徒花の先に

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第十八話 イライアスの本音

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 ノエルが起き上がり、不安そうに歪んだ顔が間近に迫る。
「イライアス兄様は僕を捨てないよね? 僕はイライアス兄様だけを愛しているんだ。兄様に捨てられたら僕はもう……」
「何言ってる。俺がノエルを捨てるはずがないだろう! ノエルは俺の大切な弟だ!」
 過去に憎くもあったが、ノエルは今や大事な家族だ。
 不安なんて一片も残さないようそうはっきりと言うとノエルは「良かったぁ」と安堵のため息を吐いた。
「大好きだよ。イライアス兄様。誰よりも愛してる」
 ノエルがぎゅっと抱きつき俺の頬に手を添える。窓から夕陽が差し込みノエルに深い影を不気味に作り出す。
「兄様って本当にかわいいね。瞳もとっても綺麗。夕陽でキラキラ光ってまるで宝石みたい。ああ、誰にも見られないよう瞳を丁寧に抜き取って宝箱に大切に仕舞っておきたいよ」
 そのうっとりとした表情にぞわりと寒気がして逃げ出したくなる。経験したから分かる。俺とノエルは同類だ。歯車が一つ取れてしまっている。なんとか話題を変えて話をなかったことにしたかった。だけどここで逃げたらきっと良くないことが起こる、そんな気がした。
「それは家族としての好きか? ……それとも恋慕としての好きか?」
「…………」
「ごめん。もしお前が俺のことをそういう意味で好きならその気持ちには応えることはできない。俺はこの国の平和のために全てを捧げると誓ったんだ。家族としてならまだしもそのような関係としてお前を愛することはできない」
 ノエルの熱に浮かされた表情が無に変わる。その冷たさが恐ろしくて思わず目を逸らしそうになる。
「そう」
「だからといって俺はノエルを愛していないわけじゃない。俺は弟としてお前を──」
「イライアス兄様何をおっしゃっているんですか? 僕はなにも兄様を恋い慕っているという意味で愛していると言ったわけではありませんよ。兄として僕は兄様を慕っているんです」
「……そ、そうだよな」
 ノエルのニコリと微笑むその姿に恐怖を感じるけれど安堵したのも確かだった。いや安堵したかった。心優しいノエルが俺と同類のはずじゃない。そう思いたかった。
「兄様疲れたでしょう? 今日はこの街で一晩過ごしましょう」
 外を見ればいつの間にか夕陽は沈み、光溢れる街並みが広がっていた。そうして準備した車椅子へと誘導するようにノエルが手を握り俺の身体を支える。その体温に俺は今までとは違う目でしか見れなくなってしまっていた。

 数日かけて宮廷に着くと珍しく父が待っていた。
「よく戻ったな」
 リハビリで車椅子からは卒業した松葉杖姿の俺を見て少し驚いたようだが、優しく俺の帰りを迎えてくれた。
「はい。父上ただ今戻りました」
 杖だから歩くのがどうしても遅くなるのにノエルと父は俺を置いていかないようにゆっくりと歩いてくれた。だけど休みなく杖を動かす様に父が心配そうに窺っていた。
「車椅子ではなくて大丈夫なのか? 無理はしなくてよいのだぞ?」
「大丈夫です。これもリハビリの内ですから。それに身体もだいぶ回復してきているのでこれくらいなんでもありません。医者にもこの調子だと歩くこともすぐ出来るようになると言われましたので」
「そうか」
「あの、父上。少しお話ししたいことがあるのですが……」
「なんだ? やはり杖は辛いか? なら車椅子を──」
「いえ! 本当にそこは大丈夫です! あの私が言いたいのは指揮官としての復帰のことです」
「復帰だと?」
「はい。まだまともに歩けず何を言うのかと思いますが身体に関してはもうなんともありませんし、ここのところ体調が崩れたこともありません。回復次第また軍に戻していただければと……」
