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第187話 『安政二年の正月』
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安政二年一月二日(1855/2/18)
日本は去年、まずアメリカと三月三日に和親条約を結び、イギリスとは八月二十三日、オランダは十一月二十三日、ロシアとは元号変わって安政元年十二月二十一日に締結した。
まさに一年の間に四ヶ国と条約を結ぶ激動の年、そして嘉永最後の年となって安政を迎えたのだった。
次郎はと言えば、対外的にはフィクサージロウと言われた。……かどうかはわからないが、交渉に介入したのは日米和親で、イギリスとの間にはほとんど介入していない。
交渉は英語なので、ジョン万次郎同席の甲斐あって、アメリカの時のような齟齬はなかった。
ロシアのプチャーチンとの会談はオブザーバーとして参加したのだが、本人的には不本意であった(樺太欲しかった!)。しかしなんとか今後に交渉の余地を残せた締結となり、通商条約の際はもっと詰めたものが出来上がるはずだ。
オランダとの条約はアメリカと同様であるが、クルティウスと次郎との間で交わされた密約は、今後幕府の対応によっては条文化される事となるだろう。
■大村城下 次郎邸
「みんな、明けましておめでとう」
「「「おめでとー」」」
元旦に藩主純顕への挨拶を済ませた太田和家には、転生組の信之介や一之進、今や妻となったお里に幕末人のおイネら家族が集まり、正月の宴を催していた。
「ジロちゃん、すっかり政治家だね~」
「お前、前世と全く違うな。営業部長が政治家なんて」
お里に続いて信之介だ。
お里は次郎を『あなた』ではなく『ジロちゃん』と呼んでいる。もっとも何が正しいのかは当人同士で決める事だが、この時代ではなんと呼んでいたんだろうか。
あなた様?
お前様?
殿?
信之介は相変わらずだ。
一之進はうまい酒に舌鼓を打っているが、深酒はしない。これは前世からのルーティンなのだろう。酒を飲んだ医者が医療行為を行うなど考えられないが、本人しかいない場合はどうなるのだろうか?
様々な倫理観の違いがあるこの時代で、少しでも事故をなくそうとしているのかもしれない。
「ペリーってあのペリーだろ? すげえよ」
「ほんと、まさに日本の歴史変えちゃったね」
一之進の言葉にお里が続く。
「そんな事いったらみんなもそうだろう? 一之進はペニシリン作っているし、お里は農業・漁業・鉱業の面で明治以降の事をすでにやってる。信之介にいたっては、様々だからな」
「わはははは! そうだ! その通りだ! 俺様は天才なのだ! もっと崇め奉れ!」
酔っているのか地なのか、信之介と一之進には時々こういう発作が起きる。
「それで、今んとこは安心?」
お里の問いに対して次郎は答える。
「まあ、そうだな。外国とはないな。それから国内だけど、幕府に対して弱腰だという勢力は確かにある。水戸藩とかね。水戸学、儒学の一派だけど、攘夷一辺倒の過激な行動に出ない限りは……まあ、だとしても組織的な、戦争に近い武装蜂起にはならないな」
次郎を除く三人は安心した顔をする。おイネは転生人ではないから本質はわからないが、四人がいた未来の話は聞いているので、理解はできるのだ。
「では、次郎様は然様な事が起きぬように、日夜励んでいるわけですね」
おイネがニコリと笑って次郎に言った。
「まあ、そんな深刻な事じゃないけどね。朝廷の意識を改革したり、幕閣はまあ、どうしようもないけど……。明らかに日本に不利益な事が起きないかぎり、過激な行動にはでないんじゃないかな」
尊皇攘夷は、幕府の弱腰外交ともとれる開国に対して、倒幕して朝廷を頂点とした新政府をつくろうと言う動きになるのだが、現時点ではその流れはない。
「みんなはどうだ?」
「うーん、研究はずっと続けているよ。そうは言っても俺の専門は外科だからな。内科や精神科・心療内科、皮膚科や泌尿器科、その他の分野は出来上がっていない。傷ではないから内科になるんだろうけど、そうなると内科の分野が広くなりすぎて、長与先生の負担が大きい。緒方先生や石井先生、二宮先生は蘭学だけど、棲み分けが難しいからな」
医学の分野では細かな発見がなされていたが、ペニシリンの発見(開発)には及ばない。現在は数年前から計画されていた下水道の整備は、高炉セメントの開発待ちとなっていた。
