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二十五
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「い、伊之助……。もう、来ねえのか……?」
思わず、といった風に口を開いたのは、年少の子たちを押さえて座らせていた年長組の一人、勘助だった。そろそろ、寺子屋を出て仕事に就く年頃だ。親が職人なので、同じように職人になるのだと言っていた。伊之助がこの寺子屋に通い始めたころから、なにくれとなく世話を焼いてくれていた兄のような人。同じ場所に住んでいても、ろくに顔も合わせない兄などより余程、伊之助にとっての兄だった。
「だって、お前、そんな……。だって、ここに来なけりゃ、昼飯どうすんだよ。お前、ただでさえちびなのに……。怪我だって、ここにいねえとどんどん増えるじゃねえか……。いけねえよ、そんなの……」
ああ。
また忘れたのか、仕方ねえな、と言いながら分けてくれた握り飯。また転んだのか、手当てしてやるから見せろと、伊之助の体にしょっちゅうできる傷を、綺麗に洗ったり冷やしたりしてくれていた。
勘助は気付いていたのだ。伊之助が、昼飯を持ってくるのを忘れたのではないこと。転んで怪我をしたのではないこと。
けれど、忘れた、と言った伊之助に合わせて、転んだ、と言った伊之助に合わせて、伊之助は仕方ねえ奴だなあ、と笑い飛ばしてくれていた。いつからか多めに握り飯を持ってきて、こんなに食えねえからやる、と伊之助に渡してくれていた。
「勘ちゃん……」
「伊之助。もう来ねえの?」
「いやだ。いやだ、伊之助。手を持ってくれねえと、おいら上手に書けない」
「なんで? なあ、なんで?」
「こら、お前たち。騒ぐな」
勘助の言葉に、子どもたちはわあわあと声を上げた。師範が慌てて制止するが、どうにも止まらない。
伊之助は、ぐっと一度唾をのんだ。今日は、嬉しいことがたくさんだ。
嬉しいことがたくさんなのに。なのに、どうしてこんなに、胸から何かがせり上がってくるんだろう。
「お、おいらも」
伊之助が口を開けると、ようやく皆が口を閉じた。
「おいらも、まだここに来るつもりだったんだけど、でも」
一人じゃなくなった、と笑う余四郎とずっと共にあろうと決めたから。一人じゃなくなったことが、伊之助もとても嬉しかったから。もしかしたら伊之助は、とっくに一人じゃなかったのかもしれないけれど、でも。
「おいら、仕事が決まったんです。だから、寺子屋はおしまいです」
寺子屋ではいつものことだ。ある程度の読み書きそろばんができるようになれば、なんらかの仕事を得て、皆出て行く。寺子屋とはそういう場所なのだ。それが、伊之助は、考えていたよりほんの少し早かっただけ。
「伊之助……」
「へへ。勘ちゃんより先に出るなんて、思ってもなかったなあ」
にへっと笑って見せると、勘助が少しむっとした顔を向けてきた。それでいい。いつも通りの、そんなのがいい。
「生意気言いやがって。おいらだって、もう弟子入り先は決まってんだよ」
「あれ? 父ちゃんとこじゃねえの?」
「うん。別のとこで修行してから、父ちゃんとこに戻るんだ」
「へえ」
「そういう人は多いぜ。親子だから上手くいかねえ、なんてよくあることだからさ」
そういうもんなのか。うん、そういうもんなんだな。覚えておこう。
「じゃあ、おいら、行くよ。四郎さま、お待たせいたしました」
「うん、そうか」
伊之助は、黙って見守ってくれていた余四郎に声を掛けて立ち上がった。
いやだいやだ、と泣く善吉の声に後ろ髪を引かれながら、伊之助はもう、振り返ることなく来た道を戻った。
おなかがすいた、とすぐにへたり込んだ余四郎を護衛が抱き上げて運んだので、帰りは半刻(一時間)もかからなかったかもしれない。静かにただひたすらに歩く時間が、伊之助にはありがたかった。
