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五十一
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伊之助が、かろうじて怪文書にならなかった実家への文を使用人に託した翌日のことである。
「おい! ……おい!」
それは、久しぶりに聞いた兄の声であった。伊之助は、びくりと体を揺らす。もう長いこと関わりを持っていないというのに、まだ体は自然と身構えて、心臓がどきどきと早鐘を打ち始めるのが分かった。怖い。恐ろしい。
藩校の帰り、これまでの伊之助なら、時行や余四郎、小太郎と別れて一人になるような場所でのことである。もちろん、周りに誰もいないわけではなく、同じ方向へと歩く人の姿がちらほらと見えている。
一人になる伊之助を心配する友人たちに、人の見ている場所で無体を働くものなどいませんよ、大丈夫です、と笑っていたのは伊之助だ。ごく幼い頃から、藩校よりはるか遠い寺子屋へ一人で行き来していた伊之助には、過剰な心配に思えたのだ。だが、今。
「お前! なんだ、あの文は!」
伊之助は息を飲んで固まり、動けずに立ちすくむ。人目があっても兄は気にしないのだろうか、と目線だけで様子を伺えば、兄のお付きの者が二人、辺りを威嚇して人を散らしていた。関わり合いになりたくない人々が、足早にその場を去っていく。
しかし、ずかずかと伊之助に詰め寄ってきた兄の前に、鯉口に指をかけた藤兵衛が出た。
「は?」
眉根をぎゅっと寄せた兄の前にも兄のお付きの者が一人出て、同じく鯉口に指を掛けた。稽古ではない緊張感に、伊之助の足はぶるりと震えた。
「なんだ、お前? 邪魔立てするなら切る」
兄の方は、今にも抜けそうな刀を持った二人が対峙していても意に介さなかったらしい。不機嫌にまくしたてている。
切る? 切るって、そんな、なんてことを……。
「伊之助さま。お下がりください」
藤兵衛は、ますます警戒を深めて腰を落とした。兄は、護衛の後ろで言葉を続ける。
「妙な正義感で命を無駄にするか? ……いや、まて。伊之助さま? 伊之助さまと言ったのか、お前。まさか、これのお付きか」
すう、と目を細めた藤兵衛に、ははっと兄が笑う。
「ははっ。これに、お付き。はは」
何がおかしいのか、兄はひとしきり笑った。伊之助は、息を詰めて立ち尽くす。藤兵衛は刀から指を離さず、そんな伊之助の前に居続けてくれた。
兄の、伊之助を馬鹿にした笑い声を聞いているうちに、伊之助の思考が回り始める。
一体、何の用だろう。文、と言っていたか? 伊之助が父に出した文? だが、あれは、何もおかしいと指摘されるような内容は無いはずだ。なにせ、伊之助が書いたのは結局、その日は戻れません、の一言だけ。……あ。もしかして、文を受け取りました、が間違いだった? あの怪文書のような文は、父からのものじゃなかった可能性はある。
「ああ、馬鹿馬鹿しい」
ようやく笑いをおさめた兄が言った。藤兵衛と、藤兵衛に向かい合う兄のお付きに走った緊張感など気付きもせず、言葉を続ける。
「おい。父上は、戻れと仰せだ。あの、お前を囲っておる医者が、お前の元服の日取りを勝手に定め、直井家に伝えたらしいじゃないか。おめでとうございます、と言われて、取り繕うに苦労したと父上は大層お怒りだったぞ。話が広まってしまった以上、その日にうちで髪を切るしかあるまい。嫁に出す男に、元服もくそもないもんだが。本来、そちらから土下座して頼むべきところをこちらから連絡してやったにも関わらず、断りの文を寄越すとはな。父上だけでなく家の者皆、怒りに震えておるよ。自分の立場をすっかり忘れたようで困ったものだ、とな。儀式の日までに教育し直してやる。ついてこい」
「おい! ……おい!」
それは、久しぶりに聞いた兄の声であった。伊之助は、びくりと体を揺らす。もう長いこと関わりを持っていないというのに、まだ体は自然と身構えて、心臓がどきどきと早鐘を打ち始めるのが分かった。怖い。恐ろしい。
藩校の帰り、これまでの伊之助なら、時行や余四郎、小太郎と別れて一人になるような場所でのことである。もちろん、周りに誰もいないわけではなく、同じ方向へと歩く人の姿がちらほらと見えている。
一人になる伊之助を心配する友人たちに、人の見ている場所で無体を働くものなどいませんよ、大丈夫です、と笑っていたのは伊之助だ。ごく幼い頃から、藩校よりはるか遠い寺子屋へ一人で行き来していた伊之助には、過剰な心配に思えたのだ。だが、今。
「お前! なんだ、あの文は!」
伊之助は息を飲んで固まり、動けずに立ちすくむ。人目があっても兄は気にしないのだろうか、と目線だけで様子を伺えば、兄のお付きの者が二人、辺りを威嚇して人を散らしていた。関わり合いになりたくない人々が、足早にその場を去っていく。
しかし、ずかずかと伊之助に詰め寄ってきた兄の前に、鯉口に指をかけた藤兵衛が出た。
「は?」
眉根をぎゅっと寄せた兄の前にも兄のお付きの者が一人出て、同じく鯉口に指を掛けた。稽古ではない緊張感に、伊之助の足はぶるりと震えた。
「なんだ、お前? 邪魔立てするなら切る」
兄の方は、今にも抜けそうな刀を持った二人が対峙していても意に介さなかったらしい。不機嫌にまくしたてている。
切る? 切るって、そんな、なんてことを……。
「伊之助さま。お下がりください」
藤兵衛は、ますます警戒を深めて腰を落とした。兄は、護衛の後ろで言葉を続ける。
「妙な正義感で命を無駄にするか? ……いや、まて。伊之助さま? 伊之助さまと言ったのか、お前。まさか、これのお付きか」
すう、と目を細めた藤兵衛に、ははっと兄が笑う。
「ははっ。これに、お付き。はは」
何がおかしいのか、兄はひとしきり笑った。伊之助は、息を詰めて立ち尽くす。藤兵衛は刀から指を離さず、そんな伊之助の前に居続けてくれた。
兄の、伊之助を馬鹿にした笑い声を聞いているうちに、伊之助の思考が回り始める。
一体、何の用だろう。文、と言っていたか? 伊之助が父に出した文? だが、あれは、何もおかしいと指摘されるような内容は無いはずだ。なにせ、伊之助が書いたのは結局、その日は戻れません、の一言だけ。……あ。もしかして、文を受け取りました、が間違いだった? あの怪文書のような文は、父からのものじゃなかった可能性はある。
「ああ、馬鹿馬鹿しい」
ようやく笑いをおさめた兄が言った。藤兵衛と、藤兵衛に向かい合う兄のお付きに走った緊張感など気付きもせず、言葉を続ける。
「おい。父上は、戻れと仰せだ。あの、お前を囲っておる医者が、お前の元服の日取りを勝手に定め、直井家に伝えたらしいじゃないか。おめでとうございます、と言われて、取り繕うに苦労したと父上は大層お怒りだったぞ。話が広まってしまった以上、その日にうちで髪を切るしかあるまい。嫁に出す男に、元服もくそもないもんだが。本来、そちらから土下座して頼むべきところをこちらから連絡してやったにも関わらず、断りの文を寄越すとはな。父上だけでなく家の者皆、怒りに震えておるよ。自分の立場をすっかり忘れたようで困ったものだ、とな。儀式の日までに教育し直してやる。ついてこい」
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