~。ひづりんは」
「あぁー! もう分かったよ! アサカ、あげる!!」
そう言ってひづりはアサカを隣の席に座らせると、さっきまで自分が飲んでいたスポーツドリンクのボトルを差し出した。
女の子同士なのだ、何をそんなに照れる必要がある。頬杖をついてそんな言葉を何度も頭の中で繰り返したが、視界にどうしても入る隣のアサカがさっきからずっと顔を赤くしたままその受け取ったスポーツドリンクを、普段のように健康的に呷りもせず、こくこくと静かに頂いているその姿に、ひづりはもう顔を押さえてうつむいてしまった。
「あぁ……ひづりんがめっちゃ照れてる……はぁ、はぁ……良い……良いわあ……」
いつの間にかテーブルの下に這い込んで足元から覗き込むようにしていたハナの頬をひづりは普通にビンタした。
結局、閉園時間十七時の少し前まで三人は遊泳施設を全て存分に堪能し尽くしてしまった。主にアサカが、ではあるが、ただひづりも彼女に追いつかないまでも充分に泳いで滑って流された。久々に良い体の運動と気持ちの開放になった訳だが、しかしまぁ当然と言えば当然、着替え終わってバス停へと向かう少し日の傾き始めた道を進むその足は少々どころかだいぶ重たかった。ほぼ七時間はしゃぎ倒したアサカもさすがに眠そうな顔をしていて、少しばかりだが水に入っていただけのハナも露骨に疲れた様子でつま先を引きずるように歩いていた。
あれだけ大勢居たカップルや子供連れの客などは、休日だからこの後もどこか食事へ向かうために早めに施設を出たのか、あるいは遊泳施設よりまだ少しばかり長く営業しているという近隣のスポーツ施設の方へ行ってしまったのか、初めて来る場所なので正確なことは分からないが、とにかく十七時前のヒグラシの鳴き声が涼やかに響くこのバス停への道を歩いている者はひづり達以外にあまり居なかった。全体の閉園時間である十七時を過ぎればきっとにわかにぞろぞろとその数も増えるのであろうが、今度もひづり達は行動のタイミングを良い具合に逸らせたようで、乗り込んだバスも元々大勢の旅行客用の大きなものなので三人とも並んで席に座る事が出来た。
施設から芝横駅までの二十分も眠そうだったが、乗り継いだ成東駅から蘇我駅までが四十五分も掛かると聞くと二人はもう左右からひづりの肩に頭を乗せて眠る姿勢に入ってしまっていた。
アサカもハナもひづりの両手を子供のように掴んで眠っていたが、一両が広く長いにも関わらず車内にはほとんど客が居らず、ひづり達の両はほとんど貸切の様な状態だったためひづりの羞恥心はそこそこ軽減されていた。
七月は中旬を少し過ぎていた。寄り添う二人の体温は少々過ぎる物があったが、車内の冷房を柔らかな風にして配る天井の首振り扇風機が丁度心地良い具合にひづりの体を落ち着けていた。
ただ、その風がほのかに流れて来るたび、視界でひらひらと揺れるものがあって、ひづりは安心して眠る二人の間で独り、先ほどから顔色を暗くしていた。
自身もそれなりの疲労のために充分な眠気に襲われていたが、とても眠れるような気分ではなくなってしまっていた。
……ああ、まただ。ひづりはうつむいてひっそりと歯を食いしばった。
普段思い出さないようにしていること、意識しないよう努力していることが、官舎ひづりにはあった。しかし今日は少し疲れて、眠くて、けれど隣に、その一因である奈三野ハナが居る事が、ひづりを非常によくない精神状態に招いていた。
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