「そのようなこと許すわけがないだろう。いつ倒れるかも分からぬような危うい息子を戦場に出す親がどこにいる」
 ピシャリと叱るように父が言う。でもここで諦めるわけにはいかなかった。
「ですが私には戦場しかありません。剣を取り上げられれば私は国のために何の役にも立てない。どうかお許しをいただけませんでしょうか」
「はぁ……お前がなぜ身体のことをそこまで必死に隠していたかは大方見当がつく。己の価値が戦場のみにしかないなどと思うな。お前は私にとって大切な息子なのだぞ」
「……しかし」
「そもそも戦場についてはアランに任せておいて問題ないだろう。聞くところによればお前とアランの力量については差なんてないらしいではないか。ならば戦場で命を落とすなんてことはまずないだろう。軍はアランに任せろ。イライアス、お前はよくやった。これまで国のために充分働いてきたんだ。後はもう肩の荷を下ろしてゆっくり休め」
「っ父上──」
「何度言おうと無駄だ。お前の復帰など断じて許しはしない。この話はこれで終わりだ」
 鉄壁のような堅い父の態度にもう何も言えなかった。説得するどころか俺が説得させられてしまった。
 何やってんだと苛立つがまだ俺がこんな一人で歩けもしない状態だから父が過剰に反応しているだけなのかもしれない。完全回復して訓練所で剣を振るう姿でも見て貰えばきっと考えも変わるはずだ。
 でないと兄が戦場に出るハメになるんだ。それは嫌だろ!
 落ち込んでいる暇はない。そう自分を奮い立たせているとノエルがちょいちょいと気を引くように裾を引っ張った。
「父様は心配して言ってくれているんだよ。僕も戦場に兄様が出るのは反対だよ。というか許さない」
 その最後の言葉の重みに冷や汗が一筋伝う。それは戦場に出ようものなら何がなんでも阻止してやると言わんばかりで、なぜだろうかノエルから脚の筋を切られる未来が容易に浮かんでしまう。
 ……ノエルはそんな子じゃないはずなのに。



 体調は倒れてからずっと良かった。それこそ今までにないくらいに元気でもしかして治ったんじゃないだろうかと思ったくらいだった。だけどその日の夜、俺は体調を崩した。
 侍医が出来ることと言ったら少しでも楽になれるように解熱剤なんかを処方するだけでやはり身体は苦しいままだった。
 暑いし、頭も痛い。
 窓から差し込む月明かりの下ベッドで一人耐えるしかなくて暗い部屋には時々様子を見に来る医者や世話をしに来るメイドがいるだけで誰もいやしない。周りが忙しないと休まらないからと、一人にしろと頼んだのは俺なのだがやはり寂しかった。
「兄上……」
 そう呼んでみるけれど小さな呟きは暗い虚空へと消えてしまった。
 数日会っていないだけなのに兄が恋しくて仕方なかった。軍事演習で忙しいのは分かっていたけれどどうしても兄を求めてしまう。
 手を握っていて欲しい。
 その手の温もりは薬なんかよりなによりも俺の身体を安らぎに導く。
 だけど俺にそれは許されない。
 俺が愛したせいで兄の幸せは壊れた。
 もう二度とあんな未来は見たくはない。
 苦しむのは俺だけでいい。
 眠ってしまえば頭痛も暑さも消えてしまうだろうと俺は無理矢理意識を飛ばした。
 もう一度目を覚ました時はまだ夜だった。
 まだ? いやもうが正しいな。
 見上げた先に佇む月の満ち欠けに変化を見つける。
 何日眠ってしまっていたのだろう。
 だけど身体は随分と楽になっていた。起き上がっても体力を消費した疲労感があるだけで突き刺すような頭の痛みも茹でるような暑さもない。ゆっくり休んだことで自然と治ってくれたのだろうか。
 ふと手の感覚に安心感が湧いた。
 あれ? なんか手が温かい……。
 なんだろうと視線を向ける。
「あ、兄上……!?」
 思わず大きな声をあげてしまうのを途中でなんとか抑える。
 兄は俺の手を繋いで机で眠りこけてしまうようにベッドに身を預けていた。深い海底のような瞳は長い睫に閉ざされたままで美しい相貌は眠りに落ちていた。
 ……もしかしてずっとそばにいてくれたのだろうか。
