王宮に咲くは神の花

ごいち

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最終章 神饌

ファルディアの短い夏1

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「着きましたよ」

 馬車の奥で座したままの麗人に、サラトリアは声をかけた。
 ここはウェルディリアの最北端に位置するファルディア領だ。
 上王シェイドが生母から受け継いだ領地で、冬の厳しさを除けば風光明媚で豊かな土地として知られている。
 ――とは言え、もうすでに風は冷たい。

 王都を出てきたのは秋の終わりだったが、隣接するマンデマール領あたりから雪に降られ始め、ファルディア領に入ってからは吹雪にも見舞われた。領主館の庭には既に雪が厚く積もっている。
 今は止んでいるが、出発がもう数日遅ければ馬に乗り換えねばならないところだった。
 そうなると少々厄介だっただろう。
 乗馬も一通りは習ったはずだが、今の上王に馬の旅は厳しすぎる。

「さぁ、降りますよ。それとも姫君のように抱きかかえて差し上げましょうか?」

 揶揄するように言葉を重ねると、奥の人影がやっと動いた。

 ふらふらと覚束ない足取りで、御者の手を借りながらやっとのことで馬車から降りる。
 出迎えのために並んでいた従者たちが、その姿を見て痛ましげに息を飲んだ。

「すぐに温かいものをご用意いたします。中へどうぞ」

 領地の管理を任されているターレンスは、儀式めいた歓待の挨拶を省いて主を中へと招き入れた。
 館はエレーナ妃が所有していたころの趣を残したまま改装し、上王シェイド所有の離宮となってからは青琉宮と呼ばれている。
 宮で従事する使用人たちも王室直轄の侍官が多く、王都を遠く離れた地でありながら教育は行き届いているようだ。




 上王が後ろも振り返らずに宮の中へ入っていくのを見送りながら、サラトリアは供の従者に命じて持ってきた荷物を運ばせた。そうしている間にも空は曇り、大粒の雪を降らせ始める。

 ――そうだ、もっと降り積もれ。

 白く霞む天を見上げて、サラトリアは念じた。

 長い冬を越すための準備は整えさせてある。
 後は降り積もる雪が、この宮を何者の出入りも許さぬ檻に変えてくれるだろう、と。




 サラトリアが青琉宮へ足を踏み入れるのは、これが二度目だ。
 一度目はもう何十年も昔、この館がまだ前の主の持ち物だったころだ。

 領主の寝室に入って、サラトリアは部屋の中を見回した。
 かつての領主が使っていた寝台は、今は取り換えられて二回り大きなものになっている。
 織物が盛んなファルディアらしく、見事な模様を描き出した天蓋布が二重に下ろされ、窓にも厚い掛布が下がっていた。

 暖炉を覗いたサラトリアは、火掻き棒を使って新しい薪を脇に避けた。部屋はもう十分温まっている。
 今からはむしろ少し寒いくらいの方がいいだろう。
 吊るされた鍋に持参した香草を入れると、すぐに清々しい芳香が立ち上ってきた。

 ジハード王が生涯の伴侶と定めた上王を娶った時にも、部屋を香草の香りで満たしておいたと聞いている。
 今の上王にはせめてこの薫りの慰めが必要だろう。

 と、扉の開く音がして、サラトリアはそちらを振り返った。
 この部屋の主が、やっと戻ってきたのだ。





 無言のまま佇むサラトリアに気付きもせず、部屋に入った上王は所在無げな様子で寝台に足を進めた。

 呆とした青い目は何も映しておらぬかのように見えたが、ふと寝台脇の机に置かれた品に視線が止まった。
 その後ゆっくりと室内を巡った視線は、暖炉の前に居るサラトリアのところで止まり、焦点を合わせた。

「……ッ!」

 ヒュッと喉を鳴らして、上王が足をよろめかせた。
 寝台の支柱を掴んで倒れずには済んだが、実に良い反応だ。
 笑みを浮かべながらサラトリアは歩を進める。

「こ……公爵……」

 久しぶりに聞くまともな声だった。
 怯えを浮かべた青い瞳がサラトリアの姿を映している。
 長い間、生きた人形のようになっていた上王が、やっと目を開いて状況を把握しようとしているのだ。

