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第226話 『島津斉彬と出兵上洛』

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 安政五年十月二日(1858/11/7) 鹿児島城

「おお、よくぞ参った。次郎左衛門よ。丹後守殿はご承知なされたか?」

 島津斉彬の第一声である。

 斉彬の目的は挙兵して幕府に対して明確な反対の意を表し、まだ朝廷より宣下を受けていない家茂を廃して慶喜を立て、井伊直弼の大老としての失策を糾弾し、雄藩連合にて幕政を行う事であった。

「薩摩守様におかれましてはご機嫌麗しく、重畳至極に存じ奉りまする」

「世辞はよい。如何いかがだ」

「は、さればはばかりながら申し上げまする。わが殿丹後守様は薩摩守様のご出兵に、助力はできぬと仰せにございました。加えて、軽挙妄動を慎んでいただきたく、某をここへ遣わされました」

「なんと!」

 斉彬の表情からは軽挙妄動と聞いて、驚きと少しの怒り、そして戸惑いが見受けられた。

「ふむ……では聞きたい。丹後守殿は開国派で、国内においては徳川譜代のみによる公儀の在り方より、親藩や有力大名を含めた合議で行う事を良しと考えておられると思うておったが、違うのか?」

「然に候わず。我が殿は日本は各地を治める諸大名の集まりだと考えておられますので、薩摩守様の仰せに相違ございませぬ」

「ならば……」

 斉彬は一呼吸置いて続ける。

「ならば何故なにゆえ、同じては頂けぬのか。井伊掃部頭をこのままにしておけば、公儀はますます我らを締め出し、我らの事など全く構わぬ、公儀の事だけを考えた政を行うであろう。それでよいのか?」

「然に候わず。我が殿は斯様かような事様での下、武を伴って行うは大義がなく、また万が一戦となった場合に、勝てる見込みがあるのかと仰せにございました」

 斉彬は次郎左衛門の言葉に表情を険しくしたが、しばらく考えた後に低い声で答えた。

「大義ありや、とな? 我らが公儀の専横を正し、この国を新たな道へ導くことが、大義ではないと申すのか? 井伊の横暴を許せば、この国はますます閉じられ、公儀のための政が行われるようになるぞ。それを座して待てと?」

「然ればお伺いいたします。井伊掃部頭様の横暴とは如何いかに?」

 斉彬は次郎の質問に対して深く息を吐いた後、静かに、しかし力強く語り始めた。

「よく聞くのだ。まず、朝廷の意を無視した条約の調印だ。内諾を得ていたとは言え、それは天子様の宸襟しんきんを悩まさず、民心の乱れのないように、という題目がついておった。にもかかわらず、神戸開港と大阪の開市を認めておる。これは天子様の権威を軽んじる行いであり、許されることではない」

 斉彬は一瞬言葉を切り、次郎の反応を確かめた。

「次に、公方様の後継を決める上での強引な手法だ。一橋様を押しのけ、紀州様を後継に指名した。これは単なる人事ではない。国を導く器として相応しい人物を選ぶべきところを、己の利益のみを考えた選択をしたのだ」

 斉彬はさらに続けた。

「加えて公儀の非を唱えるものを許さぬ姿勢が目に余る。このままでは、異論を唱える者たちへの弾圧も時間の問題だろう。国を思う志士たちの声を封じ込めようとしているのだ」

 斉彬は再び次郎左衛門の方を向いた。

「これらの行いは、すべて井伊個人の野心と欲に基づくものだ。国の将来を考えず、公儀の権を強め、保つ事のみに固執している。このまま進めば、我が国は世界に取り残されてしまう。我々が立ち上がらねば、誰がこの国を正しい方向に導くというのだ。これこそが我々の大義であり、務めではないか」

 どれくらいの時が流れたであろうか。次郎はゆっくりと息を吸い、そして吐いた。その後、斉彬の主張を論破していく。

「うべなるかな(なるほど)。薩摩守様の深謀遠慮、この次郎左衛門、感服仕りましてございます。然れど、いささか申し上げたき儀がございます。まずは条約の締結についてにござるが、掃部頭様は最後まで勅許ありきで考えていらっしゃいました。決して肩を持つわけではございませぬ。これは朝廷にもその旨使者が遣わされております」

 また……と次郎も同じように斉彬の表情をうかがう。

「公方様後継の儀にございますが、これまで公儀開闢かいびゃく依頼、英明さより血筋を最も重しとしてきたのではありませぬか。幼君をその側近が傀儡かいらいとするならば、一橋殿は英明とはいえ、その父君は水戸殿にございます。世間は何も変わらぬただの権の奪い合いとみますぞ。弾圧と申しましても只今ただいまは不時登城の罪にておとがめを受けているのみ。これのみで果たして弾圧といえましょうか」

