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十六 師匠
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「番所、ねえ。そんなことして、いいのかい?」
「は?」
「お抱え絵師が、絵具も買えないって言っているよ。話を聞かれて困るのは楼主殿では?」
ふん、と鼻をならした楼主は、落ち着き払っている。
「知ったことか」
と、平坦な声が言葉を紡いだ。
「絵師の懐事情など知らん。大方、なんぞ贅沢してるんだろう」
「へえ」
宇多麿は、まるで熟練の遊女のように、ふうわりと笑う。
そしてその目を、呆然としている遊斎に向けた。
「遊斎。お前、あたしの弟子になるかい?」
「へ?」
遊斎は今回の仕事を受けた後、有り金をはたいて宇多麿の浮世絵を数点購入し、しばらく眺めて過ごした。なんと素晴らしい絵だろう、と見るたび感心している。細部まで描かれた着物の柄や帯の形、簪の一本に至るまでが、とにかく美しかった。
自分の腕では、とてもこのようには描けない。しかし引き受けたからには、今、できる全てで遊女たちを綺麗に描いてあげたい、と思った。
最近は、暇さえあれば宇多麿の絵を模写している。
そんな憧れの人が、今、自分に声をかけてくれた?
弟子?
弟子にしてくれる?
目を見開くしかできない遊斎の肩を、見かけによらず力強い腕が抱き寄せる。遊女たちと似た香の匂いに、くらりとした。
「あ、あの、あの……」
「宇多麿さん、それは無茶苦茶だ。その絵師はうちのお抱えで、あんたのいる見世には行けないんだよ」
「構わないさ。ただ、手ほどきをしてやるって言ってるんだ。この美味しそうな青い実を、食べ頃前に食い荒らされちゃ堪らない」
ぎりぎりと楼主が歯を噛みしめる音が聞こえたようだから、この言い合いは宇多麿に分があったのだろう。
遊郭の手練手管なのか比喩が多くて、遊斎にはさっぱり分からぬやり取りだったが。
「で、弟子になりたいです。尊敬してます、宇多麿師匠っ」
会話の途切れた隙に、必死で言う。膝を折って頭を下げたいところだが、宇多麿に強く肩を抱かれているので身動きが取れず、とりあえず、間近にある整った顔を見上げた。遊斎も、ひょろりと背が高いが、宇多麿は、それより更に少し大きいようだ。
きゃあ、と遠巻きに見守っている遊女たちの声が上がって、宇多麿の、薄く紅を引いた口角が弧を描いた。
「いい」
楽しげに宇多麿が言う。
「師匠かあ。いい響きだねえ。弟子ってのあ、こんなに可愛いなら、自分で探す分には悪くないね」
それは、相手から頼まれても決して引き受けない、ということだろうか。今まで引き受けなかった、ということだろうか。
まあ、どちらもだろう。
とりあえず、兄弟子はいないらしい。
一人目の弟子ということなら、師匠に恥をかかさぬよう、ますます精進しよう、と遊斎は、決意を固めて拳を握った。
「は?」
「お抱え絵師が、絵具も買えないって言っているよ。話を聞かれて困るのは楼主殿では?」
ふん、と鼻をならした楼主は、落ち着き払っている。
「知ったことか」
と、平坦な声が言葉を紡いだ。
「絵師の懐事情など知らん。大方、なんぞ贅沢してるんだろう」
「へえ」
宇多麿は、まるで熟練の遊女のように、ふうわりと笑う。
そしてその目を、呆然としている遊斎に向けた。
「遊斎。お前、あたしの弟子になるかい?」
「へ?」
遊斎は今回の仕事を受けた後、有り金をはたいて宇多麿の浮世絵を数点購入し、しばらく眺めて過ごした。なんと素晴らしい絵だろう、と見るたび感心している。細部まで描かれた着物の柄や帯の形、簪の一本に至るまでが、とにかく美しかった。
自分の腕では、とてもこのようには描けない。しかし引き受けたからには、今、できる全てで遊女たちを綺麗に描いてあげたい、と思った。
最近は、暇さえあれば宇多麿の絵を模写している。
そんな憧れの人が、今、自分に声をかけてくれた?
弟子?
弟子にしてくれる?
目を見開くしかできない遊斎の肩を、見かけによらず力強い腕が抱き寄せる。遊女たちと似た香の匂いに、くらりとした。
「あ、あの、あの……」
「宇多麿さん、それは無茶苦茶だ。その絵師はうちのお抱えで、あんたのいる見世には行けないんだよ」
「構わないさ。ただ、手ほどきをしてやるって言ってるんだ。この美味しそうな青い実を、食べ頃前に食い荒らされちゃ堪らない」
ぎりぎりと楼主が歯を噛みしめる音が聞こえたようだから、この言い合いは宇多麿に分があったのだろう。
遊郭の手練手管なのか比喩が多くて、遊斎にはさっぱり分からぬやり取りだったが。
「で、弟子になりたいです。尊敬してます、宇多麿師匠っ」
会話の途切れた隙に、必死で言う。膝を折って頭を下げたいところだが、宇多麿に強く肩を抱かれているので身動きが取れず、とりあえず、間近にある整った顔を見上げた。遊斎も、ひょろりと背が高いが、宇多麿は、それより更に少し大きいようだ。
きゃあ、と遠巻きに見守っている遊女たちの声が上がって、宇多麿の、薄く紅を引いた口角が弧を描いた。
「いい」
楽しげに宇多麿が言う。
「師匠かあ。いい響きだねえ。弟子ってのあ、こんなに可愛いなら、自分で探す分には悪くないね」
それは、相手から頼まれても決して引き受けない、ということだろうか。今まで引き受けなかった、ということだろうか。
まあ、どちらもだろう。
とりあえず、兄弟子はいないらしい。
一人目の弟子ということなら、師匠に恥をかかさぬよう、ますます精進しよう、と遊斎は、決意を固めて拳を握った。
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