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夢うつつ
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高飛車な女の声がした。笑いながら、でも笑っていない声で、何か言っている。随分と大きな耳元で鳴っている声なのに、なのにその意味が聞き取れない。
「わたしはね、成功したの、わたしは沢山の沢山の人を幸せにしているわ、あなたはどう、あなたは違うわね、でも大丈夫、わたしがあなたも幸せにしてあげる」
意味が聞き取れないが、敢えて形にすれば、そのようなことを延々と繰り返している気がする。涙が出そうになるのは、悔しいんじゃなくて、悲しいからだろうか。その声に抗いながら、声は更に更に高く明るく、なのに重くなっていき、思考というものが奪われるような、ああ、自分は気違いになっていく、壊れたくないと思いつつ、声はますます重く、少し甲高い男の声になり、そのまま。そのまま。
転がった足に、ふにっとした感覚。緩くなった風船と座布団のような感触がして。それがすっと抜ける感触もして、それで意識がぼんやりと冷めた。ぼうっとする夜の暗さと布団の暖かさに包まれているような、疲れが解けていくような感覚に浸りながら、それでももう一度、眠りにつくことは直前の記憶なのか、それとも随分と前の記憶なのか、でも確かなニュアンスを残したその声が躊躇わせた。
あの声は、あの甲高い男の声は、戸田君のものかな。戸田君というのは中学で同じクラスで卓球部で、明るくて楽しくてちょっとお馬鹿で、とんでもないホラ吹きだった子だ。明るく楽しく話すのだが、そのほとんどが自分の自慢話で、それも一つのことを百にまで膨らませるような、ちょっと女の子に話しかけられただけで、「俺ってモテるんだ。困っちゃうな」と言うような、卓球部の準レギュラーとやって少し接戦をしたら、「俺、卓球うまいんだ。練習なんてほとんどしてないのに、才能だけでめっちゃ凄いスマッシュ打てるもん。才能あるんだよな。いや、キミだって頑張ったんだから、それなりに才能だって」なんてぐじぐじとその相手だった自分に、延々と話しかけるような、部活を引退するまで話しかけるような、そんな奴だった。だからなんとなく人も良くて楽観的で、でもそのホラ吹きの一点だけで、みんなの輪の中にいながら、どことなく、距離を置かれているような、そんな人だったと思う。でも、そのデタラメは、嘘と呼ぶには余りにいい加減で、騙そうと考えられたものではなく、息を吐くように、その心から素直に出たような、強がりとも違う、素直な自己肯定感のような。ガハハという言葉を食っちゃべり続けるような彼には。「嘘付き」というよりも「ホラ吹き」って呼び名が似合っていた。戸田君か。だから不思議と憎めなくて、当時は親友と思っていた田中や斎藤よりも、異様に印象に残る人になっていた。
そこまで夢うつつに思考というか思い出をぼんやりと浮かべて。そう言えばと、眠りと現実の間にあった、足元のふにっへと思いが歩き出す。そして
「ああ、ねこか、アメさんか」
と、ふと思う。羽根布団を身体からひっぺがして、足元をさぐるが居ない。それが目が冴える、起きるきっかけになって、電灯のひもを引っ張り、明かりをつける。ベッドを見渡すが、やっぱり居ない。
部屋をざっくばらんに見渡すがそれでも居ない。そうしていたら、ふと眠る前のあの高飛車な女の声。二十代後半のなにかその笑いが許されるギリギリに居る声質で、ただ笑いながら、自分に切実に訴えかけてきた声を思い出した。今思うと、少し寂しさというか、悲しさを含んでいたようにも思えた。その声の持ち主の記憶もまた、戸田君のように実在のモデルがあると思って、振り返るが、どうも見当たらない。そして、少し背中がぞうっとした。
幻聴。夢うつつに見えて、それでも確かに残った現実感は、実は幻聴なのじゃないか。直前の気違いになるような感覚。そのまま帰ってこれなくなって、救急車で運ばれ、ベッドに固定具で拘束され、食事の時だけ看護人の立会いの下、両手のそれが外され、不味いサバの味噌煮を食べる。そのままそれはオムツの中で排泄される。そんな日々が何年も続く。そんなイメージが浮かんだ。
深夜四時。睡眠に失敗した自分は、そんなくだらない、どうしようもなく悲しい独り言をパソコンで打ち続けている。すっかり夜は寒くなっていて、エアコンをつけている。その微風を頬から足元まで受けながら、ただ人を不快にさせる独り言を、ただパソコンのモニターに打ち続けている。くだらない。戸田君みたいだ。
戸田君とは中学で別れた。学力に差があったし、彼とはずいぶんと話したけれど、彼のホラ話は僕たちにきちっとした友情を育んではくれなかったようだ。
