余四郎さまの言うことにゃ

かずえ

文字の大きさ
上 下
7 / 69

しおりを挟む
 伊之助は、しばらく真剣に、部屋に響く音読の声を聞いていた。しかし、どんなに真剣に耳を澄ませて目で教書きょうしょを追ってみても、皆が教書のどこを読んでいるかも分からない。辺りから紙をめくる音がすれば、慌てて共にめくった。できる事はそれだけだった。少しすれば、聞き慣れない言葉の羅列に、あっという間に疲れてしまった。
 そこで伊之助は、はたと気付く。余四郎さまは大丈夫だろうか。寺子屋に三年あまり通った経験のある自分が戸惑っているのだから、初めての余四郎さまはさぞかし戸惑っていることだろう。それとも、武家の授業とはこういうものだと知っていたのだろうか。
 気になって隣をそっと伺うと、大きな目がじいっと伊之助を見ていた。驚いて瞬きする伊之助に、余四郎が口を開く。

「いのもよめないのか」
「はい。すみません」

 年長の自分が、小さな余四郎の助けになってやろうと考えていたが、これはどうにもなりそうにない。伊之助の通っていた寺子屋で、こんなに難しい教書を読んでいる者はいなかったのだ。ある程度の読み書きそろばんができるようになれば、皆、すぐに働きに出ていくのだから。
 それにしても、あまりに不親切ではなかろうか。伊之助はともかく、あきらかに小さな余四郎に、こんなに難しい教書をただ渡して、読んでくださいと言うだなんて。伊之助は、手習いの最初は、自分の名前の読み書きをするものだとばかり思っていた。だから、今日は、余四郎が名前を書く練習の手伝いをしようと考えながらここへ来たのだ。伊之助の通っていた寺子屋ではそうだった。新しく来た子には年長の者がついて教えるものだったし、皆、わいわいと話しながら、自分に合った手本を師範にもらって読み書きの練習をしていた。手習いに通い始める年齢はまちまちだが、いくつから手習いを始めても、まずは、名前を練習していた。それから仮名。そして、よく使う漢字。
 少しずつ練習していくうちに、読める文字や書ける文字が増えていって楽しくなるのだ。自分の名前を読めて書ける、というのは大事なことじゃないか? 嬉しいことだし。まずは、思う存分、名前を書いたら良いのにな、と伊之助は思う。余四郎さまだって、余四郎、と自分で書けるようになったら嬉しいに違いない。伊之助は、とても嬉しかったから。余四郎さまもそうだといい。そして、たくさんの文字を覚えて書けるようになったら、二人で手紙のやり取りなんてしたらどうだろう。それは、とても良い案に思えた。
 
「余四郎さま。私語は慎まれますよう」

 師範が、余四郎と伊之助をじろりと睨みつけながら言う。はっと身を固くする伊之助をよそに、余四郎は堂々と言った。

「よめない」
「聞いて覚えてください」
「そういうものか」
「ええ。皆様、そうされておられます」
「そうか」

 師範の言葉に伊之助は、自分はここできちんとやっていけるのだろうか、とげんなりした。
しおりを挟む
感想 128

あなたにおすすめの小説

君のことなんてもう知らない

ぽぽ
BL
早乙女琥珀は幼馴染の佐伯慶也に毎日のように告白しては振られてしまう。 告白をOKする素振りも見せず、軽く琥珀をあしらう慶也に憤りを覚えていた。 だがある日、琥珀は記憶喪失になってしまい、慶也の記憶を失ってしまう。 今まで自分のことをあしらってきた慶也のことを忘れて、他の人と恋を始めようとするが… 「お前なんて知らないから」

罪人の僕にはあなたの愛を受ける資格なんてありません。

にゃーつ
BL
真っ白な病室。 まるで絵画のように美しい君はこんな色のない世界に身を置いて、何年も孤独に生きてきたんだね。 4月から研修医として国内でも有数の大病院である国本総合病院に配属された柏木諒は担当となった患者のもとへと足を運ぶ。 国の要人や著名人も多く通院するこの病院には特別室と呼ばれる部屋がいくつかあり、特別なキーカードを持っていないとそのフロアには入ることすらできない。そんな特別室の一室に入院しているのが諒の担当することになった国本奏多だった。 看護師にでも誰にでも笑顔で穏やかで優しい。そんな奏多はスタッフからの評判もよく、諒は楽な患者でラッキーだと初めは思う。担当医師から彼には気を遣ってあげてほしいと言われていたが、この青年のどこに気を遣う要素があるのかと疑問しかない。 だが、接していくうちに違和感が生まれだんだんと大きくなる。彼が異常なのだと知るのに長い時間はかからなかった。 研修医×病弱な大病院の息子

巻き戻りした悪役令息は最愛の人から離れて生きていく

藍沢真啓/庚あき
BL
婚約者ユリウスから断罪をされたアリステルは、ボロボロになった状態で廃教会で命を終えた……はずだった。 目覚めた時はユリウスと婚約したばかりの頃で、それならばとアリステルは自らユリウスと距離を置くことに決める。だが、なぜかユリウスはアリステルに構うようになり…… 巻き戻りから人生をやり直す悪役令息の物語。 【感想のお返事について】 感想をくださりありがとうございます。 執筆を最優先させていただきますので、お返事についてはご容赦願います。 大切に読ませていただいてます。執筆の活力になっていますので、今後も感想いただければ幸いです。

幽閉王子は最強皇子に包まれる

皇洵璃音
BL
魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。 表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。

もう人気者とは付き合っていられません

花果唯
BL
僕の恋人は頭も良くて、顔も良くておまけに優しい。 モテるのは当然だ。でも――。 『たまには二人だけで過ごしたい』 そう願うのは、贅沢なのだろうか。 いや、そんな人を好きになった僕の方が間違っていたのだ。 「好きなのは君だ」なんて言葉に縋って耐えてきたけど、それが間違いだったってことに、ようやく気がついた。さようなら。 ちょうど生徒会の補佐をしないかと誘われたし、そっちの方に専念します。 生徒会長が格好いいから見ていて癒やされるし、一石二鳥です。 ※ライトBL学園モノ ※2024再公開・改稿中

BL世界に転生したけど主人公の弟で悪役だったのでほっといてください

わさび
BL
前世、妹から聞いていたBL世界に転生してしまった主人公。 まだ転生したのはいいとして、何故よりにもよって悪役である弟に転生してしまったのか…!? 悪役の弟が抱えていたであろう嫉妬に抗いつつ転生生活を過ごす物語。

お決まりの悪役令息は物語から消えることにします?

麻山おもと
BL
愛読していたblファンタジーものの漫画に転生した主人公は、最推しの悪役令息に転生する。今までとは打って変わって、誰にも興味を示さない主人公に周りが関心を向け始め、執着していく話を書くつもりです。

聖女の兄で、すみません!

たっぷりチョコ
BL
聖女として呼ばれた妹の代わりに異世界に召喚されてしまった、古河大矢(こがだいや)。 三ヶ月経たないと元の場所に還れないと言われ、素直に待つことに。 そんな暇してる大矢に興味を持った次期国王となる第一王子が話しかけてきて・・・。 BL。ラブコメ異世界ファンタジー。

処理中です...