 だが、ろくに食べも眠りもしていない体では、肉体以上に思考力がまともに働かないのは自明の理だ。この部屋にサラトリアが居る意味を、上王はまだ理解できない。
 サラトリアはそれをわからせるために、わざとゆっくり上王に近づいた。

 青い目を何度も瞬いて、上王は自らに近づいてくる男の顔を見つめていた。

 サラトリアが目の前まで来て初めて、相手が礼服ではなく湯上りのガウン姿であることに思い至ったらしい。
 途端に上王は扉へと身を翻した。――だが、逃げるには遅すぎる。

「あぁ、ぁ……ッ」

 取っ手に手をかけた上王を、サラトリアは横抱きに抱き上げた。連れ戻す先は寝台だ。
 恐怖をあおるために、サラトリアはわざと乱暴に寝台の上に放り投げた。
 心配せずとも、王族の為に誂えられた寝台は主人の体を柔らかく受け止めたはずだ。

「!……公爵……いったい、何を……」

 投げつけられた上王は、寝台の上を後退りながら、信じがたいものを見るような視線を向けてきた。
 蛇蝎のように嫌われていたころを思い出して、サラトリアは笑みを押し隠す。いつの間にか過分な信頼を得ていたらしい。




「何を……?」

 サラトリアは眉をあげた。
 上王とともに馬車でファルディアに来るのはこれが初めてではない。
 最初にこの地にやってきたのは、上王シェイドがまだ王兄として宰相位に就いていた時期だった。

 拉致された砦で辱めを受け、死による解放だけを望んで王都から逃れてきた時だ。
 サラトリアは上王をここに連れてきて、苦しみの全てを吐き出させることで現世へと引き戻した。

 状況は今もたいして変わらない。運命の伴侶とも言うべき相手を亡くし、上王は緩慢な自死へと向かっている。
 機械仕掛けの人形のように、食事の席に着き寝床にも入るが、満足に食べも眠れもしていないのは誰の目にも明らかだった。
 ――だが、儚く消え逝こうとしている直接の原因はそれではない。

 北方のファラス神殿に伝わる神話とウェルディの建国神話。
 ヴァルダンの家に代々伝わる古文書を読み解いて編纂したのは、他ならぬサラトリアだ。
 目の前の存在が何者であるかは、誰よりも知っている。

 このまま雪のように溶けて消えそうな麗人を留めるために、何が必要とされているのかも。

「聞かねばわからぬ貴方ではないでしょう」

「……ッ!」

 遠ざかろうとするガウンの裾を掴んで、サラトリアは自分の方へと引きずり寄せた。

 はだけそうな胸元を必死で掻き寄せた両手が震えている。
 痩せて折れそうな腕から目を逸らして、サラトリアは慇懃な笑みを浮かべた。

「初めてお会いしたときから、私の心は変わりませんよ。求愛された相手と二人きりでいらしたのですから、こうなることは貴方にもわかっていたでしょう?」

「ち……違います、公爵……」

 寝台の上で幼い子どものように手足を縮めながら、上王が蒼白になって訴えた。
 ――知っている。上王はサラトリアを信じていたのだ。





 口で何と言おうとも、決して一線を超えない男。
 亡き国王への忠誠心厚く、裏切ることなど絶対にない臣下。

 指で、道具で、薬で――。
 様々な仕掛けを用いて啼かせはしても、それは憐れみや忠誠心からの行いに過ぎない。
 自らの欲望は最後まで抑え込んでくれる人物である、と。

 雪に閉ざされた牢獄に誘い込むため、サラトリアがわざとそう思わせたのだ。
 白桂宮で慰めるときにも、決して自分の欲望を悟らせはしなかった。
 しかし、ここへ連れてきた以上、もう抑える必要はない。




「言い方を変えましょうか。――貴方は庇護者を失った。誰に乱暴されても受け入れる以外ないのです。諦めて大人しくなさい」
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