夏緒

文字の大きさ
上 下
51 / 60

51話 赤い糸 4

しおりを挟む

 それから俺は隣の自分の部屋に戻り、風呂に入って着替えてからいつものコンビニに向かった。朝飯とウコンを買って戻り、鍵のかかってないほうの部屋の玄関にウコンだけ置いて、おにぎりを食いながら仕事に向かった。

 いつも大体へらへらしている社長は、珍しく不機嫌だった。
 聞いてみれば、社長の中ではほんの少しのしょうもないことをしたつもりが、うっかり奥さんの逆鱗に触れたらしく、もともと社長は奥さんには頭が上がらないタチだもんだから、一切の言い訳も聞いて貰えず昨日から一言も口を聞いて貰えないんだそうだ。知らんがな。
「なにしたんすか」
「なんで俺が悪者な前提なんだよ」
「俺どっちかっていうと社長より奥さんの味方なんで」
「ばーか! あきらのばーか! ぜってぇ話してやんねえからな!」
「別に聞きたかねえよ」
 痴話喧嘩の内容をそんなに聞きたい他人はそう居るまい。だが俺は自分の仕事まで俺に押し付けようとしてくる社長よりも、時々昼飯差し入れに来てくれる奥さんのほうが好きだ。当たり前だと思う。
「鬱陶しいんでさっさと謝って許してもらったらどうですか。なにしたんか知らんけど」
「それが出来りゃあ苦労はねえんだよ」
 回転椅子をギコギコ揺らしながら不貞腐れたように口を尖らせる社長を見て、夫婦っつうのもなにかと大変なんだな、と少し憐れんだ。
「ぶっ細工な顔」
「黙れ糞餓鬼」

 社長夫妻を見ても、いろんなお客さんの家庭を見ても、得る感情は同じだ。仲が良さそうで、それでいて不満がありそうで、それでも大体は手を取り合っている。
 急に忽然と姿を消したあの人の家庭は、今どんな姿をしているんだろうか。



 隣人の玄関は夜には施錠してあった。
 明かりが洩れているのを確認して、インターホンを鳴らすと、中から人の動く気配がして、どちらさま、と聞かれたから俺ですよ、と応えた。中に居たのは、やはりエリカさんひとりだった。
「ああ、あきらくん。ウコンありがとう」
「どういたしまして。大丈夫ですか」
 ごく自然に部屋の中に入れてもらい、靴を脱いで居間に入る。
「うん、大丈夫。昨日はごめんね、折角来てくれたのに、やけ酒しちゃってて」
 部屋の中ではいつものように小さな音でテレビが点いていて、夜飯は済んでいるみたいだった。
「いっすよ、別に。迷惑かけられんのも嫌いじゃないし」
 勝手に座り込んで、買ってきたばかりのカップ酒をひとつ渡してみる。貰えるものは貰っとけ主義は、お互い様だ。
「どーぞ」
「ありがと。ご飯食べた?」
「弁当買ってきた」
 エリカさんは、俺に何をしに来たのかは聞かなかった。ただ、弁当を食えるようにと、いつもの簡易テーブルを出してくれた。
 今夜はわりといつも通りの感じで、ほんの少しの足りない存在感に対する寂しさだけが漂っていた。俺がコンビニ弁当を広げる対面に座って、エリカさんは俺が食うのを眺めながらカップ酒を開けた。お互いに、今日一日どんなことをしたのかを話し合い、ビールはさっき飲んでしまっただとか、社長の機嫌が悪くてとか、他愛もないようなことをぽつりぽつりと話した。エリカさんは俺の社長のモノマネを見て爆笑した。陽平さんの話しは、まったくしなかった。
 それから一度隣に帰って風呂に入って、もう一度エリカさんの部屋に戻った。エリカさんも風呂に入っていたようで、さっきまでなかった甘くて温かい匂いが部屋を覆っていた。布団を敷いて、二人で横になって、腕枕をした。エリカさんは嫌がることも疑問をもつ素振りも見せず、ただ、俺の好きなようにさせてくれた。それでもそれ以上はなにもすることは出来ず、ただ微かに濡れた髪の甘い匂いを嗅ぎながら、自分よりも小さな頭だけを抱きしめて寝た。
 例えそのままエリカさんのことを抱こうと思ったとして、彼女は恐らくなんの抵抗もせずに俺に身体を預けたと思う。でも出来なかった。翌朝になって、この隣人っていう肩書きが外れてしまうのはなんだか恐い気がしたし、何よりも陽平さんと比べられるのは嫌だった。陽平さんよりも満足させてやれるような自信は、情けないことに微塵もない。だから、温かさだけ分け合って、傷を癒すみたいにして、眠った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

継母から虐待されて死ぬ兄弟の兄に転生したから継母退治するぜ!

