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私とご主人様
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「ただいま」
帰宅したご主人様を、私は静かに玄関で出迎える。
ご主人様は仕事終わりの疲れた顔に笑みを浮かべて、出迎えた私の頭を優しく撫でた。
大きくて、温かなご主人様の手。
少しこそばゆいが、私を撫でるご主人様はとても幸せそうに微笑むので、そんな姿を見て私も嬉しくなる。
既に日常の一部となったこのやりとりも、思えばまだ半年ほどしか繰り返していない。
私がご主人様に拾われたあの日から。
◇
あの日、両親と死に別れた私は路頭に迷っていた。
幼かった私は食料すら満足に手に入れることができず、日に日に痩せこけていく自分を水溜まりに写すことしかできなかった。
きっとこのまま死んでしまうのだろう。
幼いながらに、自分の終わりが近いことは感覚として理解できていた。
死への恐怖はなかった。
いや、恐怖を抱くだけの元気すら残っていなかった、と言ったほうが正しいのかもしれない。
衰弱していく身体は、ついに力が入らなくなり、路地裏で残飯を漁ることもできなくなった。
ああ、ついに終わりの時が訪れたのか。
薄暗い路地裏で独りぼっち。
なんとも寂しい最期だ。
気がつくと、私の口からなき声が漏れていた。
死を恐れてのものではない。
ただ、孤独に対する虚しさが最期の時に膨れ上がり、私の器から溢れ出した。
空虚な声は路地裏に響き、そして消えていく。
やがてなく力すら失った私は、地面に倒れこんだ。
冷たい感触が、私を死へと誘う。
ついに目蓋が閉じようとしたその時だった。
「大丈夫か?」
一人の男の影が私を覆った。
仕事帰りなのだろう。
くたびれた様子の男は、街灯に照らされた夜道を背に、私を見下ろしていた。
その目は酷く濁っていた。
まるで、己の人生を諦めてしまったかのような、そんな目だ。
人の考えていることなどわかるはずもないが、きっと間違いではないだろう。
なぜなら、私も同じ目をしているに違いないから。
しばしの間、私と男は見つめ合った。
だが、どうしてだろう。
私はこの男から目を離すことができなかった。
それは死の縁で、初めて仲間を見つけたような、そんな感覚だった。
街の喧騒が二人の後ろで流れていく。
男はその場に膝をついた。
そして私に手を差し出してこう言ったのだ。
「うちに来るか?」
私は既に枯れてしまったはずの声で、男に届くように口を開いた。
◇
その日、ご主人様が珍しく泥酔した状態で帰宅した。
時々家で晩酌する程度のご主人様にしては珍しいことだ。
「ただいま」の声は聞こえなかったが、気配を察知した私はいつものように出迎える。
伸ばされたご主人様の手が私の頭を撫でるまでがお決まりだ。
だが、そうはならなかった。
バタン
靴を脱ぐこともせずに、ご主人様は玄関に倒れこんだ。
私は慌ててご主人様の顔を覗き込む。
するとそこには、真っ赤にした顔を涙で濡らしているご主人様がいた。
「うぐっ……、うっ……」
嗚咽を噛み殺すように、ご主人様は静かに泣いていた。
最近は見ることもなかった濁った瞳からは、後から後から水がこぼれ落ちている。
一体何があったのだろうか。
私にそれを確かめることはできない。
だから私はご主人様に寄り添うようにして静かに座り込んだ。
あの日、ご主人様が私に手を差し伸べてくれたように。
ご主人様に救いがあることを祈って。
◇
「いってきます。
いい子にしてるんだぞ」
私の頭を優しく撫でながら、ご主人様が微笑んだ。
濁りのない、その瞳を覗き込みながら私は口を開いた。
「ニャー」
帰宅したご主人様を、私は静かに玄関で出迎える。
ご主人様は仕事終わりの疲れた顔に笑みを浮かべて、出迎えた私の頭を優しく撫でた。
大きくて、温かなご主人様の手。
少しこそばゆいが、私を撫でるご主人様はとても幸せそうに微笑むので、そんな姿を見て私も嬉しくなる。
既に日常の一部となったこのやりとりも、思えばまだ半年ほどしか繰り返していない。
私がご主人様に拾われたあの日から。
◇
あの日、両親と死に別れた私は路頭に迷っていた。
幼かった私は食料すら満足に手に入れることができず、日に日に痩せこけていく自分を水溜まりに写すことしかできなかった。
きっとこのまま死んでしまうのだろう。
幼いながらに、自分の終わりが近いことは感覚として理解できていた。
死への恐怖はなかった。
いや、恐怖を抱くだけの元気すら残っていなかった、と言ったほうが正しいのかもしれない。
衰弱していく身体は、ついに力が入らなくなり、路地裏で残飯を漁ることもできなくなった。
ああ、ついに終わりの時が訪れたのか。
薄暗い路地裏で独りぼっち。
なんとも寂しい最期だ。
気がつくと、私の口からなき声が漏れていた。
死を恐れてのものではない。
ただ、孤独に対する虚しさが最期の時に膨れ上がり、私の器から溢れ出した。
空虚な声は路地裏に響き、そして消えていく。
やがてなく力すら失った私は、地面に倒れこんだ。
冷たい感触が、私を死へと誘う。
ついに目蓋が閉じようとしたその時だった。
「大丈夫か?」
一人の男の影が私を覆った。
仕事帰りなのだろう。
くたびれた様子の男は、街灯に照らされた夜道を背に、私を見下ろしていた。
その目は酷く濁っていた。
まるで、己の人生を諦めてしまったかのような、そんな目だ。
人の考えていることなどわかるはずもないが、きっと間違いではないだろう。
なぜなら、私も同じ目をしているに違いないから。
しばしの間、私と男は見つめ合った。
だが、どうしてだろう。
私はこの男から目を離すことができなかった。
それは死の縁で、初めて仲間を見つけたような、そんな感覚だった。
街の喧騒が二人の後ろで流れていく。
男はその場に膝をついた。
そして私に手を差し出してこう言ったのだ。
「うちに来るか?」
私は既に枯れてしまったはずの声で、男に届くように口を開いた。
◇
その日、ご主人様が珍しく泥酔した状態で帰宅した。
時々家で晩酌する程度のご主人様にしては珍しいことだ。
「ただいま」の声は聞こえなかったが、気配を察知した私はいつものように出迎える。
伸ばされたご主人様の手が私の頭を撫でるまでがお決まりだ。
だが、そうはならなかった。
バタン
靴を脱ぐこともせずに、ご主人様は玄関に倒れこんだ。
私は慌ててご主人様の顔を覗き込む。
するとそこには、真っ赤にした顔を涙で濡らしているご主人様がいた。
「うぐっ……、うっ……」
嗚咽を噛み殺すように、ご主人様は静かに泣いていた。
最近は見ることもなかった濁った瞳からは、後から後から水がこぼれ落ちている。
一体何があったのだろうか。
私にそれを確かめることはできない。
だから私はご主人様に寄り添うようにして静かに座り込んだ。
あの日、ご主人様が私に手を差し伸べてくれたように。
ご主人様に救いがあることを祈って。
◇
「いってきます。
いい子にしてるんだぞ」
私の頭を優しく撫でながら、ご主人様が微笑んだ。
濁りのない、その瞳を覗き込みながら私は口を開いた。
「ニャー」
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