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#2 揺らぐ心

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 私はクーラーをつけたい衝動と闘っていた。もしここで負けてしまったら、一時の涼しさと引き換えに、この先到来するのが確実な、史上最悪の暑さにとても耐えられやしないことは分かりきっていたからだ。なまじ未来を知っているだけに、私は何とか踏み留まっている。運命を知らないというのは、人としてはありがたいことなのかもしれない、とか大げさに思ってみる。
 案の定、夢はあれから一向に冷める気配がない。断固として、過去に飛んでしまった、なんてファンタジックな仮説は立てたくない私は、これがギネスに認定されるような長編の夢だと思って、もう半分が消費された七月のカレンダーから目をそらした。
 私はベッドに思い切り身を投げて(あまりに大きい音がしたから、家族が家にいなくて本当に良かった)、左手を額に乗せた。
 涼真との距離感は、私との場合はとんとん拍子に近づいたのに、みどりとでは同じようにいかなかった。回りくどい言い方をするとそうなるけど、実際のところ、退院してからのみどりが取った行動は、とても涼真に心惹かれた人のそれではなかった。あの時、病室で感じた危惧みたいなものは、私の早とちりだったんだろうか。それとも、みどりは私なんかとは違って、たった一度優しさがかっこよく見えただけで、骨の髄まで恋に浸食されるようなことはないんだろうか。
 おそらくは後者だ、と思った。日常の何気ない様を目にしてたら、自然と熱は冷めるものだ。実際、付き合って長い時間を一緒に過ごしてたら、以前はかっこいいと思ってた何気ない仕草だって、どんな男だって同じようにするものだと思い直せてしまう。
 刹那的に熱狂して、その後はどんどんと熱を失っていくのは、私という人間の弱い部分だ、と思ってしまった。
 私は寝返りをうつと、枕の上に腕を置いて、そこに頭を乗せた。
 この夢が私に見せようとしてるものについて、答えは出してみたものの、それからの日々は、それが正解ではないと言いたげな味気ないものばかり。みどり以外にしたって、涼真と近づいたという話は聞かない。
 なんて考えてから、私は頬を膨らませた。この夢の創造主たる私は、深層心理でどれだけ涼真のことを考えてるんだ。よほど別れたくなかったのか、別れようとしてることへの戒めなのか、はたまたそれ以外の理由かは判然としないけど、ここまで涼真について考えさせるなんて、我ながら執着が酷すぎると思う。
 別に酷いことをされて捨てられたとか、突然連絡が付かなくなるとかしたわけでなく、ただお互いの距離が広がりすぎたから、別れることにしようか、と決めただけなのに、こんなにも自分の気持ちと向き合わせようとするなんて、私の意識はどれだけ優柔不断なんだ。
「あー、もうっ」
 臥せってたらドツボにハマるだけな気がして、私は適当に外向きの格好をしてから外に出た。
 家の中より、外の方が涼しいような気もした。
 爽やかな風を吸い込めば、縮こまって考え込むことが思考を詰まらせるように思えて、アウトドア派がポジティブになれる気持ちも少しだけ分かった。
 私はまた、例の階段のところに差しかかった。今日は清々しく晴れわたっているからと、上ってみることにした。
 適当に並べたのかと疑いたくなるほど、各段はデコボコしていて、幅もまちまちに感じられる。
 中腹の踊り場にまで来たところで、太股のあたりがもうパンパンになったのを感じる。ここで毎日トレーニングすれば、どんな運動部でもやっていけるんじゃないか、なんて適当なことを思った。
 振り返ってみれば、この町が少しだけ遠望できた。
 これは、夢じゃないかもしれない。
 静かに、心の奥深くに沈み込んでいくような予感があった。それは恐ろしさを湛えることなく、柔らかく受け止められた。
 こんなにも精細な世界を、私の脳が作り出せるだろうか。毎夜目にするようなレベルではとても無理だろうし、いつまでも眠ったままなんだとしても、ここまでリアルには描けないように思った。
 これはもう、夢なんかじゃなくて、あったかもしれない現実なんじゃないか。