ミクリ21 (新)
BL
継母から虐待されて死ぬ兄弟の兄に転生したダンテ(8)。 弟のセディ(6)と生存のために、正体が悪い魔女の継母退治をする。 後にBLに発展します。

聖女なので公爵子息と結婚しました。でも彼には好きな人がいるそうです。

MIRICO
恋愛
癒しの力を持つ聖女、エヴリーヌ。彼女は聖女の嫁ぎ制度により、公爵子息であるカリス・ヴォルテールに嫁ぐことになった。しかしカリスは、ブラシェーロ公爵子息に嫁ぐ聖女、アティを愛していたのだ。 カリスはエヴリーヌに二年後の離婚を願う。王の命令で結婚することになったが、愛する人がいるためエヴリーヌを幸せにできないからだ。  勝手に決められた結婚なのに、二年で離婚!?  アティを愛していても、他の公爵子息の妻となったアティと結婚するわけにもいかない。離婚した後は独身のまま、後継者も親戚の子に渡すことを辞さない。そんなカリスの切実な純情の前に、エヴリーヌは二年後の離婚を承諾した。 なんてやつ。そうは思ったけれど、カリスは心優しく、二年後の離婚が決まってもエヴリーヌを蔑ろにしない、誠実な男だった。 やめて、優しくしないで。私が好きになっちゃうから!! ブックマーク・いいね・ご感想等、ありがとうございます。誤字もお知らせくださりありがとうございます。修正します。ご感想お返事ネタバレになりそうなので控えさせていただきます。

上司に連れられていったオカマバー。唯一の可愛い子がよりにもよって性欲が強い

papporopueeee
BL
契約社員として働いている川崎 翠(かわさき あきら)。 派遣先の上司からミドリと呼ばれている彼は、ある日オカマバーへと連れていかれる。 そこで出会ったのは可憐な容姿を持つ少年ツキ。 無垢な少女然としたツキに惹かれるミドリであったが、 女性との性経験の無いままにツキに入れ込んでいいものか苦悩する。 一方、ツキは性欲の赴くままにアキラへとアプローチをかけるのだった。

聖女召喚!……って俺、男〜しかも兵士なんだけど?

バナナ男さん
BL
主人公の現在暮らす世界は化け物に蹂躙された地獄の様な世界であった。 嘘か誠かむかしむかしのお話、世界中を黒い雲が覆い赤い雨が降って生物を化け物に変えたのだとか。 そんな世界で兵士として暮らす大樹は突然見知らぬ場所に召喚され「 世界を救って下さい、聖女様 」と言われるが、俺男〜しかも兵士なんだけど?? 異世界の王子様( 最初結構なクズ、後に溺愛、執着 )✕ 強化された平凡兵士( ノンケ、チート ) 途中少々無理やり的な表現ありなので注意して下さいませm(。≧Д≦。)m 名前はどうか気にしないで下さい・・

いじめっこ令息に転生したけど、いじめなかったのに義弟が酷い。

えっしゃー(エミリオ猫)
BL
オレはデニス=アッカー伯爵令息(18才)。成績が悪くて跡継ぎから外された一人息子だ。跡継ぎに養子に来た義弟アルフ(15才)を、グレていじめる令息…の予定だったが、ここが物語の中で、義弟いじめの途中に事故で亡くなる事を思いだした。死にたくないので、優しい兄を目指してるのに、義弟はなかなか義兄上大好き!と言ってくれません。反抗期?思春期かな? そして今日も何故かオレの服が脱げそうです? そんなある日、義弟の親友と出会って…。

恋をしたから終わりにしよう

夏目流羽
BL
【BL】年下イケメン×年上美人 毎日をテキトーに過ごしている大学生・相川悠と年上で社会人の佐倉湊人はセフレ関係 身体の相性が良いだけ 都合が良いだけ ただそれだけ……の、はず。 * * * * * 完結しました! 読んでくださった皆様、本当にありがとうございます^ ^ Twitter↓ @rurunovel

婚約破棄をしたいので悪役令息になります

久乃り
BL
ほげほげと明るいところに出てきたら、なんと前世の記憶を持ったまま生まれ変わっていた。超絶美人のママのおっぱいを飲めるなんて幸せでしかありません。なんて思っていたら、なんとママは男! なんとこの世界、男女比が恐ろしく歪、圧倒的女性不足だった。貴族は魔道具を使って男同士で結婚して子を成すのが当たり前と聞かされて絶望。更に入学前のママ友会で友だちを作ろうとしたら何故だか年上の男の婚約者が出来ました。 そしてなんと、中等部に上がるとここが乙女ゲームの世界だと知ってしまう。それならこの歪な男女比も納得。主人公ちゃんに攻略されて?婚約破棄されてみせる!と頑張るセレスティンは主人公ちゃんより美人なのであった。 注意:作者的にR15と思う箇所には※をつけています。

ヒロイン不在の異世界ハーレム

藤雪たすく
BL
男にからまれていた女の子を助けに入っただけなのに……手違いで異世界へ飛ばされてしまった。 神様からの謝罪のスキルは別の勇者へ授けた後の残り物。 飛ばされたのは神がいなくなった混沌の世界。 ハーレムもチート無双も期待薄な世界で俺は幸せを掴めるのか?

処理中です...