「下水道の件だが、正直ポルトランドセメントでいいんじゃないか、と思っている。コストや耐久性の事もあるんだろうけど、ハルデス殿は造船や船渠の造成で働いてもらっているが、いつまでもという訳じゃない。いるうちに工事を行って、日本人に経験を積ませた方がいいと思うんだ」
「確かにそうだな。……それは任せるよ。実際工事に入れば専門家に任せるしかないからな」
1858年に大流行するコレラ防止のための下水道整備だ。その工法を巡って議論が交わされ、結局期限がきてしまった。今から工事を始めて1858年の正月に完成の予定だ。
「石井先生は産婦人科だけど、ここはイネがいるからな。女医も育ってきている。緒方先生門下の生徒も実力をつけているから、数年のうちには医学方を外科と内科だけじゃなくて、もっと細分化できると思う」
大きな発見はないが、目に見えないところで偉業を続けている一之進である。
「精煉方は……まあ、言わずと知れた八面六臂の大活躍だよね」
「八面……なんて?」
信之介が赤い顔で言った。
「八面六臂! いや、あの……八つの顔と六つの肘の仏像みたいな大活躍だから、という四字熟語だよ」
理系だ。純然として完全なる理系だ(他意はありません)。
「まあ、課題は山ほどあるけどな。象山センセはすごいよ。スクリューにゴムに。久重のじっちゃんも、歴史上の偉人って、ほんとに偉人なのな。みんなすげーよ」
「産物方は?」
「今のところ目立った事はないわね。お茶の増産も順調だし、石炭や石油も同じくよ。ただ、石油は新しい採掘法で産出量が増えているから……枯渇するのは早いかもしれない。多分早い段階で需要の多くが輸入に頼らざるを得なくなるかも。もう少し……この時代の利殖を増やす方法に長けた人間、人材がいればいいのに」
「うん、そうだよね」
だからこそのオランダとの密約であり、樺太の利権である。
「ああそうだ、お里。畑違いかもしれないけど、勘定奉行と相談して、藩営の……いや、藩札はあんまり意味ないから……民間の銀行つくって」
「ほんと、畑違いだよ」
うーん、経済に強い人間が欲しい。そう思う次郎であるが、次郎は商売人ではない。前世で営業部長ではあるが、サラリーマンだと言われれば、それまでである。
生き馬の目を抜く商売の世界では、生粋の商売人が必要だ。勘定方も育ってきているとはいえ、まだまだ次郎と同等、もしくは越える人材ではない。
「うーん。渋沢栄一でもいればいいけどな」
「誰それ?」
次回 第188話 (仮)『次郎、ロシアへ』
日本は去年、まずアメリカと三月三日に和親条約を結び、イギリスとは八月二十三日、オランダは十一月二十三日、ロシアとは元号変わって安政元年十二月二十一日に締結した。
まさに一年の間に四ヶ国と条約を結ぶ激動の年、そして嘉永最後の年となって安政を迎えたのだった。
次郎はと言えば、対外的にはフィクサージロウと言われた。……かどうかはわからないが、交渉に介入したのは日米和親で、イギリスとの間にはほとんど介入していない。
交渉は英語なので、ジョン万次郎同席の甲斐あって、アメリカの時のような齟齬はなかった。
ロシアのプチャーチンとの会談はオブザーバーとして参加したのだが、本人的には不本意であった(樺太欲しかった!)。しかしなんとか今後に交渉の余地を残せた締結となり、通商条約の際はもっと詰めたものが出来上がるはずだ。
オランダとの条約はアメリカと同様であるが、クルティウスと次郎との間で交わされた密約は、今後幕府の対応によっては条文化される事となるだろう。
■大村城下 次郎邸
「みんな、明けましておめでとう」
「「「おめでとー」」」
元旦に藩主純顕への挨拶を済ませた太田和家には、転生組の信之介や一之進、今や妻となったお里に幕末人のおイネら家族が集まり、正月の宴を催していた。
「ジロちゃん、すっかり政治家だね~」
「お前、前世と全く違うな。営業部長が政治家なんて」
お里に続いて信之介だ。
お里は次郎を『あなた』ではなく『ジロちゃん』と呼んでいる。もっとも何が正しいのかは当人同士で決める事だが、この時代ではなんと呼んでいたんだろうか。
あなた様?
お前様?
殿?
信之介は相変わらずだ。
一之進はうまい酒に舌鼓を打っているが、深酒はしない。これは前世からのルーティンなのだろう。酒を飲んだ医者が医療行為を行うなど考えられないが、本人しかいない場合はどうなるのだろうか?