 それを受け容れるかどうかについては、まだ決めないことにした。ただ、ここで過ごす時間が伸びれば伸びるほど、私は元の現実との区別がつかなくなっていくだろうとは感じていた。
 私がここにきたのは、偶然なのか、誰かの意図があってのことなのかは、分からない。そう遠くない内、私はこの世界でやってきた理由を分かる。それは予感でもあったし、使命だとも思った。
 私は遠くに息を吐くと、太股を拳で叩いた。
 何が解けたわけでもない。
 それでも、この晴れた空みたく、心は晴れやかだった。
「よしっ」
 私は残りの段差を上りはじめた。

「ということで、演劇でのそれぞれの役割は今配ったプリントの通りになりました。確認して、抜けもれや不備があったら実行委員まで言いにきてください」
 私はプリントに目を落とした。私の名前は、小道具班のところにあった。前と同じだ。やっぱり、この世界では恋愛に関わる要素以外は、概ね同じ筋書きを辿るらしい。
 そう結論づけた矢先のことだった。小道具班のメンバーの最後に、柳の文字を見つけてしまったのだ。
 前は、涼真は大道具班だった。小道具みたく手先を使う作業は、俺にはしゃらくさくてやってられない、とか言ってたのに、どうして。
 もしかして、と思って、改めてメンバーの名前を見返した。でも、みどりの名前はなかった。なら、と衣装班のところを見ると、やはりみどりはそこに配属されていた。どうやら、みどりについては私の知る過去と同じ形になっているらしい。
 希望制とはいえ、実行委員の采配で決められているから、ちょっとしたことで振り分けは変わってしまうものなんだろうか。少なくとも、恋愛関係以外で大きな変化は今までなかっただけに、今回のこともその手の何かがあると感じずにはいられなかった。
「桜木さん、ちょっと良い?」
 気が付くと、目の前に実行委員の一人の板橋さんがいた。
 そうして板橋さんに連れられていった先には、涼真がいた。
「二人には、小道具班で使うものを買い出しに行ってほしいの。本当なら、もっと前からお願いするべきなんだろうけど、分かる通り、スケジュール、押してるから……」
 板橋さんは少しやつれて見えた。脚本をどうするかでそこそこ揉めたらしく、それがスケジュールの後ろ倒しに繋がったのはクラスの誰もがよく知っていた。
 それについても、私の知る過去と同じだった。
「俺は予定がないから構わないけど、桜木は?」
「うん、私も今日は暇だし、良いよ」
 涼真と二人でなんて、何だか色々緊張しそうだけど、板橋さんの手前、断るわけにいかなかった。
「良かった……。他の子にも頼んでみたんだけど、みんな忙しいらしくて。中には演劇そのものに積極的じゃない子もいるし……貴子とか貴子とか貴子とか」
 板橋さんはじっとりとした目線をギターケースを背負った貴子の方に向けていた。軽音部でギターとボーカルを務めてる貴子だけど、去年も文化祭の準備は特に渋ってたな、と思い返す。
「まあ、文化祭にはそれぞれ入れ込み具合があるだろうしな。全員参加した方が良いのは良いけど、出来る奴がやっていった方が上手く回るだろ」
「そう言ってくれると実行委員としてはすごくありがたいよ」
 涼真の一言で救われたのか、板橋さんの表情はいくらか和らいだように映った。
「それじゃあ、お願いね。あ、ちゃんと領収書はもらってね。それがないと、学校からお金出してもらえないから」
「分かった。あ、板橋、あんま無理すんなよ」
「ありがと」
 板橋さんが別の班のところへ話にいくと、私は急に息が詰まるのを感じた。
「なら、行くか」
「う、うん」
 どうやら、意識しているのは私だけらしい。うう、変な感じだ。涼真と二人きりなんて、今さら何だっていうこともないはずなのに、付き合う前くらいの緊張を感じてしまう。
 しっかりしろ、私、別人じゃあるまいし、と言い聞かせて、私は自分の鞄を取りに戻った。

 私たちは恋人には見えない程度の距離感で校門を抜けた。
「つっても、どこ行ったら良いんだろうな」
 涼真は板橋さんに渡されたメモをひらひらとさせながら言った。
「大体百円ショップで揃うかな」
 小道具班も二周目な私は、一周目の時、私も同じことをもう一人に聞いたっけ、と思い返す。ビニールテープとかポスターカラーとかはともかく、グルーガンみたいなクラフト系に使うようなものまで揃えられるとは知らなかった私は、今どきの百均の凄さに感心したのを覚えている。
「へえ。百均って凄いんだな」
「下手したら百均だけで生きていけたりしてね」
「かえって割高になりそうだな」
「あ、確かに。普通に買った方が安かったりするものも多いもんね」
「でもいざ入ってみたら、結構ポンポンかごに入れちゃうんだよな」
「分かる。百円だからまあいっか、って気になるよね」
 危惧していたほどには、緊張が目に見えて表れることはなかった。何気ない会話を交わしている内に、肩の力も抜けてきて、恋の熱が落ち着いた頃の二人の会話みたいなものが出来るようになった。
「ここから一番近い百均だと、どこになるんだ?」
「えっと、どこだっけ」
 一年前に行ったはずなのに、立地については私の中であやふやだった。
「覚えてないや。マップ見るね」
 鞄からスマホを出して、百円ショップと検索をかけた。この近くだけでも、私の記憶にあるもの以外に数件あるらしいのは驚きだった。
「そこまで遠くないよ。ここから十五分くらい」
「バスとか乗らないで済むのは助かるな」
「だね」
 私はスマホの画面を時折見ながら、涼真を誘導した。
 だけど、少し歩いたところで、マップを見ても自分がどこにいるのか分からなくなった。
「ごめん、ちょっと待ってくれる? えっと、ここで曲がって良かったんだよね……。あれ、違うのかな、一個奥?」
 おかしい。私は指示に逆らってないはずなんだけどな。
「何やってんだよ」
 ちょっと見せてくれ、と言って、涼真は私の手からスマホを取った。僅かに触れた指先に、いつかのような熱を感じた。
「ここじゃなくて、一個奥だな。ってか、なんでマップ見て間違えてんだよ」
「ち、違うって。私が最初に見た時は、現在地は奥の方にあったんだし」
 多分、そのはずだ。現在地を示す青い丸が、奥の方の道を曲がったように見えたのだ。
「どうだかな」
 涼真は意地悪く笑った。普通ならそんな笑い方をされたら反論するはずなのに、私はどこか懐かしく、愛おしく思った。
 私の知るもう一人の涼真だって、いつかはちゃんとこんなふうにして私と向き合ってくれたんだ。でも、今はもう、二人が顔を合わせるのは、偶然以外ではありはしない。いったい何が、私たちをそうさせてしまったんだろう。
 もし――
「桜木、放ってくぞー」
 声がして、ハッとした。今頭にふいに浮かべたことは、頭から追いやることにした。
 私は極力スマホに視線を向けて、涼真が傍にいないように思うことにした。
「おいおい、そんなに画面ばっか見てたら、けつまずくぞ」
「わ、分かってるけど、もう間違えたくないし」
「なら、俺が代わりに見てやろうか?」
「良い。私が見るの」
「そ。なら任すわ」
 マップでは分かりにくい三差路も、今度は間違えずに通ることができた。
 当初の予定よりは一、二分遅れはしたものの、私たちはちゃんと目的地に辿り着いた。スーパーとか薬局とかがくっついた、田舎としては大きめな複合施設だ。
 店の中に入ると、道路を歩いていた時以上に、涼真と一緒だという気がした。もうマップという逃げも使えないし、涼真ではなく商品に目をやるよう意識がける。
「メンディングテープってのは、これで良いのか?」
「で、良いと思うけど。そう書いてあるでしょ?」
「ああ。けど、学校のお金だし、万が一違ってたら怒られそうだしな」
「名前まで合ってて違ってたら詐欺だよ……」
 でも、二人で買い出しという以上、涼真とノーコンタクトというわけにはいかない。決して近くないはずなのに、すぐ隣でこっちを見る涼真と目を合わせると、心拍数が上がったように感じた。
 簡単な話、これは私が、と分担すれば良いのだ。でも私は、心からそうしたいとはとても思えなかった。この緊張の高まりを、心のどこかではすごく歓迎していた。すっかり涸らせてしまった心に、もう一度潤いが戻ったように思えてならないからだろうか。涼真が私に向かって言葉をくれることが、変な話だけど、新鮮に感じられてしまうのだ。
「フェルト? って何だ」
「あ、それはこっち」
 私はフェルトが並ぶコーナーにさっと移動した。涼真がちゃんと後ろをついてきてくれるのが嬉しかった。
「これこれ。見たことはあるでしょ?」
「あると言えばあるような……」
「柳君の家にもあるんじゃないかな」
「意識したことはないな」
「誰でも知ってると思ってた」
「いや、さっぱりだな」
 ちょいちょい、と涼真が指先を動かすと、思わず笑ってしまった。そうそう、涼真は何かを否定するとき、こうやって親指以外を曲げたり伸ばしたりするのだ。
 その独特な仕草を知ってることが、一時の私の誇りだった。きっと誰もその癖を意識して見ないし、あ、またやってる、なんて思う度、愛おしさが募るのを覚えた。
 店内に流れる曲が、ちょうど悲しいラブソングになって、私の心までブルーになりそうだったから、私は気持ちを切り替えるのに、適当な話をすることにした。
「柳君は、なんで小道具班に入ったの?」
 涼真は少しだけ考える素振りをした。
「なんでだろうな。不器用だから、手先の作業はしないつもりだったんだけどな。大道具は去年もやったから、別のをやってみるか、って気になったんだ」
 私はほんの少し、違和感を覚えた。でもその正体にまでは、気が付かなかった。
「小道具だからって、そこまで細かい作業ばっかりじゃないよ。だから、それほど心配しなくて大丈夫」
「そうか。なら安心した。で、桜木は? どういう理由で希望したんだ?」
「一番楽そうだから、かな」
 聞き返されるとは思ってなかったから、そのままを答えてしまった。一周目で何をするかハッキリ知ってるし、手の抜き具合ももっと上手くやれるから、と答えなかっただけまだマシだ。
「確かに、大道具造ったり、衣装作ったりするよりは楽そうだな。でも、みんながみんなそんな理由だと、かえって大変になりかねないな」
 私はただ、自分が楽をすることだけを考えてたのに、涼真の視線は班全体の仕事の行き先を考えてるように思えた。一周目の私が惹かれてしまうのは、やっぱり仕方ないことだとして、二周目の私でさえ、その考え方には、依然として惹かれてしまう。
 一年以上付き合ったのに、私は涼真がどうしてそんなふうに育ったのかを、知らないままだ。何が、涼真にそんな考え方をくれたんだろう。
「これで一通り揃ったよな」
 涼真はかごに入れた商品を一つ一つ指差しながら、メモと照合していった。
「よし、いけるな。桜木、俺が買ってくるから、出口のところで待っててくれるか?」
 私はすぐに頷いて、出口へ向かった。
 壁に軽くもたれかかって、ガラスの向こうに見えるレジをぼんやりと眺める。会計を待つ涼真の姿は堂々としていて、確かに私には、素敵な男子に映った。領収書を切ってほしいと願い出たのだろう、店員さんとやり取りをする姿も、柔らかな笑顔混じりで、どこも非難すべきところは見当たらない。
 ただ待っているだけの自分が恥ずかしくなって、私はもう一度店内に足を踏み入れた。袋を両手に持った涼真に歩み寄って、
「私も持つよ」
 と言った。
「別に俺一人で構わないのに」
「私と柳君の二人が頼まれた買い出しだから。私も持つの」
「そうか。なら」
 涼真が渡してくれたのは、明らかに軽そうな方だった。

 ザ・緊張、なんて表現したくなるほど、私はカチカチに固まっていた。
「喉渇いたな」
 とか涼真が言ったかと思えば、次の瞬間にはスタヴァに入ることになったのだ。
 涼真って、人の目とか気にしないんだろうか、と思うほど、あっさり私の前に座っている。一周目の場合は、最初から付き合うムードがどこか流れていたからか、そうすることはある意味で必然みたいに思えるところがあった。でも今の場合は、私は単なるクラスメイトAでかない。それをこうもあっさり、誘えるものなんだろうか。
 もし、私以外の誰かと――例えば、みどりと来ていたとしたら、同じようにしたんだろうか。
 この出来事が私に感じさせようとしているのは、私たちの始まりが偶然に過ぎなかったということ、なんだろうか。
 恋愛は運命なのか、偶然なのか。前者を支持したいものの、手放しでそう出来るほど、私の心はメルヘンチックではない。
 何はともあれ、目の前にいるのは恋人でも何でもない「柳君」で、私は居心地の悪さマックスだった。
「一回飲んでみたいとずっと思ってたんだけどさ、いざ飲んでみたら、別にこぞって飲みにくるほどじゃない気がするな」
 涼真はトールサイズのカップを見つめながら言った。
「味が好きで来てるって人ももちろんいるだろうけど、新作とか季節限定を飲んだよ、っていうのが一つのステータスになるみたいなところあるからね。だからみんな、写真上げたりするの」