思わず、といった風に口を開いたのは、年少の子たちを押さえて座らせていた年長組の一人、勘助だった。そろそろ、寺子屋を出て仕事に就く年頃だ。親が職人なので、同じように職人になるのだと言っていた。伊之助がこの寺子屋に通い始めたころから、なにくれとなく世話を焼いてくれていた兄のような人。同じ場所に住んでいても、ろくに顔も合わせない兄などより余程、伊之助にとっての兄だった。
「だって、お前、そんな……。だって、ここに来なけりゃ、昼飯どうすんだよ。お前、ただでさえちびなのに……。怪我だって、ここにいねえとどんどん増えるじゃねえか……。いけねえよ、そんなの……」
ああ。
また忘れたのか、仕方ねえな、と言いながら分けてくれた握り飯。また転んだのか、手当てしてやるから見せろと、伊之助の体にしょっちゅうできる傷を、綺麗に洗ったり冷やしたりしてくれていた。
勘助は気付いていたのだ。伊之助が、昼飯を持ってくるのを忘れたのではないこと。転んで怪我をしたのではないこと。
けれど、忘れた、と言った伊之助に合わせて、転んだ、と言った伊之助に合わせて、伊之助は仕方ねえ奴だなあ、と笑い飛ばしてくれていた。いつからか多めに握り飯を持ってきて、こんなに食えねえからやる、と伊之助に渡してくれていた。
「勘ちゃん……」
「伊之助。もう来ねえの?」
「いやだ。いやだ、伊之助。手を持ってくれねえと、おいら上手に書けない」
「なんで? なあ、なんで?」
「こら、お前たち。騒ぐな」
勘助の言葉に、子どもたちはわあわあと声を上げた。師範が慌てて制止するが、どうにも止まらない。
伊之助は、ぐっと一度唾をのんだ。今日は、嬉しいことがたくさんだ。
嬉しいことがたくさんなのに。なのに、どうしてこんなに、胸から何かがせり上がってくるんだろう。
「お、おいらも」
伊之助が口を開けると、ようやく皆が口を閉じた。
「おいらも、まだここに来るつもりだったんだけど、でも」
一人じゃなくなった、と笑う余四郎とずっと共にあろうと決めたから。一人じゃなくなったことが、伊之助もとても嬉しかったから。もしかしたら伊之助は、とっくに一人じゃなかったのかもしれないけれど、でも。
「おいら、仕事が決まったんです。だから、寺子屋はおしまいです」
寺子屋ではいつものことだ。ある程度の読み書きそろばんができるようになれば、なんらかの仕事を得て、皆出て行く。寺子屋とはそういう場所なのだ。それが、伊之助は、考えていたよりほんの少し早かっただけ。
「伊之助……」
「へへ。勘ちゃんより先に出るなんて、思ってもなかったなあ」
にへっと笑って見せると、勘助が少しむっとした顔を向けてきた。それでいい。いつも通りの、そんなのがいい。
「生意気言いやがって。おいらだって、もう弟子入り先は決まってんだよ」
「あれ? 父ちゃんとこじゃねえの?」
「うん。別のとこで修行してから、父ちゃんとこに戻るんだ」
「へえ」
「そういう人は多いぜ。親子だから上手くいかねえ、なんてよくあることだからさ」
そういうもんなのか。うん、そういうもんなんだな。覚えておこう。
「じゃあ、おいら、行くよ。四郎さま、お待たせいたしました」
「うん、そうか」
伊之助は、黙って見守ってくれていた余四郎に声を掛けて立ち上がった。
いやだいやだ、と泣く善吉の声に後ろ髪を引かれながら、伊之助はもう、振り返ることなく来た道を戻った。
おなかがすいた、とすぐにへたり込んだ余四郎を護衛が抱き上げて運んだので、帰りは半刻(一時間)もかからなかったかもしれない。静かにただひたすらに歩く時間が、伊之助にはありがたかった。
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