夏緒

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59話 陽平と祥子 1

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 グラスの中で小さくなった氷が、酒で滑って軽い音を立てる。
 仕事終わりの薄暗いバーカウンターの中央の席に陣取った陽平は、その氷を指でつついている左隣の祥子に礼を言った。
「あの時は本当に助かったよ、悪かったな、勤め先に口聞いてもらうようなことして」
「いいのよ、困ったときはお互い様でしょ。いつまで言ってるの、何年経ったと思ってるのよ。あの時は陽平くんの珍しく落ち込んだ顔も見れたし、私は気にしていないわ。仕事続けられてて良かったわね」
 祥子は膝下までの丈の細身のスカートを揺らすようにして脚を組み替えた。ふくらはぎがほんの少し覗く。
「ああ」
 陽平は他に何も言い返すことなく、代わりに頭の後ろを指でポリポリと掻いた。居心地が悪かった。
 店内には大きめのボリュームで、最近流行りの洋楽が流されている。後ろの席からは、がやがやと大きな話し声がひっきりなしに続いていた。
「それにしても、あなたが小学生相手に算数教えるだなんて、なんだか可笑しいわ。昔はそんな姿、全然想像できなかったのに、案外子ども受けがいいのね」
 祥子は酒が入っているのも手伝ってか、暫く前からずっと機嫌良さそうにしている。首筋まで露になった短い髪からは、深夜にも関わらず花のような柔らかな匂いがしていた。
「それはもう仕方ないさ。……転職の理由が理由だからな」
「でもあなた、本当は最初から好きだったんじゃないの、その女の子のこと。今でもその子のところに通ってるんでしょ」
 からかうように祥子は悪戯な瞳をして陽平を横目に見た。陽平は嫌そうに目線を逸らしながらまさか、と呟いた。
「女遊び好きなのは前から分かってたけど、まさか生徒に手を出してクビになるなんてねえ」
「自分で辞めたんだからクビじゃねえよ」
「同じようなものじゃない」
「あんなガキ相手に本気になんてなって堪るか」
 陽平は、まるで自分に言い聞かせるみたいに吐き捨ててから、これではなんだか、癇癪を起こす前のガキのようだと、嫌な気持ちになった。
 祥子は、まるでそれを見透かしたかのような目付きで、あらそうかしら、とからかった。
「あらそうかしら、じゃあなんで未だに一緒にいるのよ。謀らずもそう思ったからあの時逃げたんじゃないの。あなたは弱虫だものね。自分を晒け出して向き合うことをしないの、あなたの悪い癖だわ。そうじゃなかったら、陽平くんはそんなリスクの高いことはしないでしょ」
「知った風なこと言うなって」
「だって知ってるんだもの。好きな人の前でくらい、素直になればいいのに」
「……あんな子ども相手に必死こいてケツ振ってる姿なんか、間抜けなだけだろ」
「相変わらず良い格好しいなんだから」
 くすくすと肩を揺すってから、祥子は一度美味しそうに酒を口に含んだ。グラスに薄い色の唇の跡がつく。祥子はそれを、軽く指で拭ってから、その指をおしぼりに擦り付けた。
「ねぇ、提案があるのよ」
「なんだ」
「私と結婚しない?」
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