 斉彬は次郎の言葉を聞きながら眉をひそめた。
  
 その表情には、反論への苛立ちと同時に、相手の論理的な主張に対する認識も浮かんでいた。しばらくの沈黙の後、斉彬は深いため息をつき、ゆっくりと口を開いた。
 
「うべな(なるほど)。お主の言い分もわからぬではない。然れど本質を見誤ってはならぬ。掃部頭が最後まで勅許を求めていたことは承知したとしよう。然れど結果として、朝廷の考えを無視して調印を強行したことに変わりはない。これは単なる手続きの問題ではなく、国の根幹に関わる決定だ」

「では如何すれば良かったのですか? 神戸の開港と大阪の開市を朝廷が認めるとは思えませぬ。認めたとして半年後でしょうか、一年後でしょうか。それとも二年、三年後でしょうか。米利堅国がそれまで待ってくれますか。その間に英吉利と仏蘭西が艦隊を率いてやってきましょうぞ。その際は如何なさるおつもりですか」

「……われらが一丸となって戦えば、勝てずとも負ける事はない」

「然様な事では幾万もの無辜むこの民の命を危うくいたしますぞ。勝てぬ戦はしてはなりませぬ」

 驚いた事に、次郎は井伊直弼に話した持論とまったく逆の事をいっているのだ。戦えば必ず負ける。その際は責任がとれるのか等々である。負ける戦いはしてはならない。

 井伊直弼には勝たずとも負けない、お前らの損害も大きいぞ、それでもやるか? と脅せば良いと言い、島津斉彬には戦えば必ず負けるから、急いで調印するほかなかった、と説明したのだ。

 これは対外的な事だけではない。5千の兵を率いて上洛しても、長期戦となれば薩摩は必ず負けるとも説明した。

「では如何すればよいのだ?」

「何もならさぬ事です」

「何もせぬ、だと? 井伊のやりたいようにさせると言うのか?」

「然に候わず。武を用いずともよろしいのです」

「如何致すのだ?」

 斉彬は訳がわからぬ様子である。事態を打開する策があるのだろうか。

「隠居、謹慎しなければいいのです」

「なん、だと?」

「無論、さらに厳しい処罰を覚悟はせねばならぬでしょう。然れど、その程度の覚悟なくして国事を語るというのはいかがなものかと存じます」

「次郎左衛門、お主聞いてはいたが、なかなかはっきり物を言うではないか」

「申し訳ありませぬ。無礼を承知で申し上げました」

 斉彬はムッとした表情をみせたものの、次郎の明快な論理に頭のもやが晴れたように、質問する。

「もし、命に服さねば如何なる?」

「恐らくは改易、切腹もあるやもしれませぬ。然れど、然様な事にならぬよう、某、朝廷に赴き、そもそも井伊掃部頭様の処罰が厳しいが故に、斯様な仕儀にあいなったと、処分の減免を命じる勅許を賜ろうかと考えております」

 斉彬は次郎左衛門の言葉に、しばらく沈黙した。
  
 その言葉が意味するところの重大さを深く考えていたのだ。斉彬は確かに、井伊直弼の専横に対して行動を起こすべきと考えていたが、次郎左衛門が提案する策は、それまでの斉彬の思考にはなかったものであった。

「ふむ、朝廷から勅許を賜る、というのか……。然れど、朝廷が井伊掃部頭の処罰にまで口を挟むことが能うのか?」

 斉彬の質問には懐疑かいぎが含まれていた。幕府の力が強く、朝廷はその象徴的な権威こそあれ、実際の政治的影響力は限定的であるというのが一般的な見解だったからだ。

 次郎左衛門は冷静に返答する。

「公儀の決定に勅が要ることは、掃部頭様自らが示されているではありませぬか。これぞ朝廷を尊んでいる証左にございます。もし、ここで勅許を蔑ろにするような事があれば、それこそ周り全てを敵に回すことになり申す。掃部頭様は、然様な愚かな方ではないと考えます」

 斉彬は目を閉じて考えた。次郎の提案はあくまで平和的な解決策を模索していたが、斉彬の視点からすると、物足りなくもあったのだ。しかし、無駄な流血を避ける方法でもある。

「お主の策、確かに筋は通っておる。然れど、もしその策が功を奏さぬ場合、我らは再び井伊の専横を許し、薩摩の威信も失われることになる。それでは、我らが目指す新たな幕政の改革には至らぬのではないか?」

「その時にこそ、でございます。武を用いるのは万策尽きたとき、最後の最後にございます。戦わずして済むのであれば、これに越した事はありませぬ」




「あい分かった。此度こたびの出兵は、ひとまず留める事とする」

「有り難き幸せに存じます。殿もお慶びの事と存じます。それでは某、これより京に上ってます」

「うむ、頼んだぞ」

「はは」




 次回 第227話 (仮)『朝廷の反幕府勢力と処罰の対象者』
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