八雲先生の苦悩

夏目碧央

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髪を切って来た

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 何とか無事な日々を過ごしていたある日。朝のホームルームに立つと、颯太が髪を切ってきていた。俺はいつも生徒が散髪してさっぱりしてくると、
「お、髪切ったな。」
と言って髪をわしゃわしゃする。切りたての髪が気持ちいいのと、まあ、見ているぞという生徒に対する愛情表現というか。なので、颯太が髪を切ってきたという事は、颯太の髪をわしゃわしゃするチャンス!
 だが待て。もし他に昨日切ってきた生徒がいたら、大変な事になるぞ。俺が颯太の事ばかり見ていると思われてしまう。俺は慎重に、かつ素早く生徒を見渡した。お、髪がさっぱりしている奴がいた。田中だ。あの感じは切りたてだ。だが、昨日かどうかは正直言って分からない。一昨日だったかもしれない。だがここはもう仕方ない。たとえ昨日切ったのではなくとも、他の奴よりは最近に切った事は間違いない。颯太だけにわしゃわしゃするよりは、数日遅れていても二人にわしゃわしゃした方がいいに決まっている。よし。
 俺はまず真ん中辺の前から2番目に座っている田中のところへ行った。
「田中、髪切ったな。」
俺はにこやかに言って田中の頭をわしゃわしゃした。田中は、
「やめろよう。」
と言いながら、嬉しそうに笑う。
 そして、颯太のところへ。いかん、心臓がバクバク言う。こういう事は一瞬でもためらったらもうできない。勢いのままやってしまうのがコツだ。そして、震える手に気づかれないように、
「颯太、お前も切ったな。」
ちなみに、隣のクラスに池田がいるので、颯太と呼んでも問題ない。他の先生もそう呼んでいる。田中は、奇跡的に特進クラスには一人しかいないので、田中と呼ぶ。
 それはそうと、俺はほんの一瞬躊躇してしまったけれど、思い切って颯太の髪をわしゃわしゃした。やった。颯太の髪はサラサラで、本当に気持ちがいい。
 すると、颯太は上目遣いで俺を見て、
「俺が切ったの、一週間前だよ。」
と言った。
 う、そ、だー。絶対にない。田中は一瞬間前に切ったかもしれないが、颯太は違う。昨日はもっと長かった。俺は毎日ちゃんと颯太を見ているのだから、間違いない。それなのに、なぜそんな嘘をつくのだ。俺を試しているのか?ん?どう試しているというのだ。俺がちゃんと颯太を見ているかどうかを?それとも特別な目で見ているかどうかを?見ている事をアピールすべきか、特別に見ていない事をアピールすべきか、一体どっちなのだ!
 長く固まっているわけにもいかない。
「ふはははは。」
俺は不敵に笑った。とりあえず笑って胡麻化した。田中は何も言わなかったが、本当に昨日切ってきたのだろうか。もし、颯太は絶対に昨日だと俺が言い張った挙句、田中から自分は一週間前だったと言われ、それが本当だったら立つ瀬がない。かと言って、颯太の嘘を信じた振りをして、そうか一週間前だったか、などと言ったら、俺の事ちゃんと見てないじゃん、と思われて、嫌われてしまうかもしれない。ああ、どうしたら、どうしたら。
「この手触りは一週間も経っていないぞ。俺には分かるんだ。お前は昨日切ったのだ。」
俺はさっきは片手でわしゃわしゃしたが、今度は両手で思う存分颯太の頭をわしゃわしゃした。さすがに颯太はくすぐったそうに笑った。
「ギブ、ギブ!」
颯太はそう言って笑いながら俺の手を払いのけた。一瞬、手と手が触れた。ドキ!俺は手を引っ込めて、ついでにくるりと生徒に背を向けて、教卓の所へ戻った。今誰かに顔を見られたらちょっとヤバイ。一つ深呼吸をして顔を戻し、生徒の方に向き直った。これで髪の毛の話題は終わり、ここからはいつもの連絡事項へ。颯太は俺がぐちゃぐちゃにした髪を両手で必死に直していた。ああ、やっぱり可愛い。俺は今日のわしゃわしゃを、後で思い出して幸せに浸るのだろう。
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