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五十二
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兄は、言うだけ言うと踵を返した。ついてこいと言って、伊之助が自分について来ないなどと、考えたこともないに違いない。伊之助も、考えたことは無かった。
家を出るまでは。
いや、つい最近まで、考えていなかった。兄が藩校を卒業し、全く顔を合わせることもなくなったので気にしていなかったが、先日の正平や嗣治の言葉がなければまだ、ついてこいと言われればそのままついて行ったことだろう。ついて行かなくていいのだと、伊之助は考えたこともなかったのだ。
けれど、戻れ、と書いてある文を見て、行かなければいい、と正平や嗣治は言った。はっきりきっぱりと。そんな選択肢があることを、伊之助はその時に知ったのだ。
行かなくていい。
伊之助が行きたくないなら、行かなくていいのである。
だから、伊之助は動かなかった。行きたくないから。
「早くしろ」
そんな伊之助に、兄のお付きの一人が横合いから手を伸ばそうとする。藤兵衛とにらみ合っていた者とは別の、辺りを威嚇していた者だった。二人とも、藤兵衛よりかなり体格が良い。だが、藤兵衛が怯むことはなかった。
「無礼者!」
藤兵衛は言うなり、素早く、その者の手を掴んで捻り上げた。そのまま、咄嗟に刀を抜こうとしたもう一人の前に突き出す。
「む」
と、動きを止めた相手へ向かって、どん、と捻り上げた者を突き飛ばした。
「わあ」
と、二人がぶつかって態勢を崩した隙に、伊之助を抱えて後ろへと下がる。見事な早業であった。
「何をしている!」
騒ぎに気付いて振り返ったらしい兄がものすごい形相で戻ってくるが、藤兵衛に阻まれ、伊之助の側近くには寄れなかった。伊之助は、震えそうになる足を叱咤して背筋を伸ばす。
「私の元服は、良庵先生がしてくださいます。戻る必要はありません」
兄に向かって声を上げると、兄が目を見開いた。はい、以外の言葉を伊之助が兄に向かって話したのは初めてだったから、驚いたのだろう。やがて、かっと顔を赤くした兄が応えた。
「馬鹿を言うな! 他家で元服をするなど聞いたこともない!」
「他家でするのではありません」
そうだ。他家でするつもりなど、毛頭ない。ただいま、おかえりと言いあえる場所が家なのなら、伊之助にとっては、良庵の屋敷こそが家だ。きちんと家で元服をするつもりだ。家族に見守られて。
「はっ。頭がおかしくなったか」
「いえ。私には、今、暮らしている場所が私の家だというだけです」
「は……?」
伊之助は、胸を張り声を張る。
「四郎さまは仰いました。私はいずれ、玉乃川伊之助になるのだと。今、名乗っている家名など仮初めのものです」
家を出るまでは。
いや、つい最近まで、考えていなかった。兄が藩校を卒業し、全く顔を合わせることもなくなったので気にしていなかったが、先日の正平や嗣治の言葉がなければまだ、ついてこいと言われればそのままついて行ったことだろう。ついて行かなくていいのだと、伊之助は考えたこともなかったのだ。
けれど、戻れ、と書いてある文を見て、行かなければいい、と正平や嗣治は言った。はっきりきっぱりと。そんな選択肢があることを、伊之助はその時に知ったのだ。
行かなくていい。
伊之助が行きたくないなら、行かなくていいのである。
だから、伊之助は動かなかった。行きたくないから。
「早くしろ」
そんな伊之助に、兄のお付きの一人が横合いから手を伸ばそうとする。藤兵衛とにらみ合っていた者とは別の、辺りを威嚇していた者だった。二人とも、藤兵衛よりかなり体格が良い。だが、藤兵衛が怯むことはなかった。
「無礼者!」
藤兵衛は言うなり、素早く、その者の手を掴んで捻り上げた。そのまま、咄嗟に刀を抜こうとしたもう一人の前に突き出す。
「む」
と、動きを止めた相手へ向かって、どん、と捻り上げた者を突き飛ばした。
「わあ」
と、二人がぶつかって態勢を崩した隙に、伊之助を抱えて後ろへと下がる。見事な早業であった。
「何をしている!」
騒ぎに気付いて振り返ったらしい兄がものすごい形相で戻ってくるが、藤兵衛に阻まれ、伊之助の側近くには寄れなかった。伊之助は、震えそうになる足を叱咤して背筋を伸ばす。
「私の元服は、良庵先生がしてくださいます。戻る必要はありません」
兄に向かって声を上げると、兄が目を見開いた。はい、以外の言葉を伊之助が兄に向かって話したのは初めてだったから、驚いたのだろう。やがて、かっと顔を赤くした兄が応えた。
「馬鹿を言うな! 他家で元服をするなど聞いたこともない!」
「他家でするのではありません」
そうだ。他家でするつもりなど、毛頭ない。ただいま、おかえりと言いあえる場所が家なのなら、伊之助にとっては、良庵の屋敷こそが家だ。きちんと家で元服をするつもりだ。家族に見守られて。
「はっ。頭がおかしくなったか」
「いえ。私には、今、暮らしている場所が私の家だというだけです」
「は……?」
伊之助は、胸を張り声を張る。
「四郎さまは仰いました。私はいずれ、玉乃川伊之助になるのだと。今、名乗っている家名など仮初めのものです」
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