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変わり始めた運命

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「へえ……俺がいつ、そのようなことを言ったのだ?」
「……………えっ!?」
 開け放してあった部屋の入口から聞こえた声に、乳母はもちろん、メイドも執事も、そして僕ですら驚きのあまり声を失った。

 まさか。こんな時間に、ここにいるはずがない。
 逆行以前の記憶でも、こんなことは起きなかったはずだ。
 それなのに、どうして。

「どうやら乳母殿の脳裏には、俺の知らぬ俺が居るらしいな?」
「ひっ………!」
 恐怖に引き攣った乳母らが振り返ったその先には、兄上が──ラトール・シュワルツ・ドラッヘシュロスが立っていたのである。
「ラ……ラトール様…ッッ」
「な、なぜ、ここに……ッ」
「俺がこの屋敷に居て何かおかしいか?」
 動揺する乳母らの間をするりと抜け、兄上は床に座り込んだ僕の前へ立った。そして、ニコリと優しい微笑みを浮かべて僕を見ていたが、乳母らに顔を向けるとその表情と気配は一変していた。
「フィーリウを叱っていたようだが、この子が大人3人がかりで罵られるほどのことをしたのか?」
 兄上の静かな問い掛けに、硬直していた乳母がハッとして、
「そ、そうなのでございます!!ラトール様、聞いてください!!」
 ついさっきまで青ざめていた顔に喜色を浮かべ、乳母はつらつらと僕の『罪』とやらをあげつらい始めた。まずは図書室の本を盗んだこと、それから、3度の食事に我儘を言うこと。
「ええ!ええ!!もちろん、それだけではございませんよ!?」
 さらに僕は嘘つきで手癖も悪く乱暴者で、メイドや使用人らに度々手を上げる、などと、よくもとっさにそんな噓が吐けるものだと、いっそ感心するくらいの饒舌さで乳母は兄上に訴え続けた。
 しかも呆れたことに袖を捲って腕に付いた痣を見せ、これも僕がやったことだと泣き真似までしてみせている。

 当然、僕はそんなこと知らないし、暴力を振るうどころか、逆に振られているような立場だ。
 怪我まではさせられていないものの、青痣が付くほど抓られるのは日常茶飯事で。
 服に隠れている体のあちこちに、今も小さな青痣が残っている。

「あ…兄上、僕、そんなことしてません!」
 ありったけの勇気を絞り出して、乳母の訴えに反論を返すと、乳母はショックを受けた顔をして、大袈裟に顔を伏せて嘆き始めた。
「フィーリウ坊ちゃま、乳母やは本当に悲しゅうございます!」
 赤ん坊の頃から我が子のように愛でて大切に育ててきたのに、息を吐くように嘘を付くとは情けない。いや、これもすべてシュワルツ家次男として、相応しい養育が出来なかった自分が悪いのだと、乳母はまるで悲劇のヒロインみたいに言い募る。
「そんなことありませんわ!!エルロア様は本当に、本当にフィーリウ様をご自分のお子のように、大切にお世話していらっしゃいましたもの!!」
「そうですぞ。エルロア殿!!ラトール様、エルロア殿は乳母として、立派に勤めておられました!」
 まるで示し合わせたかのように、メイドと執事も嘆く乳母に同情してみせた。

 乳母は誠心誠意、僕を育てようと努めていた。
 そんな乳母の心を踏みにじり、僕は我儘な暴君と化した。

 はたから見ていれば、悪者はきっと僕の方なのだろう。

 そういう状況を素早く作り上げてしまう才能は、皮肉抜きにしても凄いものだと思ってしまった。
 身体と同じく5歳児の心のままだったら、どんどん悪化していく状況でパニックに陥り、こんな呑気なこと考えられなくなっていただろうけど。
「……………」
 何を考えているのか、兄上は悲劇に浸る乳母らを、無言のまま見詰めていた。
 背後からそっと覗き見ると、兄上は無表情でこそあったが、その黒い瞳は冷たい氷みたいに冷ややかだった。というか、気のせいか全身から、ヒヤリとした冷気すら感じる。

 ──怖い。
 もしもこの冷気が、自分に対して向けられたら?
 兄上が乳母らの主張を信じ、僕を悪だと断定したら??
 そうしたら、きっと、たぶん。

 僕は今回も、長くは生きられないだろう。

 兄上から漂う気配には、そういう確信をもたらす空気があった。

「本当に申し訳ありません…私がフィーリウ様をお育て損なったばかりに…ッ」
 今、兄上の視線は悲劇を演じる乳母らに向けられているが、もしも兄上が『また』彼女らの主張を信じてしまい、そうして再び、僕に対して冷たいその視線を向けてきたら──!?
 そう考えるだけで僕は、心臓が張り裂けそうだった。