「一年分全部揃えたら、願いが一つ叶うっていうならやってみるけどな」
「私には良いけど、真剣にやってる人の前でそういうこと言ったら、顰蹙買うと思うよ」
「だな。まあ、これでも相手は弁えてるつもりだよ」
 それってどういう意味? とはあえて聞かなかった。傍目に見ても、私はスタヴァ通いするようなタイプに思えないのは明白だろうし。実際してないし。
 そういえば、現実の涼真とは、一度もスタヴァ、行ったことなかったな。お店の前をすれ違ったことは何度もあったはずなのに、涼真が入りたいと言ったことはなかった。
 それは、現実の涼真がそれほどスタヴァに興味を抱くことがなかったのか、興味はあったのに言ってこなかっただけだったのか、どっちなんだろう。
 そんなことを考えたら、目の前にいる「柳君」と涼真が、本当に同じ一人の涼真なのか、疑問に感じてしまった。さっき感じた違和感の正体はこれだったのかもしれない。
 涼真は頬杖をつきながら、何気ない感じにお店の外を見つめていた。同じだ。私の知ってる涼真と。ちょっと羨ましいくらい長い睫毛に、大きな黒目。もっと身だしなみに気を遣ったら、今より数ランクはかっこよくなれるのに、面倒だからって絶対そうしないのが、もったいなく思えてならない。
 でも、そうしたら、私は涼真に惹かれない気がする。かっこよすぎない涼真が、私は好きだった。
 私は自分の頼んだ、妙に名前の長くてとても名前の覚えられないキャラメルマキアートを啜った。甘い。
「昨日、さ」
 涼真は外を見つめたままで、ぽつり、とこぼすように言った。
「両親が喧嘩したんだ」
 僅かだけど、涼真の目は寂しげになったようだった。
「きっかけは些細なことだったんだけど、結構酷い感じになってさ。幼い弟たちがいる手前、そういうのはやめてほしいって伝えたんだけどな、お前がいつまでもしっかりしないのが悪い、って俺が悪い話になってさ。参るよな。俺は俺で、頑張ってるつもりなんだけどな」
 言い終えてから、涼真はハッとしたように私の顔を見て、「悪い、俺、変なこと言ったよな」と謝った。
「ううん。謝ったりなんてしなくて良いよ。ほら、前にみどりのお見舞いに行った時、柳君私の話を聞いてくれたし、おあいこだよ。私で良かったら、今思ってること、聞くよ?」
 涼真はまたあの微笑みをしてみせた。僅かに首を傾げて、口角を少しだけ上げる、あの微笑みを。
「ありがとな。まあでも、今の話は、さっき言ったのでおしまいなんだけどな」
 今度はもう少し砕けた感じの苦笑いが出た。
 涼真の家庭のことは、現実では少ししか聞かなかった。両親の仲はそれほど良いわけじゃなく、時たま以上に喧嘩をすることがあるらしかった。まだ小さな弟が二人いて、涼真は長男としての重荷を感じているとだけ、いつだったかに話してくれた。今思えば、涼真は暗い話を避けていたような気がする。
「本当? 私に遠慮してくれてるなら、ちゃんと最後まで言ってくれて良いんだよ?」
 私は急に、罪滅ぼしがしたいなんて安っぽい衝動に駆られてしまった。ここで「柳君」相手にしたって、涼真にしたことにはならないのに。
「なら、もう少しだけさせてもらおうかな。って言っても、つまらない愚痴にしかならないんだけどな。それでも良いのか?」
 もしかして私は、涼真にずっと気を遣わせてたんじゃないだろうか。私を気遣ってくれすぎるあまり、ストレスを溜め込んでしまって、私といるのが嫌になったんじゃないだろうか。そんな仮説を立ててしまったら、頷かずにはいられなかった。
 涼真は顔を綻ばせた。それが嬉しくもあり、そうやって嬉しさを覚えたことに、悲しさを覚えた。私がちゃんと向き合うべき相手は、誰なのか、思い知らされる気がして。
「二人とも、ちゃんと生きすぎてるんだよ。真面目すぎるっていうか、力の抜き方を知らないっていうか。そのせいで、余分に疲れて、ちょっとしたことでギスギスするんだ」
 基本的には、両親のことを好きなんだろうな。目線は伏せがちながら、優しい声色と表情から、そのことが伝わってきた。
「そのこと、伝えてみたりはしたの?」
「まあ、言ってはみるんだけど、頑固だから。大人としてのプライドみたいのがあるのか、俺が意見したってまともに取り合ってはくれないな」
