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第258話 『戦後処理その3:日露戦争が起きるのか?』

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 文久元年四月二十一日(1861/5/31) 箱館奉行所

「では領事、時間には限りがありますので、さっそく本題に入らせていただきます」

 次郎は挨拶もそこそこに、対馬で起きたロシア軍艦領土侵犯事件についての会談を始めた。

「まず始めに、こちらのサインを。今後は議事録を確認し、相互に署名して保管する方法をとりましょう。……ああそれ、そこに置いてくれ。距離はこのくらいでいいか? 良し。では始めてくれ」




 私ヨシフ・ゴシケーヴィチはロシア帝国の外交官であり、駐日ロシア帝国領事である。私の発言はロシア帝国の正式見解である。




「なんですかなこれは?」

「見ての通りです。その理由はさきほど話しました。心得違いをなくし、言葉の齟齬が起きないようにです」

「何もそこまでしなくても」

「いえ、念には念をいれませんとね」

 次郎はまったくの無表情である。

 お前が何を言っているのか? と事務的に、淡々とこなしている。横にいる村垣範正と竹内保徳は苦虫を噛みつぶしたような顔をしているし、川路聖謨はうっすらと不気味な笑みを浮かべている。

 ゴシケーヴィチに日本側の硬直した雰囲気は伝わったが、それよりも気になったのは、ロシア側と日本側のちょうど中央にある、奇妙なラッパのような金属管が飛び出した巨大な横長の機械である。

「太田和殿、これはいったい……」

「ああ、お気になさらずに。実験のようなものです。単なるフォノグラフですよ。フォノグラフ。まったく交渉には関係ありません」

「まあ、それなら良いですが……」




 ■遡る事4年~安政四年二月二十三日(1857/3/18) 大村藩庁

 次郎達は江戸での襲撃の治療のために大村に戻っており、ほぼ全快した次郎は、藩庁に精煉方の宇田川興斎を呼んでいた。襲撃の犯人を捜すことも重要だったが、4か国協議が行われて、次郎には身に染みて感じた事があったのだ。

「信之介から聞いたと思うけど、人の言葉や音楽を残せる『蓄音機』を作って欲しい。大変だとは思うが、よろしく頼む」

「は、伺っております。あの方の考えはいつも突飛ではありますが、突き詰めていけば必ず結果となって現れますゆえ、何も案じてはおりませぬ。ただし、見た事も聞いたこともない物ゆえ、少々お時間をいただきとうございます」

 興斎は笑顔で答え、次郎も返す。

「無論だ。信之介の助言があったとて、無から有をつくるのは至難の業。諦めずに作り上げて欲しい」

「ははっ」


 

 ■3か月前~万延二年一月七日(1861/2/16) 大村藩庁 <次郎左衛門>

 京都での朝廷工作や長井雅楽との会談を経て、お里と一緒にオレは大村に戻ってきていた。

「おおこれは興斎殿、如何なされた? いや済まぬ。精煉方にも行こうとは思っていたのだが、なにぶん忙しくての」

 笑いながら宇田川興斎に挨拶した。宇田川興斎は今は亡き上野俊之丞と同時期に大村に遊学に来てから、精煉方電気部門のNo.2として研究開発を行っていたのだ。

「いえ、とんでもありません。御家老様に比べれば我らの苦労など」

「ははははは、謙遜しなくてもよい。ところで象山殿は?」

「あの方は研究に没頭されておりますよ。本日も電気開発方の長として御家老様に研究の事様(状況)を説いて(説明して)いただくようお願いしたのですが、如何ともし難く」

「あの爺さんらしいと言えば、らしいな……。ああいや、失礼これはオフレコで、あ、いや何でもない」

 オレはごまかした。どころで報告とはなんだろう?

