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『ロミオとジュリエット』
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けれど、そんな現実逃避も長くは続かない。
両親との憂鬱な晩餐を終え部屋に戻るとバルコニーへ続くガラス扉を開けっぱなしだった事に気付いた。
閉めるついでにバルコニーへ出て、裏庭を見渡した。
陽はすっかり落ちて、月光が荒れた裏庭を照らしている。芝生も蔦も伸び放題で、闇夜に浮かび上がる様は、幽霊屋敷のようにおどろおどろしい。裏庭まで手入れをする余裕はないため放置されているが、『眠り姫』に出てくるいばら城みたいで、バルコニー同様お気に入りポイントだったりする。
なんとなく奴と初めて出会った時の事を思い出した。こんな風に月が明るい夜で、美しい薔薇園だった。出会ってまだ二ヶ月ほどしか経っていないというのに、一度の邂逅が濃密すぎるせいか、やけに長く感じる。
嫌な感慨に顔を顰め、奴が先ほどまでいた場所を睨むと、黒い塊が落ちているのが見えた。そういえば、本を投げつけたんだった。拾いにいかなくては。
私は慌てて外に出ると裏庭に向かう。植木の陰を何かががさりと通りすぎて、びくっと肩を震わせた。いつもだったら平気だが、また奴が潜んでいたらと思うと背筋が粟立った。
わざわざ両親の留守を狙って会いに来たのだ。今、私に接触してくる可能性は低い。奴もそこまで暇ではないだろうし。私の姿絵を描いていたという前科はあるが、深く考えていたらきりがない。
やっと裏庭に到着し、本を回収すると早足で部屋に戻る。自室の扉を閉めて、ベッドに腰掛けるとほっと息をついた。
私は腕に抱くように持っていた本を胸から離すと状態を確かめた。
本ではなく靴を投げれば良かったと、今更ながら後悔が過ぎる。もしかしたらページがばらばらになっていたかもしれない。頭に血が上っていたとはいえ、大事な物を投げるなんて馬鹿な事をした。
月明かりしかないため、よくは見えないが、幸いな事に損傷はなさそうだ。私は本の表紙を撫でて題名を確かめた。硬かった表紙は擦り切れて、端が脆くなっている。金色で描かれていた題名は掠れて読めなくなっているが、それでもこの本の題名はすぐに分かった。
ふっと懐かしさがこみ上げる。
これはマーニャが餞別として譲ってくれた物だ。五年前、前の屋敷を引き払う時、多くの物を置いていった。その中には私が大切にしていた本も含まれていた。両親は娯楽本に理解を持たず、邪魔になるからと持っていくのは許されなかった。今よりずっと幼かった私は両親に逆らえず、生まれて初めて悔し涙を流した。
屋敷を引き払うと同時にマーニャも解雇されたのだが、この家に越してきてしばらくするとこっそりと私を訪ねてきて、この本を含めた何冊かを譲ってくれたのだ。
『お嬢様が大事にしていた本はございませんが、私のでよければ気晴らしにお読みください。お嬢様の心がいつまでも健やかでありますように』
印刷技術が普及してきたとはいえ、本はまだまだ贅沢品であった。没落寸前のグランハート家から支払われる給料など微々たるもので、すでに使用人のほとんどは辞めていた。最後まで残っていたのもマーニャを含む数人だった。
事情があって辞めるに辞められなかった者たちの中で、マーニャはただ自分の乳を分け与えた私のために残ってくれていたのだ。その上、涙を流した私のために本まで譲ってくれた。本に綴られているのは物語だけではなく、優しい思い出だ。
この本は特に思い出深い。
マーニャは悲しい結末だからあまり好きではありませんと言っていたが、そんなことないと私はよく反論したものだ。
この本は私にとって特にお気に入りの一冊だった。
題名は『ロミオとジュリエット』
私と同じ名前の主人公。甘く切ない恋物語は私の心を虜にした。
目を閉じれば彼らの物語が脳裏に再生されるくらいには何度も何度も読み返した。
バルコニーで愛を語り合うふたり。互いの瞳には互いの最愛の人が映っていて、どこまでも幸福に満ち溢れている。そこに昼間の光景が重なった。紫の瞳が私を捕らえる。ロミオとジュリエットの姿が私と奴の姿に書き換えられる。
私ははっとして目を開いた。さっきまでの思考を振り払うようにぶんぶんと首を振る。下ろしたままの髪が頰に当たって少し痛い。
せっかく優しい思い出に浸っていたというのに奴のせいで台無しだ。若干、ほんの僅かに、砂粒程度には似通った状況ではあるかもしれないが、美しい物語と現状を重ねるなど言語道断だ。
奴は変態以外の何者でもないのだから、端から物語は破綻している。
今日は奴に付き合わされたから、疲れが溜まっているのだ。こんな日はさっさと寝るに限る。お風呂は明日の朝入るとしよう。本は枕元に置く。広げたままだったドレス類は蹴って落とし、寝る場所を確保する。ベッドに鎮座していた熊のぬいぐるみを抱くと顔を埋め、幼子のように丸まった。
しんとした室内に聞こえるはずのない奴の声が鼓膜の奥を震わせる。
『愛しているよ、ジュリエット』
