5 / 45
第一章 結婚は人生の墓場と言うが
結婚は人生の墓場
しおりを挟む
「――おい! おい、グレウス! しっかりしろ!」
「え……」
体を揺さぶられて、グレウスはハッと正気に返った。
ここは謁見の間だ。跪いたまま気を失ってでもいたのか、玉座の周りにはもう誰もいなかった。
グレウスの肩を掴んで揺すっているのは、騎士団長のカッツェだ。
「あ、あれ……陛下とあの人は……」
「もうとっくに退出されたよ。ひとまず下がるぞ」
カッツェに促されて、グレウスはようやく立ち上がった。
長い時間跪いていたせいか、歩くと膝がガクガクする。気のいいカッツェが肩を支えてくれようとしたが、肩の高さが合わないので結局一人で歩くことになった。
「……それにしても、まさか『黒の魔王』が臣籍降嫁とはな……」
よろよろしながら歩くグレウスの耳に、カッツェの呟きが届いた。
前を向いたその顔は苦虫を噛み潰したかのように厳しい。
「黒の魔王……?」
グレウスが問い返すと、カッツェはハッとしたように周囲を見回した。ここは謁見の間から兵舎へと戻る廊下で、人通りは他にない。
辺りを憚るように見回しながら、カッツェは小声で囁いた。
「ご本人の前では言うなよ。あの御方は、貴族たちの間ではそう呼ばれて、怖れられているんだ」
伯爵家の当主でもある騎士団長の言葉に、グレウスは頷いた。
一目見た瞬間、グレウスもまるで古代の魔王のようだと思ったのだ。
黒いローブに長い黒髪。神秘的な赤い瞳。
エルフの末裔と言われるアスファロスの皇室とは、あまりにも異質な雰囲気を持つ人物だった。
「確かに、ちょっと凄みがある雰囲気でした」
「ちょっと!? お前、ちょっとなんてものか、アレが!」
グレウスが感想を述べると、カッツェは動揺も露わに声を荒げ、声が大きくなったことにハッとしたように口を押さえた。日に焼けた横顔が、幾分青褪めて見える。
それほど怖ろしい人物なのだろうか。
たしか選定で魔力が少ないと判じられて、ほとんど引きこもりのように王城の奥で十年を過ごした皇族のはずだ。グレウスのような庶民は、近衛騎士でなければ名も知らないことだろう。
腑に落ちない顔をしていると、カッツェはグレウスの腕を引っ張って、さらに人気のない中庭の方へと足を向けた。
太陽の光を燦燦と浴びて、騎士団長はやっと人心地がついたようだ。
「お前だから忠告するんだが、身辺には気をつけろ」
しきりと周囲を気にしながら、カッツェは小声で話し始めた。
「十年前の選定儀式の後、すぐにでも臣籍降嫁は決まるはずだったんだ。だが名が挙がった貴族が次々と失脚して、結婚相手は気が狂ったり行方不明になったりしている。あの御方が今も城に居られるのには、そういう事情がある」
確かに言われてみれば、臣籍降嫁する皇族というのは大抵二十歳そこそこだ。除籍されながら、いつまでも城に残る皇族の話は聞いたことがない。庶民でも嫁き遅れると肩身の狭いものだが、皇族ならばなおさらだろう。
しかし、皇弟は一味違うようだ。
「降嫁先がなくなったのをいいことに、あの方は裏で貴族院の議長を抱き込んで暗躍しているという話だ。あの黒い目を見ただろう。正面からあの目を見返すと、操り人形のようになるか、気が触れておかしくなると言われている」
『黒い目』と言ったカッツェに、グレウスは首を傾げた。
謁見の間で会った時、皇弟の目の色は朝焼けのような緋色だった。
珍しい目の色ではあるが、グレウスは幼い頃にも同じ色の目を見た気がする。美しいとは思ったが、怖ろしさは感じなかった。
カッツェは見るのを怖れて視線を逸らしていたので、噂を鵜呑みにしているのだろう。
しかし冷静になって考えてみると、例え噂が出鱈目だったとしても、結婚相手として喜ばしいとは言い難い。
皇室の警護で心身ともに疲れ切って帰宅すると、家にあの皇弟殿下が待ち構えている――どう考えても、気が休まるとは思えなかった。
皇族に離縁はあり得ないので、結婚すればこの先ずっと他に妻を持つことはできない。妾などもってのほかだ。
結婚は人生の墓場という言葉があるが、まさに文字通りになりそうだ。
いつか可愛い妻を迎えて、幸せな結婚生活を送るのだという淡い夢が、完全に断ち切られることになるのだから。
やっと事態が呑み込めてきて、グレウスは青くなって上官に縋った。
「なんとか穏便にお断りは……」
「諦めろ」
答えは無情だった。
丁寧に整えた髪を掻き回しながら、騎士団長は気の毒そうに言葉を発した。
「副団長への大昇進に、侯爵位だぞ。今度こそ皇帝陛下は何が何でもあの方を降嫁させる構えだ。お前にできることは聖教会に寄付でもして、呪いにかかりませんようにと祈ることくらいだよ」
「え……」
体を揺さぶられて、グレウスはハッと正気に返った。
ここは謁見の間だ。跪いたまま気を失ってでもいたのか、玉座の周りにはもう誰もいなかった。
グレウスの肩を掴んで揺すっているのは、騎士団長のカッツェだ。
「あ、あれ……陛下とあの人は……」
「もうとっくに退出されたよ。ひとまず下がるぞ」
カッツェに促されて、グレウスはようやく立ち上がった。
長い時間跪いていたせいか、歩くと膝がガクガクする。気のいいカッツェが肩を支えてくれようとしたが、肩の高さが合わないので結局一人で歩くことになった。
「……それにしても、まさか『黒の魔王』が臣籍降嫁とはな……」
よろよろしながら歩くグレウスの耳に、カッツェの呟きが届いた。
前を向いたその顔は苦虫を噛み潰したかのように厳しい。
「黒の魔王……?」
グレウスが問い返すと、カッツェはハッとしたように周囲を見回した。ここは謁見の間から兵舎へと戻る廊下で、人通りは他にない。
辺りを憚るように見回しながら、カッツェは小声で囁いた。
「ご本人の前では言うなよ。あの御方は、貴族たちの間ではそう呼ばれて、怖れられているんだ」
伯爵家の当主でもある騎士団長の言葉に、グレウスは頷いた。
一目見た瞬間、グレウスもまるで古代の魔王のようだと思ったのだ。
黒いローブに長い黒髪。神秘的な赤い瞳。
エルフの末裔と言われるアスファロスの皇室とは、あまりにも異質な雰囲気を持つ人物だった。
「確かに、ちょっと凄みがある雰囲気でした」
「ちょっと!? お前、ちょっとなんてものか、アレが!」
グレウスが感想を述べると、カッツェは動揺も露わに声を荒げ、声が大きくなったことにハッとしたように口を押さえた。日に焼けた横顔が、幾分青褪めて見える。
それほど怖ろしい人物なのだろうか。
たしか選定で魔力が少ないと判じられて、ほとんど引きこもりのように王城の奥で十年を過ごした皇族のはずだ。グレウスのような庶民は、近衛騎士でなければ名も知らないことだろう。
腑に落ちない顔をしていると、カッツェはグレウスの腕を引っ張って、さらに人気のない中庭の方へと足を向けた。
太陽の光を燦燦と浴びて、騎士団長はやっと人心地がついたようだ。
「お前だから忠告するんだが、身辺には気をつけろ」
しきりと周囲を気にしながら、カッツェは小声で話し始めた。
「十年前の選定儀式の後、すぐにでも臣籍降嫁は決まるはずだったんだ。だが名が挙がった貴族が次々と失脚して、結婚相手は気が狂ったり行方不明になったりしている。あの御方が今も城に居られるのには、そういう事情がある」
確かに言われてみれば、臣籍降嫁する皇族というのは大抵二十歳そこそこだ。除籍されながら、いつまでも城に残る皇族の話は聞いたことがない。庶民でも嫁き遅れると肩身の狭いものだが、皇族ならばなおさらだろう。
しかし、皇弟は一味違うようだ。
「降嫁先がなくなったのをいいことに、あの方は裏で貴族院の議長を抱き込んで暗躍しているという話だ。あの黒い目を見ただろう。正面からあの目を見返すと、操り人形のようになるか、気が触れておかしくなると言われている」
『黒い目』と言ったカッツェに、グレウスは首を傾げた。
謁見の間で会った時、皇弟の目の色は朝焼けのような緋色だった。
珍しい目の色ではあるが、グレウスは幼い頃にも同じ色の目を見た気がする。美しいとは思ったが、怖ろしさは感じなかった。
カッツェは見るのを怖れて視線を逸らしていたので、噂を鵜呑みにしているのだろう。
しかし冷静になって考えてみると、例え噂が出鱈目だったとしても、結婚相手として喜ばしいとは言い難い。
皇室の警護で心身ともに疲れ切って帰宅すると、家にあの皇弟殿下が待ち構えている――どう考えても、気が休まるとは思えなかった。
皇族に離縁はあり得ないので、結婚すればこの先ずっと他に妻を持つことはできない。妾などもってのほかだ。
結婚は人生の墓場という言葉があるが、まさに文字通りになりそうだ。
いつか可愛い妻を迎えて、幸せな結婚生活を送るのだという淡い夢が、完全に断ち切られることになるのだから。
やっと事態が呑み込めてきて、グレウスは青くなって上官に縋った。
「なんとか穏便にお断りは……」
「諦めろ」
答えは無情だった。
丁寧に整えた髪を掻き回しながら、騎士団長は気の毒そうに言葉を発した。
「副団長への大昇進に、侯爵位だぞ。今度こそ皇帝陛下は何が何でもあの方を降嫁させる構えだ。お前にできることは聖教会に寄付でもして、呪いにかかりませんようにと祈ることくらいだよ」
23
お気に入りに追加
712
あなたにおすすめの小説
謎の死を遂げる予定の我儘悪役令息ですが、義兄が離してくれません
柴傘
BL
ミーシャ・ルリアン、4歳。
父が連れてきた僕の義兄になる人を見た瞬間、突然前世の記憶を思い出した。
あれ、僕ってばBL小説の悪役令息じゃない?
前世での愛読書だったBL小説の悪役令息であるミーシャは、義兄である主人公を出会った頃から蛇蝎のように嫌いイジメを繰り返し最終的には謎の死を遂げる。
そんなの絶対に嫌だ!そう思ったけれど、なぜか僕は理性が非常によわよわで直ぐにキレてしまう困った体質だった。
「おまえもクビ!おまえもだ!あしたから顔をみせるなー!」
今日も今日とて理不尽な理由で使用人を解雇しまくり。けれどそんな僕を見ても、主人公はずっとニコニコしている。
「おはようミーシャ、今日も元気だね」
あまつさえ僕を抱き上げ頬擦りして、可愛い可愛いと連呼する。あれれ?お兄様、全然キャラ違くない?
義弟が色々な意味で可愛くて仕方ない溺愛執着攻め×怒りの沸点ド底辺理性よわよわショタ受け
9/2以降不定期更新
愛されない花嫁は初夜を一人で過ごす
リオール
恋愛
「俺はお前を妻と思わないし愛する事もない」
夫となったバジルはそう言って部屋を出て行った。妻となったアルビナは、初夜を一人で過ごすこととなる。
後に夫から聞かされた衝撃の事実。
アルビナは夫への復讐に、静かに心を燃やすのだった。
※シリアスです。
※ざまあが行き過ぎ・過剰だといったご意見を頂戴しております。年齢制限は設定しておりませんが、お読みになる場合は自己責任でお願い致します。
【完結】聖女が世界を呪う時
リオール
恋愛
【聖女が世界を呪う時】
国にいいように使われている聖女が、突如いわれなき罪で処刑を言い渡される
その時聖女は終わりを与える神に感謝し、自分に冷たい世界を呪う
※約一万文字のショートショートです
※他サイトでも掲載中
虐げられた落ちこぼれ令嬢は、若き天才王子様に溺愛される~才能ある姉と比べられ無能扱いされていた私ですが、前世の記憶を思い出して覚醒しました~
日之影ソラ
恋愛
異能の強さで人間としての価値が決まる世界。国内でも有数の貴族に生まれた双子は、姉は才能あふれる天才で、妹は無能力者の役立たずだった。幼いころから比べられ、虐げられてきた妹リアリスは、いつしか何にも期待しないようになった。
十五歳の誕生日に突然強大な力に目覚めたリアリスだったが、前世の記憶とこれまでの経験を経て、力を隠して平穏に生きることにする。
さらに時がたち、十七歳になったリアリスは、変わらず両親や姉からは罵倒され惨めな扱いを受けていた。それでも平穏に暮らせるならと、気にしないでいた彼女だったが、とあるパーティーで運命の出会いを果たす。
異能の大天才、第六王子に力がばれてしまったリアリス。彼女の人生はどうなってしまうのか。
【完結】結婚式当日、婚約者と姉に裏切られて惨めに捨てられた花嫁ですが
Rohdea
恋愛
結婚式の当日、花婿となる人は式には来ませんでした───
伯爵家の次女のセアラは、結婚式を控えて幸せな気持ちで過ごしていた。
しかし結婚式当日、夫になるはずの婚約者マイルズは式には現れず、
さらに同時にセアラの二歳年上の姉、シビルも行方知れずに。
どうやら、二人は駆け落ちをしたらしい。
そんな婚約者と姉の二人に裏切られ惨めに捨てられたセアラの前に現れたのは、
シビルの婚約者で、冷酷だの薄情だのと聞かされていた侯爵令息ジョエル。
身勝手に消えた姉の代わりとして、
セアラはジョエルと新たに婚約を結ぶことになってしまう。
そして一方、駆け落ちしたというマイルズとシビル。
二人の思惑は───……
王太子の愛人である傾国の美男子が正体隠して騎士団の事務方始めたところ色々追い詰められています
岩永みやび
BL
【完結】
傾国の美男子といわれるリアは、その美貌を活かして王太子殿下エドワードの愛人をやっていた。
しかし将来のためにこっそりリアムという偽名で王宮事務官として働いていたリアは、ひょんなことから近衛騎士団の事務方として働くことに。
実はまったく仕事ができないリアは、エドワードの寵愛もあいまって遅刻やらかしを重ねる日々。ついには騎士団にも悪い意味で目をつけられてしまいーー?
王太子からの溺愛に気が付かないリアが徐々に追い詰められていくお話です。
※R18はおまけ程度です。期待しないでください。不定期更新。
主人公がマジでクズです。複数人と関係持ってる描写あり。苦手な方はご注意下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる