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第176話 『幕府海軍と通訳と転炉』

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 ■嘉永七年四月一日(1854/4/27)

 次郎はあまり幕府のやることに干渉はしたくなかったが(面倒くさいので)、ことこの条約に関しては、日本の未来を左右する重大事なので、大村で黙っている訳にはいかなかった。

 純顕は一回目のペリーとの会談のみ同席し、その後は藩庁で政務にあたっている。

 横浜に停泊しているのは徳行丸と昇龍丸、蒼龍そうりゅう丸と飛龍丸の四隻であったが、商業活動における支障はない。

 小曽根乾堂には売却(代金回収中)した川棚型があり、大浦慶には新しく建造した商船がある。どちらも商船学校がまだ3年目なので正規の乗組員ではないが、そこは深澤組の捕鯨船乗組員であったり、海軍からの短期出向で補っていた。

 いずれにしても来年度が明け、再来年度に入れば純粋な商船の船乗りが誕生するのだ。

「御家老様」

「なんじゃ?」

「公儀の造船所と軍艦の事にございます」

「申せ」

 次郎は突然やってきた報告に耳を傾けながら、窓の外に広がる海を眺める。浦賀の造船所から届いたニュースは、予想通りの進展であった。

「公儀の浦賀造船所にて、鳳凰丸という洋式軍艦が建造されておりますが、来月には竣工との見通しでございます」

「なに? もう出来上がるのか?」

 次郎は驚いた。

 帆船ではあるが、徳行丸や至善丸よりも大きい600tだという。それをわずか八ヶ月で造り上げようとしているとは。報告を受けながら頭の中で様々な計算を始める。

「水戸藩でも旭日丸という軍艦を造っているらしいのですが、こちらは難航しているようです」

「ほほう?」

 次郎は語尾を上げて興味深そうに声を漏らした。

「はい、旭日丸の建造は石川島で行われておりますが、進水作業で問題が発生し、完成が遅れております。船体が重すぎて、進水が難航しているとのことです」

 次郎は海を見つめながら、考えを巡らせる。鳳凰丸が順調に進む一方で、旭日丸は苦戦している。この違いは何か。建造場所の違い、技術者の熟練度、資材の質。様々な要素が頭の中をよぎる。

 汽帆船である昇龍丸の建造に一年四ヶ月かかった。汽帆船ではない、という事をさっ引いても、鳳凰丸は驚異的な速さだ。

「そうか。誰が造ったのだ?」

 御用掛は手元の資料を見ながら答える。

「中島三郎助を中心に香山栄左衛門、佐々倉桐太郎、春山弁蔵ら浦賀奉行所の与力、同心が担っております。船大工棟梁の粕屋勘左衛門の協力を得たと聞き及んでおります」

「然様か。あのお二人なら、然もありなん。公儀もこれで、さすがと言うべきか。われらに一日の長があるとは言え、研鑽けんさんを怠ってはならぬな」

 次郎は深く考え込んだ。腐ってもたい、という表現が正しいかわからないが、それでもおそらく大村藩を除けば莫大ばくだいな収入があるのだ。財政難とは言え、他の藩とは違う。

 おそらくは、加速度的に追いかけてくるだろう。

「そうは、させんよ」

 次郎のつぶやきが聞こえたかどうかは、わからない。

「ああそうだ。の間、通詞の派遣の申し出をしたであろう? 公儀からの返事はまだか? 和蘭語は良いとして、英語、仏語、露語。この三カ国語の通詞はこれから要るであろう」

 五教館大学と開明塾大学で語学を教えていた大村藩では、すでに通訳たるべき語学力をもった生徒が育っていたのだ。その中から優秀な者を派遣する。

 幕府に恩を売るわけではないが(恩とは感じないだろう)、齟齬そごによる条約締結などあってはならないからだ。

 御用掛は次郎の質問に答えるべく、手元の書類を慌ただしく探る。その様子を見て、次郎は机から離れ、ゆっくりと部屋の中を歩き始める。足音が静かに響く中、御用掛の声が部屋に響く。

「申し訳ございません。公儀からの返事はまだ届いておりません」

「然様か。正し(予想通り)と言えば正しであるな。ペリーの件で手一杯なのだろうが、プチャーチンはすぐ来るぞ。フランスやイギリスもだ」

 手一杯、というのは本当の所だろう。まずは英語に関しては万次郎がいるので問題ないとして、ロシア語やフランス語、ドイツ語に関しては気が回らないのかもしれない。

 確かに緊急で必要なのは英語の通訳であるし、次郎に返事はしなくても、必要になれば声をかけよう程度なのかもしれない。備えておいて欲しいと次郎は思ったが、ここはあえて、それ以上は返事の催促はしなかった。

「まあ良いであろう。然るべき時がくれば便りもこよう」

 そう言って次郎は御用掛を下がらせ、椅子に座って思いにふけるのであった。




 ■大村 精煉せいれん

「先生、御奉行様、いらっしゃいますか」

 勢揃いして信之介研究室のドアを叩いているのは、高島秋帆、武田斐三郎、大野規周、賀来惟熊、村田蔵六の大砲鋳造方のメンバーである。

「御免候!」

 秋帆が呼びかける。

「御免候! 御免候!」

 返事がないのでさらにみんなで呼びかけた。

「はい! どちら様でしょうか!」

 元気よく出てきたのは廉之助である。

「ああ廉之助。先生はいらっしゃるか?」

「いらっしゃいますが、只今ただいまはお出かけになっています」

「どこへ?」

「隼人さんと福砂屋までカステラを買いに行きましたよ。研究室に冷蔵庫ができたので、買いだめしておくとか仰せでした」

 廉之助は信之介の弟子として隼人をライバル視していた。隼人もそうだったのだが、それはそれ。礼儀は大切との事で、廉之助は隼人に対しては目上の兄弟子という立場をわきまえていた。

 バチバチやっていたのが昨日の事のようである。

「カステラ?」

「買いだめ?」

 疲れた体と脳に糖分を補給したくなる、いわゆる甘い物が欲しくなるのは前世からである。ちなみに一之進も含めたみんなが甘い物が好きだ。

 科学的根拠に基づいての事なのだが、この忙しいのに長崎まで自ら買い物に行くのが信じられなかったようだ。

「皆様、もう帰ってくると思うので、上がってお待ちください」

 廉之助はそういって研究室に5人をあげる。部屋に案内してお茶を出し、しばらく待っていると信之介が帰ってきた。

「あら、どうした? みんな」

 六人がなんとも言えない顔をしていたので、信之介は察した。

「さては、御家老様に無理難題をふっかけられたのかな?」

 研究室内に緊張が漂う。5人の表情から、信之介は事態の深刻さを察する。高島秋帆が前に進み出て、状況を説明し始めた。
 
「御家老様から、鉄の船を造れとの命が下りました」
 
「鉄の船とは……こりゃまた難儀な事を」

 思わず信之介は口に出す。

「加えて、蒸気機関製造方からより、もっと高圧に耐えうる、腐食に強い鉄が欲しいとの要望があったのです」

 信之介の表情が変わる。

「……ああそうだ! こんな時のためのカステラなんだよ。さあみんな、食べながら話そう」

 張り詰めた空気をなごませようと、信之介は廉之助にお茶の用意をさせ、カステラを切り分けて皿に並べ、爪楊枝で食べられるようにした。

 信之介の頭の中で、状況を整理して必要な事の手順を組み立てる。




「全く新しい炉をつくらなければならない」

 信之介の言葉に、場がしいん、と静まりかえった。




 次回177話 (仮)『ベッセマー法』
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