 純粋に嬉しく思ってしまった。
 手の温もりは抱きしめられているみたいで一人じゃないんだと安心する。
 眠る兄の頭に空いている手を伸ばす。暗闇に溶けるような漆黒の髪は触るとサラサラしていて心地よかった。
 きっと疲れて眠ってしまったのだろうと思うと申し訳なかった。俺の身体が弱くなかったらこうして兄に負担を掛けることも苦しめることもなかったのに。だけど現実は非情で、俺の身体はこの通り治ることなんてない。
 どうにか兄が休まるようにと頭を撫でていると、コトリと緩んだ兄の手から何かがベッドに転がった。
 なんだろうと見るとそれはガラスで作られたような小さな花だった。
 綺麗だなぁ。
 何かの置物だろうかと眺めているとピクリと長い睫が動いて深淵のような深い青の瞳に俺が映り込む。
「……ああ、イライアス起きてたんだな。体調はどうだ? 辛いところはないか?」
 ぼんやりとしながらも起きて早々俺の心配する兄に逆に心配になる。
「今はもう大丈夫です。ごめんなさい、ずっとそばにいてくれてたんですか?」
「ああ。……とりあえず体調が戻ってくれて良かったよ」
 そう微笑む兄の瞳の下にくっきりと隈があって顔色もなんだか悪くて俺はもっと心配になった。そんな俺に気づいたのか、心配を打ち消すように兄がニカッと笑ってくしゃりと俺の髪を混ぜる。
「なにそんな顔してるんだ。少し寝てなかっただけで体調で見ればお前の方が深刻だろ。それにイライアス、そんなことで謝らなくていい。俺がお前にしてやれることと言ったらそれぐらいしかないんだからな」
 俺にとってはその『それぐらい』が一大事だった。兄に負担なんて少しも掛けたくはない。
「お前は自分の身体を大切にして、弟なんだから存分に俺に頼ればいい」
 だけどそう願われているのなら俺はそうしなきゃいけない。拒絶して兄のその笑みを曇らせるなんてことはしたくない。
「……うん」
 消え入りそうな声だけどなんとか俺は絞り出した。視界の端で月明かりに照らされた花がキラリと光る。
「あの、そういえばこれって何ですか?」
 花に指を差すと兄が「ああ」と摘んで見せてくれた。
「御守りだよ。イェルクから貰ってな。魔法が掛かっていて病を治す効果があるらしい」
「へぇ。とっても綺麗な御守りですね」
「眉唾物かと思ってたけど、お前の体調が良くなったんだから本物かもな」
 そりゃあイェルクから貰ったんならそう疑うだろうなぁなんて思っていると「ちょっと待ってろ」と部屋を出て行ってしまった。しばらくして戻ってくるとその手には一つのカップが握られていた。
「ホットミルクチョコ。お兄ちゃん特製だぞ。とは言っても温めただけなんだけどな」
 苦笑しながら手渡されたカップには温かな湯気を沸き立たせるミルクチョコの上にプカプカとマシュマロが乗っかっていた。マシュマロにはチョコで描かれたのかクマがこちらを見つめていた。俺のために慣れないことをしてくれたのだろう。線はガタガタで俺じゃなきゃクマだって気付かなそうなくらいだったが、その不器用さが愛おしかった。
 コクリと飲んでみると甘くて身も心もほっこりと温かくなっていくようだった。
「ありがとうございます。とてもおいしいです」
 味に自信がなかったのか微笑む俺を見て兄はホッと息を吐いているようだった。
 幸せだった。
 たとえ身体が弱くてどんなに辛くても兄がそばにいるだけでそんなもの気にならないくらい小さなことのように思えて、苦しい日々も愛おしい暖かなものに変わる。
 邪神の封印により魂を使い切るのにあと五年もない。
 俺の身体だっていつまで保つか分からない。
 俺は兄より先に最期を迎えるけれど許されるのならその最期の日までこうして兄と暖かさに満ちたなんともない日々を過ごしたい。
 負担を掛けたくはないのに、求めてはいけないって分かっているのに俺の本音は随分とわがままだった。
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