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51話 赤い糸 4
しおりを挟むそれから俺は隣の自分の部屋に戻り、風呂に入って着替えてからいつものコンビニに向かった。朝飯とウコンを買って戻り、鍵のかかってないほうの部屋の玄関にウコンだけ置いて、おにぎりを食いながら仕事に向かった。
いつも大体へらへらしている社長は、珍しく不機嫌だった。
聞いてみれば、社長の中ではほんの少しのしょうもないことをしたつもりが、うっかり奥さんの逆鱗に触れたらしく、もともと社長は奥さんには頭が上がらないタチだもんだから、一切の言い訳も聞いて貰えず昨日から一言も口を聞いて貰えないんだそうだ。知らんがな。
「なにしたんすか」
「なんで俺が悪者な前提なんだよ」
「俺どっちかっていうと社長より奥さんの味方なんで」
「ばーか! あきらのばーか! ぜってぇ話してやんねえからな!」
「別に聞きたかねえよ」
痴話喧嘩の内容をそんなに聞きたい他人はそう居るまい。だが俺は自分の仕事まで俺に押し付けようとしてくる社長よりも、時々昼飯差し入れに来てくれる奥さんのほうが好きだ。当たり前だと思う。
「鬱陶しいんでさっさと謝って許してもらったらどうですか。なにしたんか知らんけど」
「それが出来りゃあ苦労はねえんだよ」
回転椅子をギコギコ揺らしながら不貞腐れたように口を尖らせる社長を見て、夫婦っつうのもなにかと大変なんだな、と少し憐れんだ。
「ぶっ細工な顔」
「黙れ糞餓鬼」
社長夫妻を見ても、いろんなお客さんの家庭を見ても、得る感情は同じだ。仲が良さそうで、それでいて不満がありそうで、それでも大体は手を取り合っている。
急に忽然と姿を消したあの人の家庭は、今どんな姿をしているんだろうか。
隣人の玄関は夜には施錠してあった。
明かりが洩れているのを確認して、インターホンを鳴らすと、中から人の動く気配がして、どちらさま、と聞かれたから俺ですよ、と応えた。中に居たのは、やはりエリカさんひとりだった。
「ああ、あきらくん。ウコンありがとう」
「どういたしまして。大丈夫ですか」
ごく自然に部屋の中に入れてもらい、靴を脱いで居間に入る。
「うん、大丈夫。昨日はごめんね、折角来てくれたのに、やけ酒しちゃってて」
部屋の中ではいつものように小さな音でテレビが点いていて、夜飯は済んでいるみたいだった。
「いっすよ、別に。迷惑かけられんのも嫌いじゃないし」
勝手に座り込んで、買ってきたばかりのカップ酒をひとつ渡してみる。貰えるものは貰っとけ主義は、お互い様だ。
「どーぞ」
「ありがと。ご飯食べた?」
「弁当買ってきた」
エリカさんは、俺に何をしに来たのかは聞かなかった。ただ、弁当を食えるようにと、いつもの簡易テーブルを出してくれた。
今夜はわりといつも通りの感じで、ほんの少しの足りない存在感に対する寂しさだけが漂っていた。俺がコンビニ弁当を広げる対面に座って、エリカさんは俺が食うのを眺めながらカップ酒を開けた。お互いに、今日一日どんなことをしたのかを話し合い、ビールはさっき飲んでしまっただとか、社長の機嫌が悪くてとか、他愛もないようなことをぽつりぽつりと話した。エリカさんは俺の社長のモノマネを見て爆笑した。陽平さんの話しは、まったくしなかった。
それから一度隣に帰って風呂に入って、もう一度エリカさんの部屋に戻った。エリカさんも風呂に入っていたようで、さっきまでなかった甘くて温かい匂いが部屋を覆っていた。布団を敷いて、二人で横になって、腕枕をした。エリカさんは嫌がることも疑問をもつ素振りも見せず、ただ、俺の好きなようにさせてくれた。それでもそれ以上はなにもすることは出来ず、ただ微かに濡れた髪の甘い匂いを嗅ぎながら、自分よりも小さな頭だけを抱きしめて寝た。
例えそのままエリカさんのことを抱こうと思ったとして、彼女は恐らくなんの抵抗もせずに俺に身体を預けたと思う。でも出来なかった。翌朝になって、この隣人っていう肩書きが外れてしまうのはなんだか恐い気がしたし、何よりも陽平さんと比べられるのは嫌だった。陽平さんよりも満足させてやれるような自信は、情けないことに微塵もない。だから、温かさだけ分け合って、傷を癒すみたいにして、眠った。
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