「して、ゆっくり視察もできていないが、精煉方の研究の進み具合を報せにきたのだろうか」

「は、他部署は報せが来ているかと存じますが、此度は以前ご依頼の蓄音機の試作品ができましたので。お報せに参った次第にござます」

「なに? ついにできたのか?」

 オレは小躍りしたいくらいだ。いや、実際に小躍りした。

「はい、最初の試作品はわずか2分程度しか録音できませんでしたが、これは長いものを作っておりますので、1本で約25分ほど音を残す事ができまする」

「すごい! すごいぞ! さすが精煉方であるな! 大儀である! では素早くしかと扱えるように、技術者の調練をしかと頼むぞ」

「ははっ」




 ■戻って現在 箱館

 ゴシケーヴィチは蓄音機が気になって仕方がない。得体の知れない物体がクルクル回っているのだ。何を考えているのだ? その思いが頭から離れない。

「領事、まずお伺いしたい。現在の状況について、領事はどうお考えか?」

「現状は極めて深刻です。我が国の軍艦撃沈は、両国関係に重大な影響を及ぼすでしょう」

 ゴシケーヴィチは深く息を吐いて緊張した面持ちで答えたが、次郎は冷静に、しかし鋭い眼差しで応じた。
 
「では、貴国軍艦の対馬での行動については、どのようにお考えですか」

「我が艦隊の行動は正当なものです。対馬での活動は必要不可欠でした」

 ゴシケーヴィチは顔を引き締め、強い口調で返答したが、次郎は無表情で冷静に問い返した。

「日露領土主権条約をお忘れですか。第一条から第三条に基づき、我が国の対応は正当なものです」

 ゴシケーヴィチは眉をひそめ、声に力を込めて答える。
 
「条約の解釈には異議があります。我が国の行動は緊急時の対応として正当化されます」
 
 次郎は冷静に、しかし鋭い視線で問い返す。
 
「緊急時とは具体的にどのような状況だったのですか。説明してください」

「艦船に損傷があり、即時の修理が必要でした。乗組員の安全が脅かされていたのです」

 ゴシケーヴィチは机を軽く叩き、前のめりになって説明したが、次郎は腕を組んで淡々とした口調で尋ねる。
 
「なるほど、なるほど……。ちなみに緊急性の高い事案のようですが、箱館から連絡船を使って対馬まで行き、帰ってくるまでどのくらいの時間がかかりましたか? また、仮に生死に関わるような緊急の事態とは? 浸水ですか? 機関停止ですか? 機関が止まったとしても帆走は可能でしょう? お答えください」

「箱館からの往復時間は正確には把握していません。現地の判断で行動しました」

 ゴシケーヴィチは顔を強張らせ、言葉を選びながら答えたが、次郎は冷静に追及した。
 
「では、緊急事態の具体的な内容をお聞かせください。どの程度の損傷だったのですか」

 ゴシケーヴィチは額に汗を浮かべ、声を落として返答する。
 
「詳細な報告は受けていません。艦長の判断を信頼しての対応でした」

 次郎は呆れを通り越して、笑いがこみ上げてきそうになるのを必死でこらえる。

「はあ……。では話を戻しますが、条約の解釈には意義がある、とは具体的にはどこに異議があるのですか?」

「第一条の『無断侵入』の定義に問題があります。緊急時の一時的停泊は侵入に当たらないと解釈すべきです」

 ゴシケーヴィチは姿勢を正し、声に力を込めて答えた。

「緊急性の証明ができていない以上、その解釈は成立しません。他にはありますか」

 次郎は眉をひそめ、冷静に返すが、ゴシケーヴィチは机を軽く叩き、前のめりになって続ける。
 
「第二条の『主権侵害』についても、我が国の行動は領土の占拠を意図したものではありません」

 次郎は腕を組み、ツッコミどころが多すぎて、どこから話そうかしばらく考えた。




「おそらく、第五条の第一項の事を仰っているかと思いますが、確かに誠実に協議し、解決するとあります。ただ、連絡船の航程も知らない、現場の状況もしらない、知ろうとしない貴国の態度、これが誠実だと言えますか? また、今回の事案が発生して、何回連絡船を送ったんですか?」

「連絡船の回数は正確に把握していません。現地との通信に課題があったのは事実です」

 ゴシケーヴィチは慎重に答えた。

 次郎は変わらず無表情で鋭い視線で問い返す。
 
「通信の課題とは具体的に何ですか。説明してください」
 
「天候不良や機器の不具合など、様々な要因が考えられます」

「推測ではなく、事実を述べてください。具体的な障害は何だったのですか」

「申し訳ありません。詳細な報告を受けていないため、正確な情報をお伝えできません」

「詳細な報告を受けてないとは。それが不誠実だと言うのです。主張を通すなら、必要な情報を提供していただかなければ話になりません。まったく貴国の誠意が見えませんが、いかがですか」

 ゴシケーヴィチは机を軽く叩き、声を荒らげて反論する。
 
「誠意はあります。ただ、軍事機密に関わる部分もあり、全てを開示できないのです」

「軍事機密とは、我が国の領土内での行動を指すのですか? それは主権侵害ではないですか? さきほども聞きましたが、そもそも乗組員の安全が脅かされるような障害とは何ですか? 浸水ですか、ボイラーの故障ですか? であれば帆走でも航行は可能でしょう。長崎へ向かえばよろしい。浸水ならば、まずは測量よりも浸水を止めるのが先ではありませんか?」

「具体的な損傷状況は把握していません。艦長の判断を尊重しての行動です」

 ゴシケーヴィチは顔を強張らせ、声を抑えて答えた。

「判断の根拠が不明では、説得力に欠けます。協議しようにも知らない、わからない、把握してないでは、貴国に誠意がないととられても仕方ありませんよ」

 次郎が冷静に、しかし鋭い視線で問い返すと、ゴシケーヴィチは額の汗を拭いながら、言葉を選んで返答する。

「緊急時の対応には、現場の裁量が必要です。全てを事前に報告するのは困難です」

「いや、誰に対する事前報告ですか?」

「艦長から本国への報告のことです」

 次郎の問いに短く領事は答えた。

「はあ……私はそんなことを言っているのではありません。サンクトペテルブルグにも、箱館にすら指示を仰ぐ余裕はないでしょう。そうじゃない、現場の艦長の行動が問題だといっているんです。海軍の艦艇の艦長ならば、国際常識に通じているのは無論の事、昨年締結された日露領土主権条約も知っているでしょう? そうですよね?」

