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おや……妻の様子がおかしい…… 6
しおりを挟む儀式の参列者名簿を頭の中に入れ終わったミラジェは、鏡に映った自分を見ながら、ぼんやりと考え事をしていた。
一ヶ月前の自分とは比べ物にならないくらい、顔色の良い桃色の頬。襟ぐりの空いた今日のドレスだって着れてしまう、傷の目立たなくなった体。
その全ては、このエイベッド家が、シャルルが与えてくれたものだ。
シャルルは、ミラジェがエイベッド家で暮らすようになってから、ミラジェに対して娘を見守る父のように接していた。貴族として足りない教養があるといえば、専門の家庭教師を手配し、エイベッド家についてわからない部分があるといえば、家に関する資料を惜しげもなく見せてくれた。本当に、こんなことまで知って良いのか、と思うほどの情報も。
お坊ちゃん育ちの擦れがなく真っ直ぐなシャルルの優しさは、ミラジェにとって不可解にも思えるほど過分だった。何か大きな見返りを求められるのではないかと思ってしまうくらいに。
(旦那様は私に出会って損をしてばかりなのに、私は与えられるばかりだわ……。何か、お返しができたら良いのに……)
与えられた分、与えたい。そんな考えが浮かんだとしても、不遇な境遇に置かれ続けていたミラジェの持っているものは少ない。
(だからこそ。みんなが望む、最低限の役目は果たさなければならない)
貴族女性の一番の役割は家を継ぐもの__男児を産むことだ。
(男児を産めなかった義母様は、いつもお父様に責められて、泣いていたもの……)
アングロッタ男爵家に入った当初、父親から叱咤を受け、涙をこぼす、義母をみたことがあった。その悲しみは捻れて歪み、ミラジェへの暴力へと形を変えたのかもしれない。ミラジェはそう思って、痛みを受け入れていた部分も多少あった。
もし、自分が男児を産めなかったとき、シャルルは自分をあんなふうになじるだろうか。
今は楽園のように過ごしやすいエイベッド家も、いつか新しい地獄へと姿を変えるのかもしれない。今日の儀式が終われば、ミラジェはエイベッド家の人間となる。
今日という日はその使命を受け入れて生きる覚悟を決めなければならない。
ミラジェは一人、戦場へ向かう前のように顔をピシリと引き締める。
「若奥様。坊っちゃんがいらっしゃいました」
侍女のアレナの声に、ミラジェは弾かれたように、扉の方へと振り向く。
遠慮がちに顔を見せたシャルルは光沢のある白灰色のクロックコートに身を包んでいた。ミラジェはその美丈夫っぷりに目を瞬かせる。
(うわあ。体つきががっしりしているから、まるで物語に出てくる騎士様みたいにかっこいい。お姉様たちが見たら、ギャーギャー騒ぐだろうなあ)
つい見惚れてしまったことに気まずい気分になっていると、シャルルの方もミラジェを凝視していることに気づく。
もしや、あまりにもちんちくりんな姿に呆れてしまったのだろうかと心配になりながらシャルルを観察していると
「美しいな……」
と漏れるような呟きが聞こえてきた。
ミラジェの横にいたアレナは、そんなシャルルの様子を見て、眉を下げ少しだけ呆れたように、ため息をつく。
ミラジェはシャルルの言葉が嘘ではなさそうだと思い、少しだけ安心する。
そして、二人の間に天使が通ったような微妙な間ができる。
(な、なんだろう。この間は。私から何か言い出すのもおかしいし……)
ミラジェが心中、わたわたとしていると、シャルルは急に話しかけ始める。
「そうだ、ミラジェ。テイラー侯爵に水質改善に役立つアイデアを授けてくれたそうじゃないか」
ミラジェはシャルルにいきなり妙な話題を振られたことに瞠目する。
一瞬、なんのことだかわからなかったが、侍女のアレナが先ほど、シャルルの控室にテイラー侯爵が来室していると言っていたのを思い出し、話の内容を理解した。きっとテイラー侯爵が何か話したのだろう。
「……私のご意見がテイラー侯爵のお役に立てて良かったです」
「どうしてそんなことを思いついたんだ?」
「ああ……あれは、必要に駆られて仕方がなく絞り出しただけです」
ミラジェは男爵家で、日中は使用人のようにこき使われ、夜はなんの生活設備もない牢のような地下部屋に押し込められて暮らしていたため、家族のように水道が自由に使えなかった。
夜に喉が乾いても、ミラジェが使っていた部屋から地上へと上がる扉には鍵をかけられて、水を取りに行くことも許されなかったのだ。
しかし、幸運なことに地下部屋は川へと繋がる通路を持っていた。使用人が川で洗濯するための近道としてこっそりと作られた通路だったので、きっと義母や姉は、その存在も知らなかったのだろう。
しかし当然とも言えるが、川の水をそのまま飲んだ翌日、ミラジェはお腹を壊した。
そうか、川の水は汚れているから、そのまま飲むとお腹を壊すんだ。じゃあ、どうしたら……
そんな時、ミラジェにとっては苦肉の策として導き出した手段が濾過だった。
「川の水は汚れているからそのまま飲まずに、石やら布やらで濾すんだよ」
そう教えてくれたのは下町の大人たちだった。彼らは賢かった。家が辺鄙なところにあり、井戸に向かうよりも川が近かったため、自分たちで浄化装置を作りあげるだけの知識と知恵があった。
(そうか、汚れをとったらいいんだ)
下町の人々がやっていたことを、どうにかこうにか記憶から呼び起こし、形にしていった。
それだけでは不安だったので、最後の仕上げとして暖炉から盗んだ火で、煮沸も施してした。
ミラジェの貴族らしからぬ発想は、優れた発想力でもなんでもなく、ただのサバイバル知識でしかなかったのだ。
「それにしたって、素晴らしい発明だ。侯爵も心から喜んでいたよ」
「それは……よかったです」
ミラジェは自嘲した笑いを浮かべないように、顔を引き締め、外向けの笑顔を作る。
自分のあの、おぞましい経験が役に立つだなんて。あんな思い二度としたくない、絶対にあそこには戻らないと誓いを立てたばかりだと言うのに、以前の経験が役に立ってしまっている。
それはとても複雑で、あまりいい気分ではなかった。
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