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十五 宇多麿
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「旦那様。困りんす」
「取り次ぐまで待っておくれなんし」
「ちと見たいものがあるだけだ。すぐ帰るよ」
入り口からの騒ぎが聞こえて、遊斎に流し目を送っていた遊女がふと、動かぬよう気を付けていた形を崩した。
「何か、ありんしたかねえ」
遊女が形を崩したことで、ようやく周りの声に気付いた遊斎が筆を置く。
集中すると、絵の事しか考えられなくなる癖は、よりひどくなっているようだった。
「邪魔するよ」
遊斎は、昼見世の最中にも仕事をするので、まだ昼見世前の今も、張見世の隅で絵を描いていた。見覚えのない男が入ってくることに困惑する。
「お前さんが遊斎かい?」
「はい……」
年は三十を回っているか、いないか。なかなかに整った柔らかい顔立ちの男は、遊女の羽織る派手な上衣を引っかけて、手には煙管を持っていた。
遊斎は思わず、まじまじと観察してしまう。
昼間にしか吉原に通っていないが、それなりに遊んでいる粋な人々を見かけるようになった遊斎でも滅多に見ないような、遊郭にひどく馴染んだ人間だった。
もちろん、全く面識はない。
「ふーん」
男の方も、遠慮なく遊斎を眺め回し、描きかけの絵に目を止めた。
了承も取らずに、ひょいとそれを持ち上げる。じっくりと見てから、遊斎の回りに広がる道具を検分した。
「独学かい?」
「いえ。一応、師匠はおりましたが、一年も習わぬうちにぽっくりと……」
「へえ……」
男が、どこの誰かも分からないが、どうにもこの人には敵わない、といった本能のようなものに従って、遊斎は息を詰めて大人しくしていた。質問には、何とか返事をする。
「お前さんは、色を付けてないのかい?」
「あ、はあ。絵具を揃える金がなかなか……。紅を引くぐらいです」
色付きも描きたいが、道具を揃えるのにはまとまった金がいる。もう少し、精進せねばならぬだろう。
そう思いつつ、手元に返してもらった絵の口元に、ちょんちょんと紅を差した。目元の下側にも、色を薄めて細く紅を引く。途端に、絵の中の遊女が色気を増したようだった。
「見事なもんだ」
「あ、ありがとうごさいます……」
褒められて、思わず礼を言うと、けど、おかしいな、と男は首を捻った。
「へ?」
「あんだけ飛ぶように売れていて、絵具も買えねえのかい?」
「飛ぶように、売れる?」
遊斎は今まで通り、一枚一枚、墨で手書きしているだけである。いつもの姿絵や貸本の挿し絵の依頼の時と同じような値段で、その一枚一枚を売っていた。これに描いておくれ、と上等な紙を支給してくれているので、紙を準備しなくてよい分、懐に入る金は多い。三好屋に所属の遊女、一人一人をとりあえず一回り描いてくれと頼まれて、順に描いている最中であった。
一枚ずつ描いては渡していたので、三好屋の店先にでも貼り出して、客が遊女を選びやすいように使用するのだとばかり思っていた。
一枚ずつの絵が、飛ぶように売れるとはどういうことだろう?
「いったい何のご用ですかね、宇多麿さん。いくらあんたでも、馴染みでもない他所の見世へ踏み込むなんてのあ、番所へ付き出されてもおかしかねえ振る舞いですよ?」
そこへ楼主がやってきて、男へ鋭い声を上げた。
宇多麿?
まさか。
遊斎は、呆然と男を見上げる。
それは、遊女の浮世絵を描かせたら当代一と評判の、絵師の名前だった。
「取り次ぐまで待っておくれなんし」
「ちと見たいものがあるだけだ。すぐ帰るよ」
入り口からの騒ぎが聞こえて、遊斎に流し目を送っていた遊女がふと、動かぬよう気を付けていた形を崩した。
「何か、ありんしたかねえ」
遊女が形を崩したことで、ようやく周りの声に気付いた遊斎が筆を置く。
集中すると、絵の事しか考えられなくなる癖は、よりひどくなっているようだった。
「邪魔するよ」
遊斎は、昼見世の最中にも仕事をするので、まだ昼見世前の今も、張見世の隅で絵を描いていた。見覚えのない男が入ってくることに困惑する。
「お前さんが遊斎かい?」
「はい……」
年は三十を回っているか、いないか。なかなかに整った柔らかい顔立ちの男は、遊女の羽織る派手な上衣を引っかけて、手には煙管を持っていた。
遊斎は思わず、まじまじと観察してしまう。
昼間にしか吉原に通っていないが、それなりに遊んでいる粋な人々を見かけるようになった遊斎でも滅多に見ないような、遊郭にひどく馴染んだ人間だった。
もちろん、全く面識はない。
「ふーん」
男の方も、遠慮なく遊斎を眺め回し、描きかけの絵に目を止めた。
了承も取らずに、ひょいとそれを持ち上げる。じっくりと見てから、遊斎の回りに広がる道具を検分した。
「独学かい?」
「いえ。一応、師匠はおりましたが、一年も習わぬうちにぽっくりと……」
「へえ……」
男が、どこの誰かも分からないが、どうにもこの人には敵わない、といった本能のようなものに従って、遊斎は息を詰めて大人しくしていた。質問には、何とか返事をする。
「お前さんは、色を付けてないのかい?」
「あ、はあ。絵具を揃える金がなかなか……。紅を引くぐらいです」
色付きも描きたいが、道具を揃えるのにはまとまった金がいる。もう少し、精進せねばならぬだろう。
そう思いつつ、手元に返してもらった絵の口元に、ちょんちょんと紅を差した。目元の下側にも、色を薄めて細く紅を引く。途端に、絵の中の遊女が色気を増したようだった。
「見事なもんだ」
「あ、ありがとうごさいます……」
褒められて、思わず礼を言うと、けど、おかしいな、と男は首を捻った。
「へ?」
「あんだけ飛ぶように売れていて、絵具も買えねえのかい?」
「飛ぶように、売れる?」
遊斎は今まで通り、一枚一枚、墨で手書きしているだけである。いつもの姿絵や貸本の挿し絵の依頼の時と同じような値段で、その一枚一枚を売っていた。これに描いておくれ、と上等な紙を支給してくれているので、紙を準備しなくてよい分、懐に入る金は多い。三好屋に所属の遊女、一人一人をとりあえず一回り描いてくれと頼まれて、順に描いている最中であった。
一枚ずつ描いては渡していたので、三好屋の店先にでも貼り出して、客が遊女を選びやすいように使用するのだとばかり思っていた。
一枚ずつの絵が、飛ぶように売れるとはどういうことだろう?
「いったい何のご用ですかね、宇多麿さん。いくらあんたでも、馴染みでもない他所の見世へ踏み込むなんてのあ、番所へ付き出されてもおかしかねえ振る舞いですよ?」
そこへ楼主がやってきて、男へ鋭い声を上げた。
宇多麿?
まさか。
遊斎は、呆然と男を見上げる。
それは、遊女の浮世絵を描かせたら当代一と評判の、絵師の名前だった。
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