様々な倫理観の違いがあるこの時代で、少しでも事故をなくそうとしているのかもしれない。
「ペリーってあのペリーだろ? すげえよ」
「ほんと、まさに日本の歴史変えちゃったね」
一之進の言葉にお里が続く。
「そんな事いったらみんなもそうだろう? 一之進はペニシリン作っているし、お里は農業・漁業・鉱業の面で明治以降の事をすでにやってる。信之介にいたっては、様々だからな」
「わはははは! そうだ! その通りだ! 俺様は天才なのだ! もっと崇め奉れ!」
酔っているのか地なのか、信之介と一之進には時々こういう発作が起きる。
「それで、今んとこは安心?」
お里の問いに対して次郎は答える。
「まあ、そうだな。外国とはないな。それから国内だけど、幕府に対して弱腰だという勢力は確かにある。水戸藩とかね。水戸学、儒学の一派だけど、攘夷一辺倒の過激な行動に出ない限りは……まあ、だとしても組織的な、戦争に近い武装蜂起にはならないな」
次郎を除く三人は安心した顔をする。おイネは転生人ではないから本質はわからないが、四人がいた未来の話は聞いているので、理解はできるのだ。
「では、次郎様は然様な事が起きぬように、日夜励んでいるわけですね」
おイネがニコリと笑って次郎に言った。
「まあ、そんな深刻な事じゃないけどね。朝廷の意識を改革したり、幕閣はまあ、どうしようもないけど……。明らかに日本に不利益な事が起きないかぎり、過激な行動にはでないんじゃないかな」
尊皇攘夷は、幕府の弱腰外交ともとれる開国に対して、倒幕して朝廷を頂点とした新政府をつくろうと言う動きになるのだが、現時点ではその流れはない。
「みんなはどうだ?」
「うーん、研究はずっと続けているよ。そうは言っても俺の専門は外科だからな。内科や精神科・心療内科、皮膚科や泌尿器科、その他の分野は出来上がっていない。傷ではないから内科になるんだろうけど、そうなると内科の分野が広くなりすぎて、長与先生の負担が大きい。緒方先生や石井先生、二宮先生は蘭学だけど、棲み分けが難しいからな」
医学の分野では細かな発見がなされていたが、ペニシリンの発見(開発)には及ばない。現在は数年前から計画されていた下水道の整備は、高炉セメントの開発待ちとなっていた。
「下水道の件だが、正直ポルトランドセメントでいいんじゃないか、と思っている。コストや耐久性の事もあるんだろうけど、ハルデス殿は造船や船渠の造成で働いてもらっているが、いつまでもという訳じゃない。いるうちに工事を行って、日本人に経験を積ませた方がいいと思うんだ」
「確かにそうだな。……それは任せるよ。実際工事に入れば専門家に任せるしかないからな」
1858年に大流行するコレラ防止のための下水道整備だ。その工法を巡って議論が交わされ、結局期限がきてしまった。今から工事を始めて1858年の正月に完成の予定だ。
「石井先生は産婦人科だけど、ここはイネがいるからな。女医も育ってきている。緒方先生門下の生徒も実力をつけているから、数年のうちには医学方を外科と内科だけじゃなくて、もっと細分化できると思う」
大きな発見はないが、目に見えないところで偉業を続けている一之進である。
「精煉方は……まあ、言わずと知れた八面六臂の大活躍だよね」
「八面……なんて?」
信之介が赤い顔で言った。
「八面六臂! いや、あの……八つの顔と六つの肘の仏像みたいな大活躍だから、という四字熟語だよ」
理系だ。純然として完全なる理系だ(他意はありません)。
「まあ、課題は山ほどあるけどな。象山センセはすごいよ。スクリューにゴムに。久重のじっちゃんも、歴史上の偉人って、ほんとに偉人なのな。みんなすげーよ」
「産物方は?」
「今のところ目立った事はないわね。お茶の増産も順調だし、石炭や石油も同じくよ。ただ、石油は新しい採掘法で産出量が増えているから……枯渇するのは早いかもしれない。多分早い段階で需要の多くが輸入に頼らざるを得なくなるかも。もう少し……この時代の利殖を増やす方法に長けた人間、人材がいればいいのに」
「うん、そうだよね」
だからこそのオランダとの密約であり、樺太の利権である。
「ああそうだ、お里。畑違いかもしれないけど、勘定奉行と相談して、藩営の……いや、藩札はあんまり意味ないから……民間の銀行つくって」
「ほんと、畑違いだよ」
うーん、経済に強い人間が欲しい。そう思う次郎であるが、次郎は商売人ではない。前世で営業部長ではあるが、サラリーマンだと言われれば、それまでである。
生き馬の目を抜く商売の世界では、生粋の商売人が必要だ。勘定方も育ってきているとはいえ、まだまだ次郎と同等、もしくは越える人材ではない。
「うーん。渋沢栄一でもいればいいけどな」
「誰それ?」
次回 第188話 (仮)『次郎、ロシアへ』
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