余四郎さまの言うことにゃ

かずえ

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五十三

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「は。ははは」

 兄は、ちっともおかしくなさそうに笑った。口だけで。そして、伊之助をぎろりと睨みつけると口を開く。

「もとより、お前に名乗る家名などない」

 言い切られて、伊之助の口元は緩んだ。知っている。分かっている。だが、他に名乗れる家名などないから、名乗っていいのかと悩みつつ名乗っていた。どうしても名乗る必要がある時だけ、しぶしぶ名乗っていた。
 だから、兄の言葉は、伊之助に何の感慨ももたらさない。知っている、と。ただ、それだけ。

「名乗らずに済むなら名乗りません」

 落ち着いて告げた伊之助の言葉に、兄は大きく顔を歪めた。腰に下げている刀に手をかけるのが見える。兄は、何故そんなに心を揺らしているのだろう。
 お前に名乗る家名などない、と言ったのは兄の方なのに。それに答えた、名乗らずに済むなら名乗らない、との伊之助の言葉のどこに、刀に手を掛けるほどの怒りを覚えたのか。

「生まれの卑しい者は、家名の重要さも知らぬと見える」 

 まあ、そうかもしれない。飯原家が由緒正しかろうが何だろうが、伊之助にはどうでも良かったから。家名など、なくても構わなかった。なくても生きていけると思っていた。……余四郎に会うまでは。
 名乗る家名がないような平民は余四郎の許婚になれない、と知った今はそうではない。

「知っています。だから、玉乃川となるまでの間は、飯原の名を借りています」
 
 藩校に通い、勉強を進めるにつれ、より強く理解した。伊之助が余四郎の許婚でいるために、飯原の名は必要だ。伊之助は、余四郎の許婚でいたいから、飯原を名乗る。玉乃川になるその日までは名乗る。由緒正しい家に生まれた良かったと思っている。だから、正直に兄に答えたのだが。
 伊之助の答えは、兄の納得のいくものではなかったらしい。

「……このっ」

 兄は、ついに刀を抜くような動作を見せた。いつぞやの稽古用の木刀とはわけが違う、本物の刀を。伊之助は、ごくりと息を飲んで立ちすくんだが、兄の刀が伊之助に届くことはなかった。
 刀を抜こうとした兄の手を、藤兵衛の手があっという間に押さえ付けている。

「離せ、ぶれいも」
「抜くからには」

 兄の言葉を、藤兵衛の低い声が遮る。静かな低い声は、激しく大きな声よりいっそ恐ろしかった。

「対する刃があること、覚悟の上でしょうな?」
「……っ」 

 兄の後ろで、先ほど藤兵衛に二人まとめて転がされた兄のお付き二人が起き上がりとびかかろうとしていたが、ぴたりと動きを止めた。藤兵衛に怯んで動けないようだった。

「用件は済みましたか? 私たちはもう帰ります。この後、四郎さまや時行さま、小太郎さまと約束があるのです」

 伊之助は、深呼吸をして息を整えると、何とか平静を装って言った。 

「もう少しの間、家名は借りますが、元服などはでやるのでお気になさらず。飯原の家にもそのようにお伝えください」

 伊之助は、ぺこりと頭を下げると歩き出す。 

「男同士の婚約など!」

 兄の喚く声を聞き流すのは得意だ。

「そのうち無かったことになる! 覚えておれ! お前が飯原でも玉乃川でもなくなったその時、必ず今日の恨みを晴らしに行ってやるからな!」
 
 そんな日が来たら、好きにするといい。    
 きっと、そんな日は来ない、と伊之助は知っている。
 だって、四郎さまは言ったのだ。
 この婚約を取り消す気は毛頭ない、と。
 もちろん伊之助にも、毛頭ない。
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