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十六 気付き
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結局、かよと松木は変わらず穏やかに毎日を過ごしていたが、話を知る周囲が放ってはおかない。その知っている話とやらは、尾ひれ背びれがたんまりと付け足された、最早元の形を残していないような代物であったが、そんな事は長屋のおかみさん達にはどうでも良いことだった。
両思いは間違いない。だというのに、相も変わらず二人は挨拶を交わしてひとことふたこと話すだけである。
町の者たちには、両思いであると確認し合った年頃の男女の仲が進まぬというのは、理解し難いことであった。
「それで、婚儀はいつになさるんですかい?」
「いや、某とかよは……」
「松木様。婚儀の後は、どちらにお住いになられるのですか?」
「かよ師匠は独立なさるのですか?おこうさんもご一緒に家移りされる?」
「いや、その」
松木がもごもご言っている間に、話はどんどん進んでいく。
「三味線の音が聞こえなくなると思うと、寂しいわねえ」
「先だって、あの音が五月蝿くて堪らないねえ、と喚いてたのは誰だったかね」
「ありゃあ仕方ないよ。子守りしていた赤子が、ようよう寝付いた所に激しい演目をやるもんだから、あっという間に起きて泣き出したんだもの」
稽古場から聞こえてくる三味線の音に負けぬ声で話す女の背には、今日も赤子が一人おぶわれている。三味線の音に慣れているのだろう。機嫌よく背中に収まっていた。
松木を余所に話し出した女たちから、つと離れようとすると気付かれ、また話に戻される。
「かよさんはねえ、本当にもう駄目かもしれないってくらい弱ってたんですよ」
「本当に。こんなに回復して、想い人までできるなんて信じられないくらいよね」
「骨と皮だった」
「口が聞けない子だとあたしゃ思ってたよ」
「それがねえ」
「ねえ。あんなに話せるなんて、半年知らなかったやね」
「松木様、幸せにしてあげてくださいね」
かよは、どのような三年間を過ごしてきたのか。聞いてよいのか、聞かぬ方がよいのか。
話を聞くに、よく生きていてくれた、と松木はしみじみ思った。
幸せに。
できればこの手で幸せにしたい。
だが。
「うかうかしてると、攫われちまいますよ」
返事をせぬ松木に焦れたのか、一人が言った。
「簡単には断れない身分の方も、たくさん習いにいらっしゃいますからね」
「おこうさんは、かなり歳がいってから教室を開いたんだが、それでもあの通りの綺麗な方だから、色々あってねえ」
「独り身を通したけれど、それもあの、ずっと通っていたお弟子さんと好い仲だって皆知ってたから何とかなったんであって、かよさんみたいに若くて誰とも約束が無けりゃ、引く手あまたなんてもんじゃないさ」
「この間の、三浜屋の若旦那の話は聞いたかい?」
三浜屋?
「おかよさんは、そういうお誘いだと知らずに断ったらしいよ。着物なんて仕立てられる持ち合わせがございませんので、出世してから参りますって」
「それで引いてくれたんだから、もっけの幸いだったね」
「いや、それがさ。金輪際取引はしないとおこうさんに文が届いたんだって」
「まああ。吝嗇くさい。大店の名折れさね」
「元よりそんな所で仕立てられやしないから、痛くも痒くもないっておこうさんも言ってたよ」
「違いない」
あはははは、と長屋に明るい笑い声が響く。
松木は、気が気ではなかった。
断れない誘いが来たら?来たらかよが、他の者に嫁ぐということだ。
自分は見合いを断ればいい、と考えていたが、かよには断れない誘いが多々ある。
そうなれば、もうこうして会うこともできず……。
そのことに、今ようやく松木は気付いたのだった。
両思いは間違いない。だというのに、相も変わらず二人は挨拶を交わしてひとことふたこと話すだけである。
町の者たちには、両思いであると確認し合った年頃の男女の仲が進まぬというのは、理解し難いことであった。
「それで、婚儀はいつになさるんですかい?」
「いや、某とかよは……」
「松木様。婚儀の後は、どちらにお住いになられるのですか?」
「かよ師匠は独立なさるのですか?おこうさんもご一緒に家移りされる?」
「いや、その」
松木がもごもご言っている間に、話はどんどん進んでいく。
「三味線の音が聞こえなくなると思うと、寂しいわねえ」
「先だって、あの音が五月蝿くて堪らないねえ、と喚いてたのは誰だったかね」
「ありゃあ仕方ないよ。子守りしていた赤子が、ようよう寝付いた所に激しい演目をやるもんだから、あっという間に起きて泣き出したんだもの」
稽古場から聞こえてくる三味線の音に負けぬ声で話す女の背には、今日も赤子が一人おぶわれている。三味線の音に慣れているのだろう。機嫌よく背中に収まっていた。
松木を余所に話し出した女たちから、つと離れようとすると気付かれ、また話に戻される。
「かよさんはねえ、本当にもう駄目かもしれないってくらい弱ってたんですよ」
「本当に。こんなに回復して、想い人までできるなんて信じられないくらいよね」
「骨と皮だった」
「口が聞けない子だとあたしゃ思ってたよ」
「それがねえ」
「ねえ。あんなに話せるなんて、半年知らなかったやね」
「松木様、幸せにしてあげてくださいね」
かよは、どのような三年間を過ごしてきたのか。聞いてよいのか、聞かぬ方がよいのか。
話を聞くに、よく生きていてくれた、と松木はしみじみ思った。
幸せに。
できればこの手で幸せにしたい。
だが。
「うかうかしてると、攫われちまいますよ」
返事をせぬ松木に焦れたのか、一人が言った。
「簡単には断れない身分の方も、たくさん習いにいらっしゃいますからね」
「おこうさんは、かなり歳がいってから教室を開いたんだが、それでもあの通りの綺麗な方だから、色々あってねえ」
「独り身を通したけれど、それもあの、ずっと通っていたお弟子さんと好い仲だって皆知ってたから何とかなったんであって、かよさんみたいに若くて誰とも約束が無けりゃ、引く手あまたなんてもんじゃないさ」
「この間の、三浜屋の若旦那の話は聞いたかい?」
三浜屋?
「おかよさんは、そういうお誘いだと知らずに断ったらしいよ。着物なんて仕立てられる持ち合わせがございませんので、出世してから参りますって」
「それで引いてくれたんだから、もっけの幸いだったね」
「いや、それがさ。金輪際取引はしないとおこうさんに文が届いたんだって」
「まああ。吝嗇くさい。大店の名折れさね」
「元よりそんな所で仕立てられやしないから、痛くも痒くもないっておこうさんも言ってたよ」
「違いない」
あはははは、と長屋に明るい笑い声が響く。
松木は、気が気ではなかった。
断れない誘いが来たら?来たらかよが、他の者に嫁ぐということだ。
自分は見合いを断ればいい、と考えていたが、かよには断れない誘いが多々ある。
そうなれば、もうこうして会うこともできず……。
そのことに、今ようやく松木は気付いたのだった。
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