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第282話 『生麦事件』
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文久二年七月二十一日(1862年8月16日)生麦村
雲一つない晴天。東海道の生麦村付近を、薩摩藩主・島津忠義の父、島津三郎久光の一行がゆっくりと進んでいた。江戸での交渉を終え、薩摩への帰路についたのだ。
「国父様、少々お休みになってはいかがですか?」
供をする家老が声をかけたが、久光は首を横に振った。
「いや、まだよい。もう少し進むと茶屋がある。そこで休憩しよう」
久光は緊張していた。幕府との交渉は、思惑通りには進まなかった。譜代の実力者、安藤信正に手玉に取られた形だ。このままでは薩摩藩の望む改革は実現できない。焦燥感が募っていた。
薩摩藩主の島津忠義は23歳。
五大老として江戸城に詰めていても、他の大老や安藤信正ら幕閣に押されかねない。そのため久光は江戸に留まり、忠義を補佐して今後の幕政に陰ながら関与していこうと考えていたのだ。
ところが、である。
『藩主とその父である三郎殿、父子で江戸に留まるとは如何なものか。これでは参勤を免じている意味がない』
そう信正に告げられたのだ。
『上様の上洛と五大老、各役職については承った。二十四条についても協議中ゆえ、三郎殿はゆるりと薩摩に戻られてはいかがか?』
久光としては、江戸に留まる理由がなくなったのだ。このまま江戸に居座ることは、参勤を免じていることと矛盾する。本来藩主とは、藩にあって藩政を司るものである。
将軍にまみえるために参勤を行い、それを3年に1回に、滞在を100日に減らせというのだ。そもそも島津家は妻子こそ江戸にいるが、その忠義を信じ、海防のために参勤を免じられていた。
ここで無理に江戸に滞在すれば、自らの言動を否定する事になるのだ。
「殿、なぜ海路をお使いにならないのですか?」
家老は久光の真意が読めずにいた。江戸での交渉は難航し、疲弊しているはずなのに、なぜわざわざ人目に立つ陸路を選ぶのか。大村藩の定期船も出ている。
「わしは薩摩の、そしてこの日本の未来のために戦っている。その姿を、人々に示す必要があるのだ」
久光は遠くを見つめ静かに言い、家老の目を見据える。
「公儀の改革はまだ終わりではない。思い通りにはいかなかったが、それでも島津ここにあり、という気概を見せることはできよう。この旅を通じて、民にそのことを伝え、彼らの支持を得たいのだ」
懐から一枚の地図を取り出し、久光は家老に見せた。そこには、陸路沿いにいくつかの藩に印がつけられている。
「この旅は、単なる帰国ではない。各藩の要人との会談も重要な目的だ。公儀を変えるには、薩摩だけでは足りぬ。西国の家中との連携が不可欠だ。わしはこの目で彼らの現状を確かめ、直接会って腹を割って話をする必要がある。書状では、真意は伝わらぬ」
久光は、決意を新たにしたように拳を握りしめた。
「この東海道の旅路こそが、改革への機運を高め、他の家中との連携を強固にする絶好の機会なのだ」
「道を開けよ!」
先頭の薩摩藩士が身振り手振りで、下馬して道を譲るよう丁寧に指示したのは、前方から現れた4名の外国人一行である。
イギリス人のウッドソープ・チャールズ・クラーク、ウィリアム・マーシャル、マーガレット・ボロデール夫人、そしてチャールズ・レノックス・リチャードソンだ。
彼らの後ろには、人目を引かないように二人の男が続いていた。
薩摩藩士は身振り手振りで、できるだけ分かりやすく伝えようとする。しかし、外国人たちには理解が及ばないようだ。そうこうしているうちに鉄砲隊の列も突っ切り、ついに久光の駕籠の近くまで迫ってきた。
周囲の侍たちが声を荒らげ始める。
「無礼者!」
奈良原喜左衛門をはじめとする薩摩藩士たちが、最後の警告として刀を振りかぶった。
斬るつもりはない、ただの威嚇だ。
しかしその直後、突如として2発の轟音が響き渡った。後方にいた二人の男が地面に向かって発砲したのだ。土煙が巻き上がる。
「何事か!」
「外国人が乱入し、銃を撃ちましてございます!」
久光は駕籠の窓を開けて家老に聞くが、詳しく説明する間もなく混乱はまたたく間に広がっていく。
威嚇のつもりで振りかぶっていた刀が、驚いて暴れた馬の上のリチャードソンに向かう。
奈良原の刃が閃き、リチャードソンの肩口を深く切り裂いた。驚愕の表情を浮かべる外国人に、鉄砲隊の久木村治休が続けざまに斬りつけ、致命的な一撃を加えた。
「制止せよ!」
久光の声が響く前に、事態は収拾がつかなくなっていた。リチャードソンは深手を負って落馬。他の三人も混乱の中で傷を負い、必死に逃走を図る。
銃を発砲した二人の男の姿は、混乱に紛れていつの間にか消えていた。
「Wait! I'm a doctor! We can treat you!」
(待って! 私は医者です! 治療できます!)
