手足を鎖で縛られる

和泉奏

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吐き気と、暴力と、

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「………」


両腕を差し出した俺に、倒れ掛かってくる重いからだ。
重い。
熱い。

…彼にふれている場所から、べっとりと温かい何かが伝わってくる。


(…ぇ…)


頭の中が痺れて目の前の現実が受け入れられない。
脳内が真っ白に溶ける。


「……あお……い…?」


彼の名を呼ぶ自分の声が、やけに遠く聞こえた。
白々しい声音。
それは、この部屋に漂う空気にまるで似つかないほど、気の抜けたもので。

じわりじわりと、意識しなくても俺の身体を濡らす…モノ。


(………どう、して…?)


…どうして、


 手が、

むねのあたりが、


   あつく、

        ぬれて、
   あたたかい

これは。

………………………なに


わかりきっているはずなのに、わからない。
わかっているはずなのに、わかりたくない。

もう二度と、あの日お母さんを殺した日から、もう二度と、

もう大切な人を、目の前でなくしたくなくて、

なのに、あの時と同じ感覚が、今、おれのうでのなかにある。

絶えず身体を濡らすこの液体は、


だれの、もの…?


おれじゃない。おれの、ち じゃない。…?わかんない。だっていたい。全身打撲とか傷だらけで痛くないわけないからもしかしたらおれのちなのかもしれない?でもやっぱりいたくない。おれの身体からでてるちは、身体に刻まれてる傷は、そうしつかんはそんなものじゃない。…?ちが、ちが、ぬれる。どろどろと、こぼごぼと、こぼれて、おちて、ぬらして、濡れて、


だから、ほかのモノだれかのモノおれのものじゃないちがうひとの体温ぬくもりおんどいきいのち、

不安定に揺れる思考が、ぴたりとやむ。

おれのじゃない。


じゃあ、


「…………蒼、の…?」


確かにおれは今、彼を抱きしめていて。
その身体を、腕で、胸で、受け止めていて。

彼は、動かない。

声を、発しない。

笑わない。

どうして…?

(どうして、なんて…)

そんなの、そんなの…

わなわなと震えて、どうしても彼の顔が見たくて、安心したくて、手を離す。

…きっと、そうすれば

蒼なら、笑って冗談だよって頭を撫でてくれるはずだ。
まーくんは簡単に騙されるんだからって、困ったような顔で慰めてくれるはずだ。
それで、おれはこんなことするなんてって怒って、そんなおれにごめんって蒼がちょっとだけ嬉しそうに笑って。


…そうなる、はずなんだ。


「……」

「………あおい…?」


ぎこちない笑みを頬にはりつけて、そんな夢を期待して…彼の名を呼ぶ。

でも、

…声もなく、蒼の身体が…支えるものを失くしてずり落ちていった。

その光景に、舌が強張って、目の前が一瞬真っ暗になる。


「…ぁ…あ…」


何度も何度も唇を動かして、やっと、絞り出した声は酷くしゃがれていた。
瞼を閉じて、静かに横たわっている彼。
黒髪がその綺麗な顔にかかって、でも、言葉を出さない、動かない彼は、まるで

まるで

不意に浮かんだ思考を掻き消す。
ちがう。そんなわけない。
ちがう。ちがう。
これは、ちがう。


(…あおいが、しぬわけ、ない…)


「…あおい、…」


誰かの声がする。


「あおいってば…」


ああ、違う。
他の誰かの声じゃない。
…自分の声だ。


「あおい…あおい…おきて…おきてよ…」


喉の奥がひく、と痙攣する。
ぐったりとして動かない彼の身体に、震える手を伸ばしてゆさゆさと揺らす。
冗談、冗談に決まってる。
蒼が、おれを置いていくわけない。
…おれを、一人にするはずない。


でも。


「やだ…っ、やだやだやだ…っ、やだ………やだよぅ…」


ゆさゆさ。
泣いて泣いて泣き尽した子供のようなぼんやりした取りとめのない気持ちのまま、徐々に焦るように速くなる鼓動に突き動かされて、強く何度も何度も揺らす。
どれだけ揺らしても、その身体に触れて呼びかけても、彼は目を開けてくれない。話してくれない。こっちを見てくれない。

…”まーくん”って呼んで、頭を撫でて、笑ってくれない。


「…やだ…っあおい…ッ!!あおい…!!ぅ…ッあああ…!!…」


どうしてこんなことになったんだ。
どうして、こんなことに…っ

おれが、また蒼に迷惑をかけたから…?