 涼真が悲しそうに眉を下げてみせれば、私の心まで、どこか寂しくなってきた。
「本人たちが気付くしかないんだろうな、ああいう性格の人は」
「じゃ、じゃあ、それまで私が柳君の話を聞くよ」
 それは、恋心ゆえだったのか、罪滅ぼしの延長だったのか、私には分からなかった。ただ、涼真が悲しげなままなのは、嫌だった。涼真には、笑っていてほしい。たとえそれが、私の恋人ではなくても。
「いや、それは悪いだろ」
「頻繁すぎなかったら、私は嫌に思わないよ」
 少し、間があった。
「なら、たまには話してみようか」
 あ、また、例の微笑みだ。
 こうしていれば、私たちは自然にいられるのに、どうして、あんなに疎遠になってしまったんだろう。
 涼真も私も、お互いを嫌いになったりなんて、してないはずなのに。
 私は別に、ただ信じたいからという理由だけで、自分が嫌われてないと思ってるわけじゃない――その、はずだ。
 涼真は好き嫌いがキッパリしていた。あの歌手は嫌だとか、海へはあまり行きたくないとか、好みに関しては、あっさりと言った。でも、それは多く人前では口にしなくて、ただ、私の前でだけぽつり、ぽつりとこぼしてくれた。
 きっと、私のことが嫌になったのなら、ちゃんとそう伝えてくれるはずだ。
「ね、ねえ。ちょっと話が変わるんだけど、特に喧嘩したわけでもないのに、気が付いたらすっごく疎遠になったりしたこと、ってある?」
 涼真は頭の上に疑問符を浮かべた。当然だろう。
「クラス替えとかしたら、自然と心が離れたんだろうな、みたいに思うことは結構あるけどな。でも桜木が言いたいのは、そういうことじゃないんだろ?」
 私は神妙に頷いた。涼真に涼真のことを聞くなんて、すごく変な気がしたけど、他にこのことを尋ねられる人も――みどりには今、この話はしたくない――いない。
「何だろうな。目立ってそうだった、みたいな記憶は俺にはないし。まあ案外、他のことに気が行ってるだけ、だったりもするんじゃないか? 自分がそう思ってるだけ、ってこともあったりしそうなもんだろ。お互いその状態になってて、自分からは歩み寄れないから、結局両方遠ざかってく、みたいな」
「そうだったら、良いんだけど、ね……」
 素直に良いとは、言えなかった。私がこの涼真に惹かれてしまうのは、良くも悪くも、私と一緒に過ごした時間を持たないからだ。この涼真も、もし私と付き合うことになったら、来年の秋、現実の涼真みたくならない保障はない。いや、私の知らないことはあっても、涼真の中身がそっくり変わっているはずもないんだから、その未来はきっと、同じように訪れるだろう。
「でも、そうかもしれないから、私から、声をかけてみるよ」
 この涼真ではなく、あの涼真を前にして、同じふうに心拍数を高めたり、微かに震える手を隠したりするようなことが、もう一度あるだろうか。
 別れるなんて、大それたことを決意するに至ったのは、単なる気まぐれからじゃなかったはずだ。
 だけど、もう私には、あの日の決意を鮮やかに思い出すことさえ怪しかった。あれから随分経ってしまって、しかもここでかつての涼真に触れて、自分の心がさっぱり分からなくなってしまっていた。
「そろそろ、戻ろっか?」
 私はこれ以上考え込みたくなくて、残りを一気に啜った。
 涼真はこくこくと首を縦に振った。
 店の外に出てからは、私はすっかり話題を失ってしまっていた。
 重い話をしてしまったら、軽い話をしにくくなる。だから、人に重い話をするのは嫌いだった。
 来た道を無言で歩けば、往来の車の音や、小鳥のさえずりが妙にハッキリ聞こえて、その度に息が詰まる思いをした。
 でも、今の涼真にしたい話なんて、湧いてこない。友だちですらないのだ。行きの間や買い物をしていた頃は、それなりにお互い近付いていこうとする意思があったけど、今はもう、ただ買い出しのために組まされたクラスメイトでしかない。
 相手がもっと、こっちの気が引けてしまうような人だったり、何の意識もしなくて良い人だったりしたら、考えるのをやめられるのに、なまじ見た目は涼真なものだから、ずっとまごついた気持ちにさせられる。
 だけど、考えてもみれば、涼真の側からしたら、私は「何の意識もしなくて良い人」だったりするんだろうな。
