17 / 36
十七 交渉
しおりを挟む
「弟子だか何だか知らないが、とりあえず出ていってもらおうか」
楼主は、苦々しい顔で吐き捨てた。
「その男はうちのお抱えで、お前さんはうちの見世とは何の関係もない。開く前の見世に、金も払わず上がり込んでんだ。何なら、女の一人二人買って、理由付けでもしてもらわねえと納得はいかねえな」
話しているうちに、自分が有利と気付いたのだろう。声が落ち着いてくる。師弟となったのだといったところで、今交わされた口約束。遊斎は、こちらの見世の雇われとして賃金を貰っている。人を間に入れて話を付ける段になったとして、分があるのは楼主の方だった。
ふん、と落ち着きを取り戻したその姿は、太夫を抱えた大見世を仕切る楼主なりの、威厳があった。
「そうだねえ、このままだと面倒だ。けれどあたしに、馴染みを作る気はない。一人に縛られるなんてごめんだよ」
誰か遊女を指名すれば、他の遊女とは会いにくくなる。他の遊女に移るときには、手続きを踏んで手切れ金も渡さなくてはならない。それができないなら、浮気として罰を受ける。
だから、こうして皆の絵を描いていきたいなら、誰か一人を指名して寝ちゃいけないよ、と教えてくれたのは、澄尾太夫だった。この吉原の、千人いると聞く遊女たちの頂点。たった三人しかいない太夫の一人。廓言葉の良くわからない遊斎に、分かりやすいように話してくれた。
流石は師匠。そういった遊郭の基本をしっかりと身に付けていらっしゃる。
遊斎が感心していると、少し厳しい目がこちらを向いた。
「お前、馴染みなど作っとりゃせんだろうね?」
慌てて頷くと、よし、と頷き返される。
「吉原の絵師が長続きしないのは、それが原因だからねえ」
そして、含み笑いで言われる。
「お前は、そういう欲が薄そうだ」
少しむっとするが、確かに旺盛な方ではない。性欲どころか、人として生きていくために必要な食欲にすら、絵を描くという欲が勝ってしまう結果が、このひょろひょろと細い体である。
「よし、うちの見世で食事にしよう。お抱え代は幾らだい?」
しばし考えた宇多麿が言った。うちの見世、というのは、宇多麿を抱えている大見世、揚浜屋のことだろう。宇多麿の浮世絵で大人気の浮雲太夫を擁する人気の見世である。
「お抱え代?」
「そやつはまだ、お試しだ」
遊斎の疑問と、楼主の声が重なった。
「なんだ。まだお抱えじゃねえじゃねえか。なら、何にも気にするこたあねえや。遊斎、おいで」
「待て。今、払う。今すぐお抱えにする」
遊斎に向かって伸びてきた楼主の手は、宇多麿の煙管にばちり、と叩かれた。
「うちの子を正式に雇いたいなら、それなりの金を持ってうちの見世へ来な」
宇多麿の仕草や台詞は、まるで良くできた芝居のようで見惚れてしまう。そうして、見惚れている間に遊斎は、肩を抱かれたまま揚浜屋へと移動したのであった。
楼主は、苦々しい顔で吐き捨てた。
「その男はうちのお抱えで、お前さんはうちの見世とは何の関係もない。開く前の見世に、金も払わず上がり込んでんだ。何なら、女の一人二人買って、理由付けでもしてもらわねえと納得はいかねえな」
話しているうちに、自分が有利と気付いたのだろう。声が落ち着いてくる。師弟となったのだといったところで、今交わされた口約束。遊斎は、こちらの見世の雇われとして賃金を貰っている。人を間に入れて話を付ける段になったとして、分があるのは楼主の方だった。
ふん、と落ち着きを取り戻したその姿は、太夫を抱えた大見世を仕切る楼主なりの、威厳があった。
「そうだねえ、このままだと面倒だ。けれどあたしに、馴染みを作る気はない。一人に縛られるなんてごめんだよ」
誰か遊女を指名すれば、他の遊女とは会いにくくなる。他の遊女に移るときには、手続きを踏んで手切れ金も渡さなくてはならない。それができないなら、浮気として罰を受ける。
だから、こうして皆の絵を描いていきたいなら、誰か一人を指名して寝ちゃいけないよ、と教えてくれたのは、澄尾太夫だった。この吉原の、千人いると聞く遊女たちの頂点。たった三人しかいない太夫の一人。廓言葉の良くわからない遊斎に、分かりやすいように話してくれた。
流石は師匠。そういった遊郭の基本をしっかりと身に付けていらっしゃる。
遊斎が感心していると、少し厳しい目がこちらを向いた。
「お前、馴染みなど作っとりゃせんだろうね?」
慌てて頷くと、よし、と頷き返される。
「吉原の絵師が長続きしないのは、それが原因だからねえ」
そして、含み笑いで言われる。
「お前は、そういう欲が薄そうだ」