「艦長は条約を承知しているはずです。しかし、緊急時の判断は複雑です」
 
「緊急時だからこそ、条約に基づいた適切な行動が求められるのではないですか」

「ご指摘の通りです。今後は艦長への指導を徹底します」

 ゴシケーヴィチは額の汗を拭いながら、言葉を選んで返答した。

「その必要はありません。貴国の海軍軍艦は我が国の正当な権利により撃沈したのですから、すでに存在しません」

 ゴシケーヴィチは顔を強張らせ、声を震わせて答えた。
 
「撃沈は極めて重大な事態です。我が国としても看過できません」
 
 次郎は冷静に、しかし鋭い視線で問い返す。
 
「看過できないと仰っても、非があるのは貴国ですよ。度重なる警告にも拘わらず無断で投錨し、無断で測量し、無断で上陸して、無断で小屋を建て、無断で練兵場を造り、無断で野山を歩き回り、あろう事か芋崎の借り入れを申し入れ、そして警備兵を射殺した。これだけの事をして、撃沈されるのは当然でしょう」

 ゴシケーヴィチは顔を青ざめさせ、声を絞り出すように答えた。
 
「それらの行為に関しては、誤解があると思います」
 
 次郎は眉をひそめ、冷静に問い返した。

「はあ、(日本語で:もういい加減にしてくれよ)では確認します。はいかいいえで答えてください」

 許可をもらって投錨しましたか?
 許可をもらって測量しましたか?
 許可をもらって上陸しましたか?
 許可をもらって小屋を建てましたか?
 許可をもらって練兵場を造りましたか?
 許可をもらって山野を闊歩しましたか?

「いかがでしょうか?」

 ゴシケーヴィチは顔を強張らせ、声を震わせながら答えた。
 
「それぞれの行為には、やむを得ない事情がありました」
 
 次郎は冷静に、しかし鋭い視線で追及する。
 
「質問には、はい・いいえで答えてください。それにどんなやむを得ない事情で、土地の借り受けを申し出るのですか? 百歩譲って修理だとしても、借り受ける必要はまったくない」

 ゴシケーヴィチは顔を青ざめさせ、言葉を選びながら答える。
 
「それは……長期的な安全確保のための措置でした」

「長期的とおっしゃいましたね。つまり、緊急事態ではなかったということです」

「いえ、当初は緊急でしたが、状況が変化して……」




「領事、では領事にも同じ経験をしていただきましょう」

「え? それは一体どういう……」

「まあまあ、少し休憩して箱館湾でも見に行きましょう」




 ■箱館港 

 港内には大村海軍第一艦隊の清鷹(1,700t)・瑞鳳(1,000t)・祥鳳・瑞雲(800t)・徳行(400t)・蒼龍(360t)、第二艦隊の輝鷹(1,700t)・天鳳(1,000t)・烈鳳・祥雲(800t)・至善(400t)が停泊していた。

「こ、これは一体……」

「清鷹と輝鷹にはクルップ砲とペクサン砲が二十門、その他の艦艇にもそれなりの火力があります。確かポサドニック号は800トン級でしたな。この目で見たからわかります。ここには同等以上が八隻あります。速度はどれも同じくらいはでますぞ。これに乗ってそうですな……昨年建設されはじめたばかりのウラジオストクがいいですか? それともペトロパブロフスク? ニコラエフスク? どこでもいいですが、これから私が指揮して行こうと思います」

 ゴシケーヴィチは顔面蒼白となり、声を震わせて答えた。
 
「こ、これは明らかな脅迫です。国際法違反です」

 次郎は冷静に、しかし鋭い視線で問い返す。
 
「脅迫? 貴国の行為と同じことをしているだけですが」

 ゴシケーヴィチは額に汗を浮かべ、必死に弁明する。
 
「我が国の行為は緊急時の対応でした。これとは状況が異なります」

「領事、何を仰っているんですか。沿岸を目視できる近海を航行するだけですよ。そこで、たまたま艦に不具合が起き、たまたま緊急を要する事案が発生し、たまたま許可もとらずに測量して上陸し、たまたま兵舎をたて、たまたま緊急に迫られて借り受けを願いでるだけですよ。ああ、もちろん、起きるかどうかはわかりませんがね」




 議論は平行線をたどって翌日に持ち越した。




 次回 第259話 (仮)『ロシアはいいのに、日本は悪いのか?』
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