 涼真は惚れっぽい性格でもなければ、恋多きタイプでもない。かつて私がしたような、積極的なアプローチがなければ、自分から人を好きになっていくようなことはあまりないだろう。だから、それがない今は、私はただのクラスメイトで、きっと今だって無関係なことを考えているに違いない。
 この夢みたいな時間がいつまで続くかは知らないけど、終わりが来るとしたら、それはおそらく、私の恋が確かに変わった瞬間になる。そんな気がした。ここでもう一度涼真と恋人になって、確かな恋人のままで同じ日を通過するか、このまま恋人にならず、他の誰かと恋仲になる。そのどちらかが起こった時、この時間は崩壊するんじゃないだろうか。
 涼真ともう一度恋をするのか、涼真への恋を捨て去るのか。選ばないということ自体が、後者を選ぶことになる以上、確かに自分の手で未来を決めたいという気持ちはあった。それを、先延ばしにし続けたいと思ってしまうけど。
 涼真にちらりと視線を向ければ、本当に何を気にする様子もなく、ただ歩いていた。
 現実での涼真との距離感は、こうですらない。一緒に歩くなんてことが、二人にとっては奇跡みたいなことになった。それは果たして、付き合ってると言えるんだろうか。そう、そうだ。そう悩み抜いた結果の、別れようという判断だった。
 でも、それは涼真のことを、嫌いになったということとは違う。
 本当に、本当にその決断で良いんだろうか。
 こうして訳の分からない事態に巻き込まれて、涼真のことで思い悩む日々を送ってしまう私が、きっぱり捨て去ってしまって、良いんだろうか。
 私はまた、涼真にこの重苦しい気持ちを分かち合ってほしくなった。
 でも、これ以上頼ってしまえば、友だちにもなれない気がした。友だちに相談するならともかく、相談から始まった相手は、相談相手にしかなれない、そう思って、唇をきゅっと結んだ。

 結局、私たちはその後ほとんど会話をすることなく、学校に帰り着いた。
 板橋さんに報告を済ませると、教室の後ろに設けられた、小道具班用のスペースに買ってきたものを置いた。やっぱり、涼真の置いた袋の方から、ドサッという重たそうな音がした。
「これで今日の仕事は終わりか」
「だね」
 涼真は大きく伸びをした。引っ張られたシャツの裾辺りから、お腹がチラッと見えて、不覚にもドキッとしてしまった。全部ならともかく、僅かに見えるっていうのは、心臓に悪い。
「じゃ、帰るわ」
「うん、バイバイ」
 校門まですら、一緒に帰ろうというつもりにはなれず、私は涼真が教室を出るまで手を振り続けた。
 一呼吸おいてから、ようやく自分も教室を出た。
 下駄箱で靴を履き替えている間、涼真と過ごした時間のことを振り返ってしまった。
 みどりの話、出てこなかったな。
 やっぱり、みどりは涼真に恋をした、ってわけじゃないんだろうか。
 もっと他の相手が現れるんだろうか。テニス部の倉谷君が、私の知らない内神田さんとかいう人と付き合ったみたいに、私の過去に見えなかった人がふっと湧く可能性は、否定出来ない。
 それについては考えても仕方のないことだと思って、私は校舎を出た。
 でも、帰る間中、涼真に他の恋人が出来たらどうしよう、と考え続けてしまった。こんな思考のままで例の階段を使うのは気が引けて、遠回りした。
 その夜見た夢は酷いものだった。
 でも、目が覚めた頃には、寝起きの悪さがだけが残されていて、中身についてはまるで思い出せなかった。よほど酷い悪夢だったのか、寝汗でシャツがべったり貼りついている。
 腰を立てると、こめかみの奥がズキン、ズキンと痛むのが分かった。頭痛は頻繁になる方だけど、これは中でも酷いものに分類されるものだと思った。小学生の時、その状態で無理をして、吐いてしまうほどに至ったのを思い出した。
「休も……」
 昨日の今日で休んだら、買い出しに行ったから疲れた、なんて思われそうで嫌だったけど(そこまで貧弱だと思われるのは少しシャクだ)、高校生にもなって学校で嘔吐、なんてなったらもっと嫌だから、素直に学校に休みの連絡を入れた。高校生ともなれば、先生が仮病を疑ったりするようなことはまるでなかった。
「しんど……」
 上半身だけ着替えてからベッドに横たわった。どういう理屈かは知らないけど、枕に頭を乗せていれば、痛みは幾らかはマシになる。
 それから、ハッとしたかと思えば、枕元の時計はお昼過ぎを告げていた。どうやら、一瞬で二度寝してしまっていたらしい。