少しむっとするが、確かに旺盛な方ではない。性欲どころか、人として生きていくために必要な食欲にすら、絵を描くという欲が勝ってしまう結果が、このひょろひょろと細い体である。
「よし、うちの見世で食事にしよう。お抱え代は幾らだい?」
しばし考えた宇多麿が言った。うちの見世、というのは、宇多麿を抱えている大見世、揚浜屋のことだろう。宇多麿の浮世絵で大人気の浮雲太夫を擁する人気の見世である。
「お抱え代?」
「そやつはまだ、お試しだ」
遊斎の疑問と、楼主の声が重なった。
「なんだ。まだお抱えじゃねえじゃねえか。なら、何にも気にするこたあねえや。遊斎、おいで」
「待て。今、払う。今すぐお抱えにする」
遊斎に向かって伸びてきた楼主の手は、宇多麿の煙管にばちり、と叩かれた。
「うちの子を正式に雇いたいなら、それなりの金を持ってうちの見世へ来な」
宇多麿の仕草や台詞は、まるで良くできた芝居のようで見惚れてしまう。そうして、見惚れている間に遊斎は、肩を抱かれたまま揚浜屋へと移動したのであった。
31
お気に入りに追加
86
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
【完結】ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
さえずり宗次郎 〜吉宗の隠密殺生人〜
森野あとり
歴史・時代
八代将軍吉宗が将軍宣下すぐに発した命は、『御鷹献上』であった。
宗次郎は吉宗が和歌山から呼び寄せた鷹匠宮井杢右衛門の養子で、優れた餌差である。
餌差とは、鷹狩の鷹のために雀など小鳥を狩る殺生人のこと。 やたらと小鳥に好かれる宗次郎にとって、小鳥を狩ることは児戯にも等しい。
一方、江戸の隅々まで牛耳ろうと考える吉宗は、江戸城内の人事に左右されない使い勝手の良い隠密を欲していた。
宗次郎を一目見て気に入った将軍吉宗は、宗次郎を自らの隠密に任命する。
宗次郎に任された仕事は、お鷹役人の殺害事件の下手人捜査。そこからさらに事件は広がりを見せ……
鳥請負による不正取引の裏に見つかった裏切り。その裏切りは「復讐」か、あるいは「謀反」なのか。
殺陣あり、事件あり涙ありの本格時代劇小説。
この度のコンテンツ大賞にて、テーマ別賞「江戸を揺るがす捕物譚賞」を受賞致しました。
ありがとうございました。
☆エブリスタで連載していた作品を推敲加筆して掲載しています。
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
夢占
水無月麻葉
歴史・時代
時は平安時代の終わり。
伊豆国の小豪族の家に生まれた四歳の夜叉王姫は、高熱に浮かされて、無数の人間の顔が蠢く闇の中、家族みんなが黄金の龍の背中に乗ってどこかへ向かう不思議な夢を見た。
目が覚めて、夢の話をすると、父は吉夢だと喜び、江ノ島神社に行って夢解きをした。
夢解きの内容は、夜叉王の一族が「七代に渡り権力を握り、国を動かす」というものだった。
父は、夜叉王の吉夢にちなんで新しい家紋を「三鱗」とし、家中の者に披露した。
ほどなくして、夜叉王の家族は、夢解きのとおり、鎌倉時代に向けて、歴史の表舞台へと駆け上がる。
夜叉王自身は若くして、政略結婚により武蔵国の大豪族に嫁ぐことになったが、思わぬ幸せをそこで手に入れる。
しかし、運命の奔流は容赦なく彼女をのみこんでゆくのだった。
狐侍こんこんちき
月芝
歴史・時代
母は出戻り幽霊。居候はしゃべる猫。
父は何の因果か輪廻の輪からはずされて、地獄の官吏についている。
そんな九坂家は由緒正しいおんぼろ道場を営んでいるが、
門弟なんぞはひとりもいやしない。
寄りつくのはもっぱら妙ちきりんな連中ばかり。
かような家を継いでしまった藤士郎は、狐面にていつも背を丸めている青瓢箪。
のんびりした性格にて、覇気に乏しく、およそ武士らしくない。
おかげでせっかくの剣の腕も宝の持ち腐れ。
もっぱら魚をさばいたり、薪を割るのに役立っているが、そんな暮らしも案外悪くない。
けれどもある日のこと。
自宅兼道場の前にて倒れている子どもを拾ったことから、奇妙な縁が動きだす。
脇差しの付喪神を助けたことから、世にも奇妙な仇討ち騒動に関わることになった藤士郎。
こんこんちきちき、こんちきちん。
家内安全、無病息災、心願成就にて妖縁奇縁が来来。
巻き起こる騒動の数々。
これを解決するために奔走する狐侍の奇々怪々なお江戸物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる