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「………ああ、そうだ。そうだったな…ハル」
 邪神にはならないで。
 光に背を向けないで。
 今となっては最後のハルの願いとなったその想いに、俺は寸での所で我を取り戻した。人を殺してはいけない。どんなに憎くても、闇に堕ちてしまわないように。ハルが似合うと言ってくれた光の中で、ハルが好きだと言ってくれた俺であるために。
「解ってる……解ってるよ…ハル」
 俺は男らを無視して物言わぬハルに寄り添うと、見開いたままの瞳をそっと閉じさせた。それから愛しい人の魂の抜け殻を、大切な宝物の様に抱き上げると、離れ屋を脱して実体化しハルと共に空を舞った。
「ハル……」
 空を飛びながら全裸のハルに服を纏わせ、惨い青痣や傷痕を綺麗に消してやる。すると、腕の中の身体は、ただ安らかに寝ているだけみたいなハルの姿になった。
「ハル…ハル、帰ろうな…お前が、帰りたかった世界に…」
 考えてみれば皮肉な話だ。ハルは死んだ。死んで『無機質な物体』になった。だからこそハルは、今こそ結界を出て人の世界へ帰れる。あんなにも帰りたがっていた、人の世界に。
「さあ……結界を越えるぞ、ハル」
 なんなく結界を越えた俺とハルとは、風になって自由な空を飛んだのだった。


「ハル…見えるか?お前が住んでいた町だ」
 話に聞いていたハルの生まれた町を、すぐ近くの山の上から見下ろしながら、俺は心で腕の中の少年に語り掛ける。目を閉じると見慣れた町を大きな瞳に映して、嬉しそうに笑うハルの顔が瞼の裏に浮かんだ。
「嬉しいか?……ハル…やっと…帰って来られたんだぞ……ッ」
 俺の言葉にニッコリと微笑むハルの顔。
 だが今、俺の腕の中のハルには、歓びも哀しみも怒りの色も何もない。
 もはやここには何ひとつないのだ。そう、何も遺されてない。
 愛した魂も、心も、俺を呼ぶ声も。
「ハル……今こそ……」

 そして俺は、今こそ禁忌を犯す。

「神が人になる禁忌っていうのもある」
「そうなの…!?それ、良いね…それ!!」
「力を使えなくなるから、何もしてやれなくなるぞ??」
「イイよ。それでも。セツと同じ時を生きられるなら、俺はその方が良い」
 最後にハルと話した時、彼が望んだ神の禁忌。あの時俺は、ハルに詳しいことは何も説明してやらなかった。何故ならこれは、ハルに話しても意味のないことだったからだ。

 神が人に堕ちる禁忌。
 俺がそれを実行できるのは、唯一、ハルが死んだ直後だけだったのだから。

「………ハル」
 愛する人の子の亡骸に、愛を込めて口付けする。
 それこそが神を人へと堕とす、神に赦された『最後の禁忌』だった。

 人の子を愛してしまった神性存在への、それは唯一の救いの手段でもある。
 命儚い人の子を魂かけて愛した神は、その後も長い長い時を生き続けなくてはならない。ただ1人と定めた愛する人を失い、失意のままに生きなくてはならないのだ。だけどそれは、あまりにも辛すぎる永遠の地獄だから。
 狂うことすらできない、無限の苦痛の坩堝でしかないから。
 だからこれは『禁忌』とは言いつつも、神性存在に残された最後の救いの道でもあった。残りの命を人として短く生き、愛しい者と同じ場所へと逝くための。
「ハル…愛してる……」
 腕の中の少年に顔を近づけ、小さな唇に口付ける。俺はまだ柔かいけれど冷たい唇に、少しでも温もりを求めて深く深く唇を合せた。
「うっ………!?」
 時を置かずに発動する禁忌の力。
 身の内から失われていく霊力。
 書き換えられていく存在。
 今まで感じたこともない不安定さ。

 神から人へ。
 決して戻れない旅路の始まり。
 けれど後悔はない。神であった自分になど、今更なんの未練も執着もない。

「ハル…なあ、解るか?俺…今、人になったんだ。お前と同じ…お前が望んでくれた、ただの『人間』のセツに…」
 無理矢理笑って腕の中のハルに報告するが、何の反応も見せない顔を見るだけで、涙が溢れて止まらなかった。ああ、もう、本当にここには居ないんだな。
 せり上がってきた哀しみに、嗚咽を上げようとした、

 ──その時。

「………………ヒュッ」
「………えっ」
 ハルの喉が短く笛を鳴らせたかと思うと、突然、息を吹き返して苦しげに咳き込みはじめた。ゲホゲホと身を折って咳き込んだハルは、しばらくして落ち着くと薄らと目を開く。
「……………ッ」
 青い。青い、空の瞳。俺の、俺の大好きな、心惹かれて止まぬ、どこまでも澄んだ美しい空の──
「えっ…………えっ??」
 あまりのことに驚いて2度見する。信じられない。さっきまで確かに死んでいた。間違いなく、ハルは命を失っていた。これは奇跡なのか??もしくは、ただ単に仮死状態になっていただけ??それとも禁忌によって失われた神の力が、引き換えにハルの命を──!?
「ハ……ハル……ッ」
 いや、真相なんてどうでも良い。本当のことなんて何も解らなくても良いんだ。
だけどこれは、だけどこれは、夢じゃない。夢じゃない!!
「セ……ツ…??」
「…ハル…ハルッ……ハルッ!!」
 ハッキリと開かれた大きな瞳が、焦点を結んで俺の姿を見た。ぱちぱちと何度か瞬いたそれは、俺の姿を認識した途端、柔かな微笑みの形に細められる。
 美しい空の青。俺を映す、ハルの瞳。
 俺の、俺だけの、晴れ渡った蒼穹の空。
「ハル……ハルッッ!!」
「セツっ、セツッッ!!」
 俺の首に噛り付くようにハルは抱き付いてきて、俺も歓びのままにそんなハルの華奢な身体を抱き締めた。ぬくもり。鼓動。生きている。ハルが生きている。俺の愛する人が、愛するハルが生きていた。
「ハル…ハル、もっと呼んでくれ…俺の名を呼んでくれ、ハル!」
 ハルが俺を呼んでる。いつもの声で、甘えたように。それがとても耳に心地よくて、夢のようで、もっともっと何度でもその唇で、その声で、俺の名前を呼んで欲しいと願った。
「うん、セツ…セツ、セツッ、セツ……ッッ!!」
 青い瞳を涙で潤ませたハルは、繰り返し、繰り返し俺の名を呼んでくれた。ハルが付けてくれた大切な名前を、俺の魂を揺さぶる愛しい想いに乗せて。何度も、何度も。
 それが嬉しくて。幸せで。堪え切れずに名を呼ぶ途中で、その唇を塞いだ。
「セ・・・ッ、ん、んふ…んっ、あっ、うん…ッ」
 柔らかな唇の感触を確かめながら、何度も、何度も重ね合わせると、ハルは白い頬を染めて俺を口内へ受け入れてくれる。熱い。甘い。ああ、ハルの味がする。俺は舌を入れてハルの口内を思うさま蹂躙し、おずおずと伸ばされてきた舌を絡め取った。
「ハル…愛してる」
「ん…俺もだよ、俺も、セツのこと愛してる」
 このまま繋がり合いたい激情を堪え、長い長い接吻を終えて俺達は顔を見合わせる。両腕で抱えていた身体を名残惜しみつつ地面へ下ろすと、ハルはしっかりと自分の両足で立ち、いつものように下から俺の顔を見上げてきた。

 美しい青い瞳に、俺への深い愛を込めて。

「陽斗…俺の、ハル……これからも、ずっと一緒だ…ッ」
「……うん!セツ…ッ!!」
 神としての存在と力を捨て、人となった俺の目の中には、俺の言葉に嬉しそうな瞳を輝かせ、幸せいっぱいに微笑む愛しいハル。ああ、コレは決して、夢なんかじゃない。
「ハル………ッ」
「セツ……ッ!」
 俺とハルはどちらからともなく、もう1度、確かめ合う様に抱き締め合った。

 華のように紅く色づく、木々の光に包まれながら。 
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