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歌えば君は離れないだろうけど

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 ゴポリゴポリ。浮かび上がる水泡をかき分けながら僕はゆっくり沈んでいく。
 明るくて、星々のように輝いていた水面はもう遠く、光の柱ももう僕には届かない。胸元に抱えた小瓶を再び強く、流されないように抱き止めて、仰向けにしていた体を反転させた。
「……」
 衣服は水を吸ってもう重い。貰い物のネックレスが浮いている。肺に残る息だってもう僅かだ。けれども僕は意識が続いたまま、たった一人の航海を続けている。



『なあ、いつか君の故郷に連れていってくれよ。兄弟』

 地上で同胞のいない人魚の子にとって、唯一の友人は言った。
 僕は無理だよ、と言った。海の底は、到底ヒトの生きれる領域ではないから。
 最初に出会った高校時代から数年経ち、数十年経ち、彼はすっかりおじいちゃんになった。毎年絶えず続けていた問答は、晩年になると変わった。

那智なちは相変わらず変わらないなぁ』
『悪かったね。老けなくて』
『そういうなよ。なあ、俺が死んだらさ、海洋葬ってことで君の故郷に連れて行ってくれないか』
『……家族のお墓があるだろう。サイトウはそれには入らないのかい』
『入らない。子孫のこと考えたら大きな墓の管理なんて面倒くさいだろう?』
『子供たちの拠り所がなくなるよ。そんなに言うなら僕の肉を食べるかい?』
『それは嫌だね。あくまで人間の友達でいたいんだ。俺は』

 寝台のうえで笑っていた友人は数日後に死んだ。老衰だった。九十歳まで生きたのだから、かなりの大往生と言って差し支えないだろう。
「那智さん、これ」
「これは?」
「父の遺骨と手紙です。あなたに持っていって欲しいって、遺言です」
「……ただの他人が貰ってしまっていいのかな?」
「那智さんは他人じゃないです。父の大切な相棒。私にとっては第二の父ですから」
 娘さんは、故郷に連れて行ってあげてください、と僕の鱗のついた手の上にそれらを置いた。数十年来の友人は随分と軽くなって、生命はあっけないと思ったのをよく覚えている。



 僕は、そんな友人の遺骨と手紙の入った小瓶を伴にして海底へ向かっている。大分魚群も減ってきて、もう少しだろうと思う。――小さい頃は何度も遊びに行った、今はもうあまり行っていない僕の故郷は。

 潮の流れと生活音を頭上に感じながら、小瓶を撫でた。
「退屈じゃない? でももう少しだよ」
 暗闇に満ちていた海に灯りが見えた。僕はそこへ足を使って泳いでいく。

 現代の人間が見てしまえば、超古代文明だのアトランティスだの騒がれそうな石の柱、その陰に僕は足をおろした。大きく吸った息を吐いて、抱えた小瓶を前に伸ばした。

「どうだい、サイトウ。これが僕の、僕の母さんの故郷だよ」

 返答はないことは分かっているのに、僕は語りかけるのをやめられない。意識が二つに割れて、冷静になる自分と、鼻唄でも歌い出しそうな子供みたいな自分が共存している。
「ここは子供たちの遊び場なんだ。あの輪っかをくぐる遊具はとても人気なんだよ。それから、ちょっと言ったところに綺麗な花が咲いてるんだ。後でそっちに行こう」
 言いながら、徐々に目頭が熱くなる感覚がある。だって既に友人はこの世にいない。もう、いないのに語りかけるのが虚しい。淋しい。悲しい。彼の声が聞こえなくて、もう会えないのだと、突きつけられる。僕には君だけだったのに。
 涙は水中にすぐに飲み込まれる。泣いていることは地上と違って一切誰にも分からない。だから感情の赴くまま、僕は泣いて、泣いて、海底の街を徘徊した。

「僕の家だよ。ちょっと砂が被っているから、そこで待っていてね」
 机の比較的綺麗なところに小瓶を置いて、一旦自分が座れるだけのスペースを確保する。石でできた椅子に腰掛けて、僕はようやっと小瓶の蓋を開けた。
 すぐにふやけてしまう手紙を慎重に開けて、中の文に目を通す。
 ただ短く書かれていた二文を確認して、僕の視界はグラグラと滲む。そのまま一摘みした遺骨を口の中に入れて、残りは海中にばら撒いた。家中に満ちた彼の名残が、潮に攫われて拡散していく。
「……僕だけの君なんて、似合わないよ」

「那智ならそうすると思ったよ。一部でも食べさせただけ俺の勝ちだ」

 嬉しそうな友人の声が聞こえて、周囲を見回す。けれどもやはり姿はなくて、遺骨を飲みこんだ胃だけが燃えるように熱かった。ついでにもうふやけて文字も読めない手紙も勢いよく破り捨てる。もう彼からの言葉は一言一句覚えているから。
「実際僕の故郷を見てみた感想はどうだい? 兄弟」
 言葉はないけれど、視界の端に映った遺骨がキラキラ舞うのを見てほっとする。灯りの下で踊っている友人の姿は、あまりにも綺麗だった。



『愛しいきみへ、この骨は全て君の糧にしてほしい。俺にも君の見ている美しい世界をそばで見させてくれ』
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