『転生した無名藩士、幕末の動乱を生き抜く~時代・技術考証や設定などは完全無視です!~』

姜維信繁

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第223話 『井伊直弼と太田和次郎左衛門』

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 安政五年七月十五日(1858/8/23) 

 すでに老中の堀田正睦と松平忠固は罷免され、代わって鯖江藩主の間部詮勝あきかつ、前掛川藩主の太田資始すけもとなどを直弼は老中に抜擢ばってきしていた。
  
 先日不時登城をした松平春嶽は隠居、徳川斉昭・一橋慶喜は謹慎、徳川慶篤には登城停止などの処分を下す事となる。

 こういった幕閣の改造は、事前に朝廷に内容を知らせずに無断で条約調印をしたのは朝廷軽視の所業であるとして、高まる幕府への批判をかわそうとした、とも思える。

 しかし実際は一橋派に理解を示す正睦と忠固を追放し、幕権擁護派によって老中の体制を固めたものであった。




「初めてお目にかかります、大村丹後守様家中、家老の太田和次郎左衛門にございます」

「うむ、話は聞いておる。して、此度こたびははるばる肥前から何用じゃ」

 井伊直弼は次郎の予想通りの上から目線であった。

「は、まずは大老ご就任、真におめでたく存じます」

「世辞はよい。用件を申せ」

「は、されば、先頃調印となった米利堅国との条約につきまして、お伺いしたき儀がございまして罷り越しましてございます」

 直弼は少しだけ顔をゆがめ、次郎に聞く。

「はて、国と国との約束事である条約に、なにゆえ西国の家中で、しかもその家老が口を出してくるのだ?」

 相変わらず高飛車であったが、実際は次郎からこの混迷した時勢をいかにして切り抜けるか、なんらかの助言を聞きたいという素振りはあった。

「されば申し上げまする。嘉永の米利堅国との条約よりかた、異国との条約の子細について見聞役を仰せつかった者として、神戸の開港と大阪の開市についてお伺いしたき儀がございます」

「ほう、神戸の開港と大阪の開市についてか。何を聞きたいのだ?」

 直弼は興味を示しながらも、依然として威圧的な態度を崩さない。次郎は慎重に言葉を選び、答えた。

「然れば大阪は無論の事、神戸は都より近く、天子様の宸襟しんきんを悩ますのではないかと考えまする。条約においては、臣民を安んずるのであれば、事後の報せでもよいと某は伺っておりました。然りながら此度は、前もって天子様にその旨を奏上奉り、勅をもって調印する事が肝要ではなかったかと存じます」

 次郎はそこでいったん区切った。直弼は微動だにしない。

「掃部頭様は、それを踏まえて、勅を得ずに調印をなされたのでしょうか?」

 次郎の質問に、直弼の表情が一瞬固くなった。しかしすぐに平静を取り戻し、威厳のある声で答える。

「ふむ。確かに朝廷への配慮は重要だ。然れどの方も言うように只今ただいまは国家の危急存亡の時、速やかなる決断が求められることもある。今回の条約締結は、まさにそういった事様ことざまの下での判断であった」

 そもそも、と直弼は一息置いてから続けた。

「わしは条約に際して、神戸の開港と大阪の開市を求めるならば朝廷に勅許を頂き、そうでないならば、別の港か期限を十年以上後として、十二分に備えをしてから結ぼうとしたのだ。しかしハリスはそれを認めなかった。清国での戦を例に出し、次は日本だと言うのだ。加えて忠固などは勅許などいらぬとわめいた故、此度は老中を罷免する運びとなった」

 なるべく引き延ばせ、どうしても無理なら仕方ない、というアレだな、と次郎は思った。

「うべなるかな(なるほど)。然れどそれでは、天子様の御公儀に対する信に揺らぎが出る事は必定。朝廷に対して十分な説明と、神戸の開港と大阪の開市においては、民心が惑わぬよう備えねばなりませぬ。加えて、再びハリスと会談し、別の場所を提案するか一年ではなく最低でも五年、欲を言えば十年の猶予を持たせるよういたす要ありと存じます」

 直弼は次郎の言葉をしばらく黙って聞いていた。その表情には複雑な思いが浮かんでいたが、やがてゆっくりと口を開く。

「なるほど。其の方の考えもよく分かる。確かに朝廷への説明は要るであろう。民心を安んずる事も重しである」

 直弼は一息つき、続けた。

「然れどハリスと再び交渉し、すでに約した物を覆すのは容易ではない。それに、清国の二の舞になる危うさも考えねばならぬ」

 次郎は慎重に言葉を選びながら答える。

「仰せのとおりでございます。然れど再び談合するは覆すためではなく、其の方が米利堅国にとっても利のある事と説くのでございます。民心を安んずるのは我らの役目にございますが、容易ではございませぬ。それゆえ時が欲しいと申しておるのに無理に結ばせ、危うきに至っても、責はとらぬと言えば、ハリスも耳を傾けるのではないでしょうか」

 直弼は目をつむり、次郎の言葉を頭の中で何度も繰り返す。

「ふむ、では清国の儀はいかがいたす。戦は和議とあいなったと聞いておる。このまま戦が終われば、英吉利と仏蘭西が同じように押し寄せるやもと、ハリスは申しておったぞ」

 ははははは! と次郎は笑って直弼に正対し、居住まいを正して言う。

「それはまずありませぬ。休戦は休戦であり、あと二年は続きましょう。よしんば戦が終わったとて、艦隊を率いて攻めてはきませぬ。もし、攻めるなら、何故なにゆえはじめに攻めてこなかったのですか? 江戸の内海に台場在り、西国諸藩は備えを強め、我が家中が艦隊にてペリー提督やプチャーチンと相対したからに他なりません」

 直弼は次郎の言葉に驚いた様子を見せたが、興味深そうに身を乗り出しているのが見て取れる。

「ほう、然様な見方もあるか。確かに言われてみれば、得心できる部分もある。然れど……」

 直弼は腕を組み、しばらく考え込んだ後、ゆっくりと口を開いた。

「其の方の言うとおりとして、もし万が一、攻めてきたら如何いかが致す?」

 しばらく沈黙がその場を包んだ。そうならない為の条約なのだ。

「然様な時は……我が、我が大村家中の海軍が存分にお相手いたしましょう! つい先月、新造艦が四隻でき申した。家中十一隻の軍艦と御公儀の軍艦三隻とあわせて戦わば、勝てぬにしても、負けぬ戦は出来まする!」

 次郎は真顔でひときわ声を大にして言った。それがための抑止力だといわんばかりの表情である。

「来年には米利堅の船と変わらぬ船が、二隻大村に回航されます。英吉利も清国の海軍をすべて日本に回すことなどできますまい。加えて和蘭も米利堅も黙っておらぬでしょう。そうならぬように、米利堅の仲介を含めた条約にございましょう。然様な非道がまかり通って、なにが文明国にござろうか。笑わせまする」

 直弼は、次郎の言葉をしっかり受け止め、再び沈黙が流れた。

「あいわかった。その旨ふたたびハリスに伝え、変更の協議をいたそう。其の方、いずれにしても京へ向かうのであろう? 朝廷に如何いかなる伝手があるかわからぬが、公儀からも使者を出す故、よきに計らうが良い」

「はは、有難うございます。加えて……」

「なんじゃ、まだあるのか?」

「は、春嶽公や水戸様の事にございますが、隠居謹慎、登城停止の命を、取りやめていただきたく存じます」

 とたんに直弼の顔色が変わった。

「然様な事は其の方に言われる様な事ではない! 国家危急の時故、条約に関しては話を聞いたが、わが政権内の事、余計な口出しをするでない!」

 よほど腹が立ったのだろう。立ち上がって次郎をにらみつけている。

 次郎にとってはそこまで怒るような事か? という認識であったが、幕府ファーストのオレが話を聞いてやったのにつけあがりやがって、という気になったのだろうか。

「申し訳ございませぬ! 出過ぎたことを申しました。然れど、いかに考えが違うとしても、国を思っての事、厳しすぎる罰は敵を増やすだけにございます」

「然様な事は其の方に言われなくてもわかっておるわ! ええい、不愉快じゃ、下がれ! 下がるのだ! さきほどの傳奏でんそうの件もよい。こちらはこちらでやるゆえ、勝手にするがよい!」

 直弼はそう吐き捨てて退座してしまった。次郎は平伏し、直弼がいなくなったのを確認して部屋をでた。




 ■築地 大村艦隊二番艦 祥雲艦上

「なんだと? それは真か?」
 
 次郎は助三郎からの報告を聞き、愕然がくぜんとした。うすうす感じてはいたものの、確証がなかったのだ。

「は、江戸市中の大阪屋の遣いが、彦根藩邸にたびたび出入りしていたのは分かっておりましたが、わが家中が灯油の販売を始め、菜種の売れ行きが減ってきたにも拘わらず、彦根藩邸だけは出入りの度合いが変わっていないのです」

「然れど、それだけでは単なる想像にすぎまい?」

「は、金を出したのは大阪屋、殿や御家老様の行動を逐一調べ、流したのは井伊家中、そして行ったのは水戸の浪士でございました」

「真に、真に……間違いはなかろうな?」

「は、下手人はすでに逃げおおせ消息不明にございますが、協力者がおりました。ようやく口を割り、その三者がつながりましてございます」

「助三郎、それは、誰かに話したか?」

「滅相もございませぬ、御家老様に申し上げただけにございます」

 幕府からの調べでは、まったくそういった情報はでない。下手人不明で捜査が終わりそうな勢いだ。

「よし、誰にも口外するでないぞ、調べに関わった者すべてに、厳に命じるのだ」

「はは!」




 どうすればいいのだ? 次郎はため息と共に天を仰いだ。




 次回 第224話 (仮)『大獄前夜と朝廷』
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