その時、突如として数名の男たちが現れた。
白衣姿の医師が逃げゆく三人に向かって英語で叫ぶと、別の者が家老に向かって言う。
「ここはお任せください! 行き違いとはいえ、絶対に死なせてはなりません!」
と声を張り上げた。
クラーク、マーシャル、そしてボロデール夫人は足を止めて振り返る。
「What was that voice? (何だ今の声は?)」
「I don't know. It sounds like a doctor. (わからない。医者のようではあるが)」
「Better yet, let's get out of here! (それよりも、ここから逃げましょう!)」
3人が戸惑っていると、医師団の中から3人が近づき、言う。
「Rest assured. He will surely help you. And you guys will definitely be treated here instead of going to the consulate.(安心してください。彼は必ず助けます。あなた達も領事館に行くよりもここで治療した方が間違いない)」
想像を超えた流暢な英語と、素早くリチャードソンの応急処置を行っている医師たちを見て、他の3人も留まる事を決めたようである。
医師団は手慣れた様子で全員に応急処置を施すと、すぐ近くに建てられていた診療所へと運び込んでいった。
「犯人の行方は!」
家老が叫ぶ。
「銃を発砲した二人を追え! 決して取り逃すな!」
「この儀、直ちに神奈川奉行所へ届け出よ」
久光は静かに命じた。
「大村藩の医師たちの処置も報告せよ。そして何より、あの二人の身元を突き止めねばならぬ」
■大村藩 理化学研究所
「なに? 機銃と大砲とな?」
次郎は村田蔵六と田中儀右衛門より報告を受けていた。
「は。各人が持つ小銃の連発は配備がなされましたが、複数人で扱い、拠点の確保等に使える機銃、ならびに元込め式の大砲について、開発の目処が立ちましてございます」
転炉の開発により大量の鋼鉄の生産が可能となったのは、昨年11月の事だ。大砲のライフリングと後装砲は時間がかかったようだが、ライフリングはクルップ砲が参考になったようである。
機関銃と言えばこの時期はガトリング砲が有名だが、アームストロング砲と合わせて開発の目処ができたのだろうか?
しかし、次郎の喜びとは正反対に、予想通り、恐れていた事件は起こっていたのである。
次回予告 第283話 『生麦事件のその後とエイガー機銃とアームストロング砲』
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「国父様、少々お休みになってはいかがですか?」
供をする家老が声をかけたが、久光は首を横に振った。
「いや、まだよい。もう少し進むと茶屋がある。そこで休憩しよう」
久光は緊張していた。幕府との交渉は、思惑通りには進まなかった。譜代の実力者、安藤信正に手玉に取られた形だ。このままでは薩摩藩の望む改革は実現できない。焦燥感が募っていた。
薩摩藩主の島津忠義は23歳。
五大老として江戸城に詰めていても、他の大老や安藤信正ら幕閣に押されかねない。そのため久光は江戸に留まり、忠義を補佐して今後の幕政に陰ながら関与していこうと考えていたのだ。
ところが、である。
『藩主とその父である三郎殿、父子で江戸に留まるとは如何なものか。これでは参勤を免じている意味がない』
そう信正に告げられたのだ。
『上様の上洛と五大老、各役職については承った。二十四条についても協議中ゆえ、三郎殿はゆるりと薩摩に戻られてはいかがか?』
久光としては、江戸に留まる理由がなくなったのだ。このまま江戸に居座ることは、参勤を免じていることと矛盾する。本来藩主とは、藩にあって藩政を司るものである。
将軍にまみえるために参勤を行い、それを3年に1回に、滞在を100日に減らせというのだ。そもそも島津家は妻子こそ江戸にいるが、その忠義を信じ、海防のために参勤を免じられていた。
ここで無理に江戸に滞在すれば、自らの言動を否定する事になるのだ。
「殿、なぜ海路をお使いにならないのですか?」
家老は久光の真意が読めずにいた。江戸での交渉は難航し、疲弊しているはずなのに、なぜわざわざ人目に立つ陸路を選ぶのか。大村藩の定期船も出ている。
「わしは薩摩の、そしてこの日本の未来のために戦っている。その姿を、人々に示す必要があるのだ」
久光は遠くを見つめ静かに言い、家老の目を見据える。
「公儀の改革はまだ終わりではない。思い通りにはいかなかったが、それでも島津ここにあり、という気概を見せることはできよう。この旅を通じて、民にそのことを伝え、彼らの支持を得たいのだ」
懐から一枚の地図を取り出し、久光は家老に見せた。そこには、陸路沿いにいくつかの藩に印がつけられている。
「この旅は、単なる帰国ではない。各藩の要人との会談も重要な目的だ。公儀を変えるには、薩摩だけでは足りぬ。西国の家中との連携が不可欠だ。わしはこの目で彼らの現状を確かめ、直接会って腹を割って話をする必要がある。書状では、真意は伝わらぬ」
久光は、決意を新たにしたように拳を握りしめた。
「この東海道の旅路こそが、改革への機運を高め、他の家中との連携を強固にする絶好の機会なのだ」
「道を開けよ!」
先頭の薩摩藩士が身振り手振りで、下馬して道を譲るよう丁寧に指示したのは、前方から現れた4名の外国人一行である。
イギリス人のウッドソープ・チャールズ・クラーク、ウィリアム・マーシャル、マーガレット・ボロデール夫人、そしてチャールズ・レノックス・リチャードソンだ。
彼らの後ろには、人目を引かないように二人の男が続いていた。
薩摩藩士は身振り手振りで、できるだけ分かりやすく伝えようとする。しかし、外国人たちには理解が及ばないようだ。そうこうしているうちに鉄砲隊の列も突っ切り、ついに久光の駕籠の近くまで迫ってきた。
周囲の侍たちが声を荒らげ始める。
「無礼者!」
奈良原喜左衛門をはじめとする薩摩藩士たちが、最後の警告として刀を振りかぶった。
斬るつもりはない、ただの威嚇だ。
しかしその直後、突如として2発の轟音が響き渡った。後方にいた二人の男が地面に向かって発砲したのだ。土煙が巻き上がる。
「何事か!」
「外国人が乱入し、銃を撃ちましてございます!」
久光は駕籠の窓を開けて家老に聞くが、詳しく説明する間もなく混乱はまたたく間に広がっていく。
威嚇のつもりで振りかぶっていた刀が、驚いて暴れた馬の上のリチャードソンに向かう。
奈良原の刃が閃き、リチャードソンの肩口を深く切り裂いた。驚愕の表情を浮かべる外国人に、鉄砲隊の久木村治休が続けざまに斬りつけ、致命的な一撃を加えた。
「制止せよ!」
久光の声が響く前に、事態は収拾がつかなくなっていた。リチャードソンは深手を負って落馬。他の三人も混乱の中で傷を負い、必死に逃走を図る。
銃を発砲した二人の男の姿は、混乱に紛れていつの間にか消えていた。
「Wait! I'm a doctor! We can treat you!」
(待って! 私は医者です! 治療できます!)
その時、突如として数名の男たちが現れた。
白衣姿の医師が逃げゆく三人に向かって英語で叫ぶと、別の者が家老に向かって言う。
「ここはお任せください! 行き違いとはいえ、絶対に死なせてはなりません!」
と声を張り上げた。
クラーク、マーシャル、そしてボロデール夫人は足を止めて振り返る。
「What was that voice? (何だ今の声は?)」
「I don't know. It sounds like a doctor. (わからない。医者のようではあるが)」
「Better yet, let's get out of here! (それよりも、ここから逃げましょう!)」
3人が戸惑っていると、医師団の中から3人が近づき、言う。
「Rest assured. He will surely help you. And you guys will definitely be treated here instead of going to the consulate.(安心してください。彼は必ず助けます。あなた達も領事館に行くよりもここで治療した方が間違いない)」
想像を超えた流暢な英語と、素早くリチャードソンの応急処置を行っている医師たちを見て、他の3人も留まる事を決めたようである。
医師団は手慣れた様子で全員に応急処置を施すと、すぐ近くに建てられていた診療所へと運び込んでいった。
「犯人の行方は!」
家老が叫ぶ。
「銃を発砲した二人を追え! 決して取り逃すな!」
「この儀、直ちに神奈川奉行所へ届け出よ」
久光は静かに命じた。
「大村藩の医師たちの処置も報告せよ。そして何より、あの二人の身元を突き止めねばならぬ」
■大村藩 理化学研究所
「なに? 機銃と大砲とな?」
次郎は村田蔵六と田中儀右衛門より報告を受けていた。
「は。各人が持つ小銃の連発は配備がなされましたが、複数人で扱い、拠点の確保等に使える機銃、ならびに元込め式の大砲について、開発の目処が立ちましてございます」
転炉の開発により大量の鋼鉄の生産が可能となったのは、昨年11月の事だ。大砲のライフリングと後装砲は時間がかかったようだが、ライフリングはクルップ砲が参考になったようである。
機関銃と言えばこの時期はガトリング砲が有名だが、アームストロング砲と合わせて開発の目処ができたのだろうか?
しかし、次郎の喜びとは正反対に、予想通り、恐れていた事件は起こっていたのである。
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