それでも、あんなことがあった。久しぶりに記憶がよみがえる。
高2の夏。車の行き交いだけが激しくて、スーパーもラーメン屋もなかった大通りのセブンイレブン。何を立ち読みしていたんだろう。高校になってからはジャンプじゃなかったはず。となると、マガジンか。なにか妙にポップで爽やかなロックバンドの音が鳴っていたのは単なる記憶の創作か。そんな空気の中で、高校生になって少し太った、でも驚くほどに変わらない戸田君と再会した。
彼は会うなり。
「みっちー、久しぶり」
なんて、その時にはすっかり忘れていた中学のあだ名で僕を呼び。なにか、いい加減なことをいったあと。
「俺さ、彼女が出来たんだ。ショートヘアで、笑うのが可愛くて。俺、幸せだ」
延々と、彼女の自慢話を始めた。中学卒業から当時の感覚では随分と経ち、あれがホラか本当かはわからなかったが、それでも適当に「良かったじゃん」みたいに祝福したふりをして相槌を打ち続ける自分が今でも悲しかった。
独り言を書き終え、それに説得力を出そうとして、パソコンデスクの隣の本棚から、統合失調症の本。漫画のような図解付きで、「はじめての」なんて書いていたっけ。母の入院の時に買った。それを取り出そうと、本棚の方に目をやり、中腰になろうとした瞬間。
本棚の上で顔を洗う猫を見つけた。そうか、さいきん寒くなって、暖房をつけ忘れたから、猫は足元の布団の中に入ってきたのだろう。今だってエアコンの真下の本棚のてっぺんにいるんだ。大きめの黒い本棚の、ドイツ語だろう本の上。あれは、大学の教授から借りて、そのままになった本だっけ。そこで今は毛づくろいをしている。灰と黒のシマシマというよりもマダラ模様の毛並みを舐めている。それを見つめながら、なにか泣きそうになる。今はもう居ない母、随分と錯乱して末期に十分な検査を受けられないままあれよあれよと死んでしまった母だが、退院してからこの猫を飼いだし、随分と可愛がり、それと比例して笑いが増え、励まされて、穏やかな晩年になったと思う。遺影に猫のアメと一緒に撮った写真を、とまで父も弟も僕も考えるくらいだったが、撮ったはずのそれは見つからず、けっきょくは立ち消えたが。それほどまでに愛された猫。僕もまた母がいなくなってからは特に、母ほどではないが、可愛がっていると思う。可愛がらせていただいたと思う。
もう本棚の上で、足を丸めて腹ばいに眠る猫を見つめながら。自分はどうか、気違いにも、ホラ吹きにも、させないでくれないかと願いながら深夜五時にパソコンを打っている。
「わたしはね、成功したの、わたしは沢山の沢山の人を幸せにしているわ、あなたはどう、あなたは違うわね、でも大丈夫、わたしがあなたも幸せにしてあげる」
意味が聞き取れないが、敢えて形にすれば、そのようなことを延々と繰り返している気がする。涙が出そうになるのは、悔しいんじゃなくて、悲しいからだろうか。その声に抗いながら、声は更に更に高く明るく、なのに重くなっていき、思考というものが奪われるような、ああ、自分は気違いになっていく、壊れたくないと思いつつ、声はますます重く、少し甲高い男の声になり、そのまま。そのまま。
転がった足に、ふにっとした感覚。緩くなった風船と座布団のような感触がして。それがすっと抜ける感触もして、それで意識がぼんやりと冷めた。ぼうっとする夜の暗さと布団の暖かさに包まれているような、疲れが解けていくような感覚に浸りながら、それでももう一度、眠りにつくことは直前の記憶なのか、それとも随分と前の記憶なのか、でも確かなニュアンスを残したその声が躊躇わせた。
あの声は、あの甲高い男の声は、戸田君のものかな。戸田君というのは中学で同じクラスで卓球部で、明るくて楽しくてちょっとお馬鹿で、とんでもないホラ吹きだった子だ。明るく楽しく話すのだが、そのほとんどが自分の自慢話で、それも一つのことを百にまで膨らませるような、ちょっと女の子に話しかけられただけで、「俺ってモテるんだ。困っちゃうな」と言うような、卓球部の準レギュラーとやって少し接戦をしたら、「俺、卓球うまいんだ。練習なんてほとんどしてないのに、才能だけでめっちゃ凄いスマッシュ打てるもん。才能あるんだよな。いや、キミだって頑張ったんだから、それなりに才能だって」なんてぐじぐじとその相手だった自分に、延々と話しかけるような、部活を引退するまで話しかけるような、そんな奴だった。だからなんとなく人も良くて楽観的で、でもそのホラ吹きの一点だけで、みんなの輪の中にいながら、どことなく、距離を置かれているような、そんな人だったと思う。でも、そのデタラメは、嘘と呼ぶには余りにいい加減で、騙そうと考えられたものではなく、息を吐くように、その心から素直に出たような、強がりとも違う、素直な自己肯定感のような。ガハハという言葉を食っちゃべり続けるような彼には。「嘘付き」というよりも「ホラ吹き」って呼び名が似合っていた。戸田君か。だから不思議と憎めなくて、当時は親友と思っていた田中や斎藤よりも、異様に印象に残る人になっていた。
