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第289話 『生麦事件交渉-4-交渉の糸口』
しおりを挟む 文久二年八月十三日(1862年9月6日)
■川棚 AM6:00
「機関は問題なし、よし、出港するぞ!」
■横浜
「え? 勘弁してくださいよ。今からすぐなんて無理ですよ。今何時だと思ってるんですか? それに今から準備できたとしても12時ですよ」
■イギリス公使館
「さて、どうぞ紅茶でも、と言いたいところですが、なかなかね。かといって何もしなければ英国紳士ではない。難しいですね。さ、どうぞ」
ニールは複雑な表情で紅茶を勧めてきた。
次郎も信正も純顕も、わずかに微笑みをうかべる程度で、何も言わずに紅茶を飲む。お世辞にも和やかな雰囲気とは言えないなか、交渉の二日目が始まった。
「何度も同じ事は言いたくありませんが、謝罪と賠償、それから犯人の引き渡しを求めます」
「よろしいでしょう」
次郎をはじめとした日本側の参加者全員が立ち上がり、深々と頭を下げた。
「え? これはまたどういう風の吹き回しで……」
「勘違いしていただきたくないのは、経緯はどうあれ、我が国の人間が、しかも大名格の行列一行が貴国の国民に対して傷を負わせた事実には変わりありません」
その言葉にニールは気を良くする。
「ははは、最初からそうしていただければ、お互いに無駄な時間を費やすこともなかったのです。では次に……」
「その前に」
次郎はニールの言葉を遮って続けた。
「その前に、貴国の国民が我が国の慣習法である、大名およびそれに準ずる者の行列に対して一般人が取るべき立ち居振る舞いをしなかった事について、謝罪を求めます」
「な、に?」
ニールは思わず声を荒らげた。紅茶を口に含んでいた秘書はむせ返り、咳き込んでいる。
「先ほども申し上げました通り、我が国には古来より続く慣習法がございます。大名行列に際し、一般人は道を譲り、下馬して敬意を表する。これは我が国では広く知れ渡った常識であり、いわば不文律です。貴国にも同様の慣習、例えば王室の馬車とすれ違った際には帽子を取り敬礼をする、といったものがあるかと存じますが、いかがですか?」
次郎は静かに、しかし強い視線でニールを見据える。
「そ、それは……確かにありますが、しかし今回の件は……」
「今回の件は、貴国の国民が我が国の慣習法を破り、大名行列を妨害した事が発端です。発砲したのが誰かは不明ですが、先に謝罪と賠償を要求されるのであれば、まずはこちらの要求に応えていただくのが筋ではないでしょうか?」
信正と純顕もうなずき、ニールを圧する。
「ま、まさか、馬に乗っていたからと……そんな馬鹿な……」
ニールは言葉を失う。慣習法などという曖昧なものに、近代国家である英国が屈するなど、考えもしていなかった。
「慣習法を軽んじては、貴国の大憲章 Magna Carta、ひいては貴国の成り立ちそのものを否定することになりかねませんぞ。Magna Cartaは慣習法ではありませんが、慣習法の発展に影響を与えた重要な成文法の一つでしょう。それこそが、貴国の憲法の根幹を成しているのではなかったのですか?」
次郎は畳み掛け、信正はニールに聞こえないように純顕に対して小さく呟いた。
「大憲章……蔵人はイギリスの法にも通じておるのか?」
純顕も小さくうなずく。
「然様。彼の者は時折、それがしの考えのはるかに及ばぬ事を考え、行います。いやはや、家中において、誇らしい限りにございます……」
ニールは額に汗をにじませ、言葉を詰まらせた。
「それに……仮にあなたの主張通り、我々が一方的に非を認めたとしても、です。今回の件は、先に発砲してきた者達への正当防衛という見方もできます。全員が銃を所持していると勘違いをし、それが過剰防衛であったとしても、全面的な非がこちらにあるとは言えません。居留地の外における治外法権は認められておりませんし、ましてや国内法に照らし合わせれば、貴国国民の罪は決して軽いものではありません」
次郎が静かに、しかし重みのある口調で付け加えた。
「ですから、我々はあくまで、事の経緯を明らかにし、公正な判断を下したいと考えております。そのためにも、上海租界への調査と、事件の関係者への聞き取り調査にご協力いただきたい。それが貴国側の誠意を示すことになるのではないでしょうか?」
ニールは、もはや紅茶どころではなくなっていた。慣習法という予想外の切り札、正当防衛の可能性、そして日本側の毅然とした態度。すべてが彼の想定外だった。
「こ、これは……」
ニールは必死に狼狽を隠そうとしている。
何者なんだこいつは! Magna Cartaだと? 慣習法? 成文法? 我が国の成り立ちだと?