ドクドクと脈打つ心臓を抑えるため、ぬいぐるみを抱く腕にぎゅっと力を込めた。
両親との憂鬱な晩餐を終え部屋に戻るとバルコニーへ続くガラス扉を開けっぱなしだった事に気付いた。
閉めるついでにバルコニーへ出て、裏庭を見渡した。
陽はすっかり落ちて、月光が荒れた裏庭を照らしている。芝生も蔦も伸び放題で、闇夜に浮かび上がる様は、幽霊屋敷のようにおどろおどろしい。裏庭まで手入れをする余裕はないため放置されているが、『眠り姫』に出てくるいばら城みたいで、バルコニー同様お気に入りポイントだったりする。
なんとなく奴と初めて出会った時の事を思い出した。こんな風に月が明るい夜で、美しい薔薇園だった。出会ってまだ二ヶ月ほどしか経っていないというのに、一度の邂逅が濃密すぎるせいか、やけに長く感じる。
嫌な感慨に顔を顰め、奴が先ほどまでいた場所を睨むと、黒い塊が落ちているのが見えた。そういえば、本を投げつけたんだった。拾いにいかなくては。
私は慌てて外に出ると裏庭に向かう。植木の陰を何かががさりと通りすぎて、びくっと肩を震わせた。いつもだったら平気だが、また奴が潜んでいたらと思うと背筋が粟立った。
わざわざ両親の留守を狙って会いに来たのだ。今、私に接触してくる可能性は低い。奴もそこまで暇ではないだろうし。私の姿絵を描いていたという前科はあるが、深く考えていたらきりがない。
やっと裏庭に到着し、本を回収すると早足で部屋に戻る。自室の扉を閉めて、ベッドに腰掛けるとほっと息をついた。
私は腕に抱くように持っていた本を胸から離すと状態を確かめた。
本ではなく靴を投げれば良かったと、今更ながら後悔が過ぎる。もしかしたらページがばらばらになっていたかもしれない。頭に血が上っていたとはいえ、大事な物を投げるなんて馬鹿な事をした。
月明かりしかないため、よくは見えないが、幸いな事に損傷はなさそうだ。私は本の表紙を撫でて題名を確かめた。硬かった表紙は擦り切れて、端が脆くなっている。金色で描かれていた題名は掠れて読めなくなっているが、それでもこの本の題名はすぐに分かった。
ふっと懐かしさがこみ上げる。
これはマーニャが餞別として譲ってくれた物だ。五年前、前の屋敷を引き払う時、多くの物を置いていった。その中には私が大切にしていた本も含まれていた。両親は娯楽本に理解を持たず、邪魔になるからと持っていくのは許されなかった。今よりずっと幼かった私は両親に逆らえず、生まれて初めて悔し涙を流した。
屋敷を引き払うと同時にマーニャも解雇されたのだが、この家に越してきてしばらくするとこっそりと私を訪ねてきて、この本を含めた何冊かを譲ってくれたのだ。
『お嬢様が大事にしていた本はございませんが、私のでよければ気晴らしにお読みください。お嬢様の心がいつまでも健やかでありますように』
印刷技術が普及してきたとはいえ、本はまだまだ贅沢品であった。没落寸前のグランハート家から支払われる給料など微々たるもので、すでに使用人のほとんどは辞めていた。最後まで残っていたのもマーニャを含む数人だった。
事情があって辞めるに辞められなかった者たちの中で、マーニャはただ自分の乳を分け与えた私のために残ってくれていたのだ。その上、涙を流した私のために本まで譲ってくれた。本に綴られているのは物語だけではなく、優しい思い出だ。
この本は特に思い出深い。
マーニャは悲しい結末だからあまり好きではありませんと言っていたが、そんなことないと私はよく反論したものだ。
この本は私にとって特にお気に入りの一冊だった。
題名は『ロミオとジュリエット』
私と同じ名前の主人公。甘く切ない恋物語は私の心を虜にした。
目を閉じれば彼らの物語が脳裏に再生されるくらいには何度も何度も読み返した。
バルコニーで愛を語り合うふたり。互いの瞳には互いの最愛の人が映っていて、どこまでも幸福に満ち溢れている。そこに昼間の光景が重なった。紫の瞳が私を捕らえる。ロミオとジュリエットの姿が私と奴の姿に書き換えられる。
私ははっとして目を開いた。さっきまでの思考を振り払うようにぶんぶんと首を振る。下ろしたままの髪が頰に当たって少し痛い。
せっかく優しい思い出に浸っていたというのに奴のせいで台無しだ。若干、ほんの僅かに、砂粒程度には似通った状況ではあるかもしれないが、美しい物語と現状を重ねるなど言語道断だ。
奴は変態以外の何者でもないのだから、端から物語は破綻している。
今日は奴に付き合わされたから、疲れが溜まっているのだ。こんな日はさっさと寝るに限る。お風呂は明日の朝入るとしよう。本は枕元に置く。広げたままだったドレス類は蹴って落とし、寝る場所を確保する。ベッドに鎮座していた熊のぬいぐるみを抱くと顔を埋め、幼子のように丸まった。
しんとした室内に聞こえるはずのない奴の声が鼓膜の奥を震わせる。
『愛しているよ、ジュリエット』
ドクドクと脈打つ心臓を抑えるため、ぬいぐるみを抱く腕にぎゅっと力を込めた。
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