そこまで夢うつつに思考というか思い出をぼんやりと浮かべて。そう言えばと、眠りと現実の間にあった、足元のふにっへと思いが歩き出す。そして
「ああ、ねこか、アメさんか」
と、ふと思う。羽根布団を身体からひっぺがして、足元をさぐるが居ない。それが目が冴える、起きるきっかけになって、電灯のひもを引っ張り、明かりをつける。ベッドを見渡すが、やっぱり居ない。
部屋をざっくばらんに見渡すがそれでも居ない。そうしていたら、ふと眠る前のあの高飛車な女の声。二十代後半のなにかその笑いが許されるギリギリに居る声質で、ただ笑いながら、自分に切実に訴えかけてきた声を思い出した。今思うと、少し寂しさというか、悲しさを含んでいたようにも思えた。その声の持ち主の記憶もまた、戸田君のように実在のモデルがあると思って、振り返るが、どうも見当たらない。そして、少し背中がぞうっとした。
幻聴。夢うつつに見えて、それでも確かに残った現実感は、実は幻聴なのじゃないか。直前の気違いになるような感覚。そのまま帰ってこれなくなって、救急車で運ばれ、ベッドに固定具で拘束され、食事の時だけ看護人の立会いの下、両手のそれが外され、不味いサバの味噌煮を食べる。そのままそれはオムツの中で排泄される。そんな日々が何年も続く。そんなイメージが浮かんだ。
深夜四時。睡眠に失敗した自分は、そんなくだらない、どうしようもなく悲しい独り言をパソコンで打ち続けている。すっかり夜は寒くなっていて、エアコンをつけている。その微風を頬から足元まで受けながら、ただ人を不快にさせる独り言を、ただパソコンのモニターに打ち続けている。くだらない。戸田君みたいだ。
戸田君とは中学で別れた。学力に差があったし、彼とはずいぶんと話したけれど、彼のホラ話は僕たちにきちっとした友情を育んではくれなかったようだ。
それでも、あんなことがあった。久しぶりに記憶がよみがえる。
高2の夏。車の行き交いだけが激しくて、スーパーもラーメン屋もなかった大通りのセブンイレブン。何を立ち読みしていたんだろう。高校になってからはジャンプじゃなかったはず。となると、マガジンか。なにか妙にポップで爽やかなロックバンドの音が鳴っていたのは単なる記憶の創作か。そんな空気の中で、高校生になって少し太った、でも驚くほどに変わらない戸田君と再会した。
彼は会うなり。
「みっちー、久しぶり」
なんて、その時にはすっかり忘れていた中学のあだ名で僕を呼び。なにか、いい加減なことをいったあと。
「俺さ、彼女が出来たんだ。ショートヘアで、笑うのが可愛くて。俺、幸せだ」
延々と、彼女の自慢話を始めた。中学卒業から当時の感覚では随分と経ち、あれがホラか本当かはわからなかったが、それでも適当に「良かったじゃん」みたいに祝福したふりをして相槌を打ち続ける自分が今でも悲しかった。
独り言を書き終え、それに説得力を出そうとして、パソコンデスクの隣の本棚から、統合失調症の本。漫画のような図解付きで、「はじめての」なんて書いていたっけ。母の入院の時に買った。それを取り出そうと、本棚の方に目をやり、中腰になろうとした瞬間。
本棚の上で顔を洗う猫を見つけた。そうか、さいきん寒くなって、暖房をつけ忘れたから、猫は足元の布団の中に入ってきたのだろう。今だってエアコンの真下の本棚のてっぺんにいるんだ。大きめの黒い本棚の、ドイツ語だろう本の上。あれは、大学の教授から借りて、そのままになった本だっけ。そこで今は毛づくろいをしている。灰と黒のシマシマというよりもマダラ模様の毛並みを舐めている。それを見つめながら、なにか泣きそうになる。今はもう居ない母、随分と錯乱して末期に十分な検査を受けられないままあれよあれよと死んでしまった母だが、退院してからこの猫を飼いだし、随分と可愛がり、それと比例して笑いが増え、励まされて、穏やかな晩年になったと思う。遺影に猫のアメと一緒に撮った写真を、とまで父も弟も僕も考えるくらいだったが、撮ったはずのそれは見つからず、けっきょくは立ち消えたが。それほどまでに愛された猫。僕もまた母がいなくなってからは特に、母ほどではないが、可愛がっていると思う。可愛がらせていただいたと思う。
もう本棚の上で、足を丸めて腹ばいに眠る猫を見つめながら。自分はどうか、気違いにも、ホラ吹きにも、させないでくれないかと願いながら深夜五時にパソコンを打っている。
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