 僕が何を言っても、信じてくれなかったら。
 僕のことを、無能な厄介者と、切り捨ててしまったら。
 僕にはもう、生き続ける価値など無いじゃないか、と。

「あ…兄上……」
 僕は何もしてない。
 ただ僕は、生き続けるために。
 ただ少しでも長く生き続けるために、『前』は出来なかったことをしたかっただけなんだ。
「僕は何も…悪いこと、してない……よ」
 もっと色々言いたかったのに、口から出たのはそれだけで。
「…………ッッ」
 必死な僕の訴えを耳にした乳母が、兄上に見えない角度から睨みつけてきた。
 『余計なことを言うな』と、憎々し気な視線が伝えてきている。
乳母の怒りを感じ取った僕の体が、情けないけど無意識に怯えて震えていた。
「話は良く解ったが……乳母殿は、なにか勘違いをしているようだな」
「え……は?あの…な、何か……?」
 はあと深い息を吐いた兄上が、僕のことを振り向いてから言葉を継いだ。
「忘れているようだが…フィーリウはなんだ?」
「な……なに…って、え、なんのことだか…」
 何を言われているのか解らない、と乳母はロザリアや執事を振り返るが──実を言うと僕も解んないんだけど──彼らもやはり、兄上が何を言いたいのか理解できずにいるようで、さあ?と首を傾げるばかりだった。
「フィーリウはこの離れ屋敷の主だ。そんなことも解らないのか?」
「え…??いえ、そ、それは…??」
 使用人らに普段から見下されている僕が屋敷の主??
 兄上からの指摘に乳母も、ロザリアもセバス執事も、間の抜けた顔できょとんとしていた。当然だけど、僕自身も『え?そうなの??』って、内心で驚いてしまっていて。オロオロしてすぐ隣の兄上を見上げると、兄上は険しい顔のまま優しく僕の頭を撫でて話を続けてくれた。
「その様子では、乳母殿はどうも、フィーリウを主と敬っておらぬように思えるが…?」
「い、いえっ、そんなこと!!も、もちろん、フィーリウ様がお屋敷の主ですとも!!わ、解っておりますよ!?あ、当たり前ではありませんか!」
 兄上の発する怒気を感じ取ったのか、乳母は慌てて兄上の言葉を肯定する。だが、指摘された事実に対して、心から納得し切れていないのは見え見えだった。何故なら乳母の僕を見る目が言葉よりも雄弁に、『こんな役立たずな子供が主だなどと!』と正直な心の声を語っていたからだ。
「ほう…では乳母殿は、それを解っていてフィーリウに罪を問うのか?」
 納得は行かないが、今は適当に話を合わせておけばいい。愚かな子供(僕のことだ)相手なら、あとでどうにでもなる。そんな乳母の考えそうなことが読めてでもいるのか、兄上は容赦ない口調で厳しく追及を続けた。
「罪を問うだなんて、そんなこと?…私は…ただ」
「先程、フィーリウが本を盗んだ、と言ったな」
「そっ、それは……でも、それは…坊ちゃまがッ」
「フィーリウが主と理解しているなら、随分とおかしなことを言うではないか?乳母殿??」
 そもそもこの屋敷にあるものはスプーンから、家具に至るまで何もかもすべて、屋敷の主であるフィーリウの物だ。なのに、雇われ者である乳母ごときが、主を盗人呼ばわりするとは何事か!?と、兄上は乳母エルロアを断罪する。
「……そ、それは………ッッ!!」
「わ、私、そんなつもりでは…!!」
「ラトール様、私も、私も違いますぞ!!」
 ようやく自分の失言に気付いたらしい乳母が、瞬間的に太った顔を青ざめさせて一瞬口籠った。しかし、それでもふてぶてしく言い訳を続けようと乳母は口を開くが、それはメイドのロザリアやセバス執事も同様だった。
 さっきまで空々しく被害者ぶっていた彼らが、一瞬にして立場を逆転されたあげく、目に見えるほど動揺し、罪を逃れようと無様に足搔いている。
「聞くに堪えんな。まあ、もともと乳母殿には他に聞きたい話があったし、ちょうどいい。だが、ここではなんだから、場所を変えさせてもらおう」
「は…話…とは…ラ、ラトール様…!?」
「本日、乳母殿が街で売った指輪のことだ」
 おどおどと乳母が顔色を窺うが、兄上は一言だけ冷淡な声でそう告げた。
 途端に乳母は、青ざめていた顔を、今度は白く染めさせる。

 指輪??もしかして、母上の指輪のこと??
 それを乳母が街で売ったの??え、それ、どういうこと??

 このあまりにも唐突な急展開に僕は、事態に対する理解と状況把握が追い付かず、馬鹿みたいに頭を傾げるばかりだった。
「そそ……それは違います!!わわ、私は…ッッ!!」
「連れていけ」
 これ以上付き合い切れぬとばかりに、兄上は乳母の訴えを無視して指で合図をする。すると、部屋の外に待機していたらしい数人の男が、待っていたとばかりにどかどかと中へ入ってきた。
「…………ッッ!?」
 こんなに大勢の人、いつから外に控えていたんだろ。全然、気付かなかった。
 さらにビックリする僕を置き去りにして、男らは乳母を拘束し部屋から連れ出していった。
「ああ、そのメイドと執事もだ。乳母だけかと思っていたが、どうやら彼らからも面白い話が聞けそうだ」
「ひいっ、わわ…私は何も…!!!!」
 兄上から発せられた追加の指示に、安堵しかけていたロザリアも、セバス執事も情けない悲鳴を上げる。男らはそんな2人も手早く拘束すると、引きずるようにして部屋から連れ出していった。

 乳母も、ロザリアも、セバス執事も、屈強な男らの手で連行されて行く間、なにやらぎゃあぎゃあ叫び続けていたが、男らの足音が聞こえなくなると同時にそれも聞こえなくなった。
 
 いったい、何事が起こったのか、混乱していてホントに理解が追い付かない、

 ただひとつ。
 こんな事件が、逆行以前になかったことだけは断言できた。
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