 今度は腰を立てても、頭痛はしなかった。これは、昨日の買い出しが普通に疲れた説が濃厚かもしれない……。さすがに貧弱すぎる……。
 階下に行ってみれば、誰の姿もなかった。
 とりあえず冷蔵庫にあった水を飲んで、置いてあった菓子パンを口にした。
 何だか家にはいたくなくて、最低限外を出歩ける格好をして、外に出た。学校を休んでおいて、そうするのはいかがなものか、なんて真面目なことをのたまう自分もいたけど、一日くらい良いじゃん、なんて囁きかけてきた自分に軍配が上がった。
 一人で歩いていると、心が落ち着く。同じように考え事をしていても、部屋で伏せ目がちにするのとは違って、そこまでネガティブな考えにはなりにくい。有酸素運動をしているからだろうか。
 わざわざ電車に乗って、街に出る。普段は休みでもこんなことはあまりしないのに、今日は非日常に身を置きたいと強く思っていた。
 駅を出れば、すぐさま高いビルたちに見下ろされた。空が狭く見えるのが、少し窮屈にも思えるけど、このたくさんのものをぎゅっと詰め込んだ感じは、嫌いじゃない。
 何処へ行くでもなく、何を買うでもなく、ただ足の向くまま、気の向くまま歩いてみる。
 地下街に入った私は、ショーウィンドウの前にほんのり立ち止まって、似合うかな、とか考えたり、こういうのが今の流行りなんだ、とか考えたりした。涼真とちゃんと付き合ってた頃は、デートに着ていく服一つとっても、凄い悩んでたな。最近じゃ、全然気にしないで、適当に着回してる。
 最初に心が離れたのは、どっちなんだろう。ショーウィンドウに反射した自分の顔は、「涼真じゃない?」と言ったけど、本当に、そうなんだろうか。私の浅ましい気持ちが、全部涼真のせいにしようとしているだけなんじゃないだろうか。
 ずっと立ち止まっているわけにもいかなくて、私はそこを離れて、また次を求めてさまよった。
 当て所ない旅は楽しくもあったけど、次第に足に負担をかけるだけの愚かな行為に思えてきた。誰かと一緒に来たなら、どちらからともなく休憩しようか、なんて流れにもなるだろうけど、一人じゃ、どこかに腰を落ち着けるのも何だか気恥ずかしい。
 なんで来たんだろ。柱を背に、遠く息を吐いた。
 ふいに、視線のずっと先に、涼真を見つけ――違う。少し似ているだけの人だった。当たり前か。涼真は今、学校にいるもんね。
 なんで、なんで私は、この夢の世界に来たんだろう。
 気持ちは揺らぐばかり。
 現実じゃ、こんなにずっと涼真のことなんて、考えなかったのに。忘れてる時間の方が、よっぽど多かったのに。ここに来てからは、もうずっと、ずっと涼真のことを考えてる。
 私は本当は、どうしたいんだろう。
 別れたいわけじゃない、とは思う。でも、もう戻れない、とも思う。
 だったら、ここでやり直したら――
 ほんの刹那、そんな考えが浮かんだ。
 まさかね、それじゃあ、ずっとここにいることになるよ。
 いつまでも夢の世界に居続けるなんて、私は嫌だ。
 でも、ここが現実より良い場所になるっていうなら、それも悪くないんじゃないかな。
 馬鹿な考えが次々生まれてきて、私はひとりでに苦笑してしまった。その様子を、ちっちゃい女の子が、怪訝そうに見ていた。
 それが酷く恥ずかしく思えて、私は柱から背中を離した。
 あの子もいつか、大きくなったら、私みたいに思い悩む日が来るんだろうか。
 大して年を重ねてもいないのに、そんなふうに思って大人ぶる。私はきっと、すごく幼い。
 もう少しだけ歩いて、また疲れたら帰ろう。
 そう決めた私は、近くにあったフロアガイドに目をやった。
 地下二階には、色々面白そうなお店があった。そこを散策してみようかと、エスカレーターに乗った。
 その瞬間だった。
 ドン、と、背中を押されるのを感じた。
 無防備な私は踏みとどまることなど出来ず、そのまま誰もいない真下に落下した。
 ……痛い。
 朧気な意識は、いつかに似ていた。
 そう……あれは確か……この世界に来た時みたいな……。
 視界が徐々にはっきりしなくなって、世界が真っ黒になっていくのを感じることしかできなかった。
 ああ、今度はどこへ、行くんだろう……。
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