ニールの目には、もはや当初の傲慢さはない。焦りと戸惑いが浮かび上がるのを必死で抑えているのだ。
「なるほど……承知しました。では、皆さん……」
ニールは深呼吸をして横にいる同席者を促して起立し、頭を下げた。
「これでイーブンという訳ではありませんが、ひとまずは今回の件に関しまして、お詫び申し上げます」
ニールは苦渋の表情でそう言った。
「確かに、謝罪を受け取りました。この件は後ほど双方が書面に記す事といたしましょう。それよりも、先ほど申し上げた調査へのご協力をお願いできますか? 事実関係を明確にすることが、双方にとって最善の道だと信じます」
次郎は冷静に答えた。ニールは内心で舌打ちをしたが、今は日本側の要求をのむ以外にないだろう。
「なるほど……承知しました。調査協力については、いったん持ち帰り検討させてください。仮に調査に協力した場合、貴国が支払うべき賠償金についてはどうなるのでしょうか?」
ニールは、何とか態勢を立て直そうと、賠償金の問題を持ち出した。
次回予告 第290話 『生麦事件交渉-5-』
■川棚 AM6:00
「機関は問題なし、よし、出港するぞ!」
■横浜
「え? 勘弁してくださいよ。今からすぐなんて無理ですよ。今何時だと思ってるんですか? それに今から準備できたとしても12時ですよ」
■イギリス公使館
「さて、どうぞ紅茶でも、と言いたいところですが、なかなかね。かといって何もしなければ英国紳士ではない。難しいですね。さ、どうぞ」
ニールは複雑な表情で紅茶を勧めてきた。
次郎も信正も純顕も、わずかに微笑みをうかべる程度で、何も言わずに紅茶を飲む。お世辞にも和やかな雰囲気とは言えないなか、交渉の二日目が始まった。
「何度も同じ事は言いたくありませんが、謝罪と賠償、それから犯人の引き渡しを求めます」
「よろしいでしょう」
次郎をはじめとした日本側の参加者全員が立ち上がり、深々と頭を下げた。
「え? これはまたどういう風の吹き回しで……」
「勘違いしていただきたくないのは、経緯はどうあれ、我が国の人間が、しかも大名格の行列一行が貴国の国民に対して傷を負わせた事実には変わりありません」
その言葉にニールは気を良くする。
「ははは、最初からそうしていただければ、お互いに無駄な時間を費やすこともなかったのです。では次に……」
「その前に」
次郎はニールの言葉を遮って続けた。
「その前に、貴国の国民が我が国の慣習法である、大名およびそれに準ずる者の行列に対して一般人が取るべき立ち居振る舞いをしなかった事について、謝罪を求めます」
「な、に?」
ニールは思わず声を荒らげた。紅茶を口に含んでいた秘書はむせ返り、咳き込んでいる。
「先ほども申し上げました通り、我が国には古来より続く慣習法がございます。大名行列に際し、一般人は道を譲り、下馬して敬意を表する。これは我が国では広く知れ渡った常識であり、いわば不文律です。貴国にも同様の慣習、例えば王室の馬車とすれ違った際には帽子を取り敬礼をする、といったものがあるかと存じますが、いかがですか?」
次郎は静かに、しかし強い視線でニールを見据える。
「そ、それは……確かにありますが、しかし今回の件は……」
「今回の件は、貴国の国民が我が国の慣習法を破り、大名行列を妨害した事が発端です。発砲したのが誰かは不明ですが、先に謝罪と賠償を要求されるのであれば、まずはこちらの要求に応えていただくのが筋ではないでしょうか?」
信正と純顕もうなずき、ニールを圧する。
「ま、まさか、馬に乗っていたからと……そんな馬鹿な……」
ニールは言葉を失う。慣習法などという曖昧なものに、近代国家である英国が屈するなど、考えもしていなかった。
「慣習法を軽んじては、貴国の大憲章 Magna Carta、ひいては貴国の成り立ちそのものを否定することになりかねませんぞ。Magna Cartaは慣習法ではありませんが、慣習法の発展に影響を与えた重要な成文法の一つでしょう。それこそが、貴国の憲法の根幹を成しているのではなかったのですか?」
次郎は畳み掛け、信正はニールに聞こえないように純顕に対して小さく呟いた。
「大憲章……蔵人はイギリスの法にも通じておるのか?」
純顕も小さくうなずく。
「然様。彼の者は時折、それがしの考えのはるかに及ばぬ事を考え、行います。いやはや、家中において、誇らしい限りにございます……」
ニールは額に汗をにじませ、言葉を詰まらせた。
「それに……仮にあなたの主張通り、我々が一方的に非を認めたとしても、です。今回の件は、先に発砲してきた者達への正当防衛という見方もできます。全員が銃を所持していると勘違いをし、それが過剰防衛であったとしても、全面的な非がこちらにあるとは言えません。居留地の外における治外法権は認められておりませんし、ましてや国内法に照らし合わせれば、貴国国民の罪は決して軽いものではありません」
次郎が静かに、しかし重みのある口調で付け加えた。
「ですから、我々はあくまで、事の経緯を明らかにし、公正な判断を下したいと考えております。そのためにも、上海租界への調査と、事件の関係者への聞き取り調査にご協力いただきたい。それが貴国側の誠意を示すことになるのではないでしょうか?」
ニールは、もはや紅茶どころではなくなっていた。慣習法という予想外の切り札、正当防衛の可能性、そして日本側の毅然とした態度。すべてが彼の想定外だった。
「こ、これは……」
ニールは必死に狼狽を隠そうとしている。
何者なんだこいつは! Magna Cartaだと? 慣習法? 成文法? 我が国の成り立ちだと?
ニールの目には、もはや当初の傲慢さはない。焦りと戸惑いが浮かび上がるのを必死で抑えているのだ。
「なるほど……承知しました。では、皆さん……」
ニールは深呼吸をして横にいる同席者を促して起立し、頭を下げた。
「これでイーブンという訳ではありませんが、ひとまずは今回の件に関しまして、お詫び申し上げます」
ニールは苦渋の表情でそう言った。
「確かに、謝罪を受け取りました。この件は後ほど双方が書面に記す事といたしましょう。それよりも、先ほど申し上げた調査へのご協力をお願いできますか? 事実関係を明確にすることが、双方にとって最善の道だと信じます」
次郎は冷静に答えた。ニールは内心で舌打ちをしたが、今は日本側の要求をのむ以外にないだろう。
「なるほど……承知しました。調査協力については、いったん持ち帰り検討させてください。仮に調査に協力した場合、貴国が支払うべき賠償金についてはどうなるのでしょうか?」
ニールは、何とか態勢を立て直そうと、賠償金の問題を持ち出した。
次回予告 第290話 『生麦事件交渉-5-』
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