おれが、いなくなってくれればよかったのにって願ったから。
おれが、あおいなんかにあいたくなかったっていったから。

蒼が、蒼が、蒼が、死んでしまった。


「…っ、…おねがい…おねがいだから…」


おきて…わらって。
嘘だっていって。

おれをみて。
もう二度と、わがままなんか言わないから。
もうこれ以上、自分の為に何かを望んだりしないから。
いなくなってほしいなんて言わないから。


縋る。懇願する。切願する。


…お願いだから。お願いだから。お願いだから。


「…おれに…わらってよ…。さっきみたいに、おれのこと、すきだって…っ、あいしてるって、…ぃ――っ、」


記憶にある彼の笑顔と、今倒れて血の気が引いて瞳を閉じた彼の顔

その現実の非情さを、違いを目で理解してしまう。
おれの祈りを遮るように、気管が締まる。
ひゅっなんて情けない音が鳴って、反射的に床に手をついて土下座するような格好で腰を折った。

苦しい。

は…っ、は…っとうまく呼吸ができずに餌を求める鯉みたいに口をパクパク開いた。

酸欠状態でもがいてもがいて、必死に酸素を取り入れようと喉は狭く閉じたまま口だけが無意味に何度も開く。
手足がしびれる。
頭が、顔が、首が、全身が痺れる。


喉が腫れ上がって、うまく呼吸ができない。言葉も紡げなくなって、無理矢理開こうとすると今度は胸の辺りに圧迫感を覚える。
喉は張り付いたように動いてくれない。


「――ッ、ぁ…」


ひゅっひゅっとひきつけのような音が漏れて、口を手で塞ぐ。
息が、できない。


「…っ、…ッ、」


飲み込めない唾液が口の端から零れて床に落ちた。
すぐ目の前にいるはずの蒼の姿さえぼやけて見えなくなっていく。

…ああ、やっぱり夢なんだ。
だから、うまく見えないんだ。

…そうして現実から逃げようとして。

でも、どれだけたっても、横たわった彼の姿は消えない。
消えないんだ。

…なかったことになんかならない。


「…っ、…ぁ…ぁああああ゛…っ」


赤子のように、人が話す言葉とは程遠い声を出して咽び泣く。
感情を全部噴出するような絶望的な獣のような咆哮が口から飛び出す。
さっきまで俺を見て、抱きしめて、微笑んでくれていたはずの彼は今床で、刃物を刺した状態でぐったりと血を流して倒れている。
怖いくらい血の気の引いていく彼の顔。


「…ぁ゛あ゛あ゛あああぁぁぁああああああ…ッ…!!!!」


(いやだこんなのやだ。こんなの、いやだ…!!)

また、おれは、おれが、おれのせいで、おれのせいで、おれのせいでおれのせいでおれのせいで

もう何も見たくなくて、どうしたらいいかわからなくて、ただただひたすら両手で顔を覆って咽んでいた。


…――瞬間。


「…ま……く…」

「…ッ、あお…い……?」


声が聞こえた。
ほんの微かに、よく耳を澄ませないと聞こえない程の声。

ばっと顔を上げて彼の方をみれば、少しだけ瞼を開け、苦しそうに呼吸を荒げていた。
僅かに痛みに顔を歪めて瞳を伏せる。
そして彼はゆっくりとこっちを見上げた。


「……なんで…ない…て……の…?」

「あおい…っ、あおい…っ!!」


掠れて息も絶え絶えな声音。

(生きてる…っ、生きてる…ッ)

汗ばんだ彼は、ぼろぼろと涙を流すおれをみて、不思議そうに目を瞬いた。
息を吸う行為だけでも辛そうな彼の言葉に、おれは泣きすぎて何も返せない。


「…おれ…の、…ため…に…ないて、……くれ…るの…?」

「…ッ、ぅ…、ぁ…」

「……うれし…な…」


痛みでそれどころでないはずなのに、彼はすごく嬉しそうに、幸せそうに頬を緩めるから。
そんな彼に何か返したくて、怒りたくて、でもその表情を見ただけで胸の深いところが刺激されて言葉にならない。


ずっと泣き続けるおれに困ったように微笑んだ彼が、とても緩慢な動きで手を少しだけ持ち上げた。


「…でも、…おれ…は…」

「っ、」


「…わら…て……ま…ーく、ん…が…い…ちば…ん、……す…」


聞き取れない程小さく掠れた声。
途切れ途切れの言葉が、音を失くした。
それと同時に、おれの頬に触れようとした彼の手は、力を失くして地面に落ちた。


「…ッ」


地面に落ちた手を見て、一瞬息が詰まった。


「あおい…っ?!!あおい…っ」


もう、彼はおれがいくら強く揺すっても、目を開けてくれなかった。

(…ぁ……)

胸が震える。
心臓が震える。


「…――――――ッ!!!!」


言葉にならない慟哭が喉を引き裂く。
魂を絞りだすように呻く悲しげな叫び声が、喉の奥を突き破ってくる。
酷い嗚咽を漏らしながら、縋るように彼の胸の上で泣きじゃくって。

…不意に、耳に届いてくる彼の鼓動。
規則正しくなんかない。
大けがをしているせいで、狂ったように鳴っている。
鼓動の音は…徐々に、その鼓動を止めようと弱くなって。
その音に、頭を殴られたような衝撃が襲った。


「……っ」


いいのか。
まだ蒼は生きてる。
生きてるのに。

おれは、このままずっと泣いてるだけで、蒼を見殺しにしてもいいのか。
このまま、蒼が本当に死んでもいいのか。


「…い…やだ…っ」


唇を噛み締めて、腕でぐじぐじと涙を拭った。
息を吸って、部屋の隅に顔を向ける。
ずっとそこに静かに立ったままでいる彼に、叫んだ。


「…っおねがいします…っおねがいします…ッ、あおいを…っ、たすけてください…っ!!」



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