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第五章 王宮の花
エレーナの旅立ち
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ファルディア領に入り領主の館に着いたのは、王都を出た夕刻から数えて八日目の朝だった。
到着したシェイドたちを沈鬱な表情の医師団が迎えた。
「昨年領地にお戻りになられてから徐々に食が細くなり、ここ数カ月はほとんど食事をお摂りになれなかったようです。非常に厳しい状況でございます」
馬を使って数日早く到着していた医師団は、エレーナを回復させようと手を尽くした様子だった。
だがついに水さえも飲めない状態になり、今はもう死を待つばかりだという。
シェイドは面会を願い出た。
館の二階、南向きの明るい部屋にエレーナの寝室があった。
憔悴した様子の侍女と入れ違いに、シェイドとサラトリアは部屋の中に入った。
大きな寝台の中には、埋もれるように一人の婦人が横たわっている。窓の外を見ていた顔がこちらを振り向き、来訪者の姿を認めて笑みを浮かべた。
「……お久しぶりですね。お元気にしていらっしゃいますか」
シェイドも少し笑いかけ、寝台の側の椅子に腰を下ろした。サラトリアが守るようにその背後に立つ。
エレーナは背の高い公爵にも視線を向けた。
「子爵も……ファルディアへ出立する日にお見送りに来てくださって以来ですね。お礼を申し上げる機会を逸しておりましたが、館を整えてくださってありがとうございます。おかげさまで不自由なく暮らせました」
「ご無礼を働いたことへの償いにもなりませんが、少しでもお役に立てたのでしたら幸甚に存じます」
エレーナの受け答えはとても病人とは思えぬほどしっかりしていた。
だが元々白い顔は青白く、頬は痩せこけ唇は渇いてひび割れている。掛物の上に出た手も骨が浮き、生きて会話できるのが不思議なほどだった。
「母上……」
シェイドは手を伸ばして、掛物の上の小さな手を握った。
夏だというのに指は冷たく、乾ききってまるで枯れ木のようだった。
ここへ来るまで、エレーナの危篤の知らせはシェイドにとって王都を抜けるための口実に過ぎなかった。
最後の手紙を受け取ってからも相応の日にちが経過している。到着する前に命が尽きていても仕方がないと、どこか冷めた気持ちで考えていた。
だがこうやって死にゆく母親を目の当たりにすると、生きているうちに会うことが出来て良かったと心から思う。
エレーナは儚い笑みを浮かべた。
「……貴方に母と呼んでもらう資格は、私にはありません。けれど、私たちは確かに血の繋がった親と子のようですね……」
細い指先が少しやつれたシェイドの頬へ伸ばされた。
白い肌と青い瞳、色のない白金髪。
だがエレーナが言っているのは外見の事ではなかっただろう。痩せて生気の乏しい息子の姿に、彼女は自分と同じものを見出したのに違いない。
「後を追うつもりはないのです。でも、ベレス様は私の全てでしたから……あの方のいない世界でどうやって生きて行けばいいのかがわからない……。何のために毎朝眠りから目覚めるのか、その意味を見出せなくて……」
愛しい相手を喪った世界は色褪せ、エレーナにとって何の意味も持たなくなってしまった。
どうして朝になると目覚めるのか。寝台から起きて食事を摂り、体を動かすのは何のためか。
無事を祈る相手はもういないというのに、どうして自分はここに生きているのか。
言葉通り、エレーナにとってベレスは彼女の全てだったのだろう。生家が没落し、幼い北方娼婦として娼館に売られた彼女を救い出したのは、行幸中のベレスだった。
ベレスは北方人の彼女を妾妃として迎え、後宮に居場所を与えた。
親子ほども年の離れた彼女が一人残されても生きていけるよう、治めるべき領地も与えた。
エレーナはベレスに愛され、ずっとベレスの為だけに生きていた。
宮廷の華やぎも領地の民の幸福も、エレーナには何の意味も持たない。
たった一人の血を分けた息子さえ、彼女の生きる意味にはなり得ないのだ。
「……ベレス様のお話を聞かせてくださいませんか。私は父上の事をほとんど何も知らずにきましたから」
これが最期の会話となる母親に、シェイドは乞うた。
シェイドにとってベレスは、側近くに仕えていた時も『国王』でしかなかった。
心許した愛妾の前で、ベレスはどのような人間であったのか。人として、父としてのベレスをシェイドは知りたかった。
「そう……では何から話しましょうか。思い出がたくさんありすぎて……」
微笑みを浮かべながら、エレーナは途切れ途切れに話し始めた。
穏やかな時間が過ぎた。
時折は昔を懐かしむように、時折は幸せを噛み締めるように、エレーナは胸に大切にしまっておいた思い出をシェイドに語った。
やがてその声が間遠になり、部屋には静寂が下りた。
呼吸が徐々に小さくなっていく。
弱々しくなったそれが消えてしまうまで、シェイドとサラトリアは部屋を離れなかった。
半日ほど昏睡した後、彼女は唯一の肉親に見守られながら、波乱に満ちた生涯に幕を下ろした。
到着したシェイドたちを沈鬱な表情の医師団が迎えた。
「昨年領地にお戻りになられてから徐々に食が細くなり、ここ数カ月はほとんど食事をお摂りになれなかったようです。非常に厳しい状況でございます」
馬を使って数日早く到着していた医師団は、エレーナを回復させようと手を尽くした様子だった。
だがついに水さえも飲めない状態になり、今はもう死を待つばかりだという。
シェイドは面会を願い出た。
館の二階、南向きの明るい部屋にエレーナの寝室があった。
憔悴した様子の侍女と入れ違いに、シェイドとサラトリアは部屋の中に入った。
大きな寝台の中には、埋もれるように一人の婦人が横たわっている。窓の外を見ていた顔がこちらを振り向き、来訪者の姿を認めて笑みを浮かべた。
「……お久しぶりですね。お元気にしていらっしゃいますか」
シェイドも少し笑いかけ、寝台の側の椅子に腰を下ろした。サラトリアが守るようにその背後に立つ。
エレーナは背の高い公爵にも視線を向けた。
「子爵も……ファルディアへ出立する日にお見送りに来てくださって以来ですね。お礼を申し上げる機会を逸しておりましたが、館を整えてくださってありがとうございます。おかげさまで不自由なく暮らせました」
「ご無礼を働いたことへの償いにもなりませんが、少しでもお役に立てたのでしたら幸甚に存じます」
エレーナの受け答えはとても病人とは思えぬほどしっかりしていた。
だが元々白い顔は青白く、頬は痩せこけ唇は渇いてひび割れている。掛物の上に出た手も骨が浮き、生きて会話できるのが不思議なほどだった。
「母上……」
シェイドは手を伸ばして、掛物の上の小さな手を握った。
夏だというのに指は冷たく、乾ききってまるで枯れ木のようだった。
ここへ来るまで、エレーナの危篤の知らせはシェイドにとって王都を抜けるための口実に過ぎなかった。
最後の手紙を受け取ってからも相応の日にちが経過している。到着する前に命が尽きていても仕方がないと、どこか冷めた気持ちで考えていた。
だがこうやって死にゆく母親を目の当たりにすると、生きているうちに会うことが出来て良かったと心から思う。
エレーナは儚い笑みを浮かべた。
「……貴方に母と呼んでもらう資格は、私にはありません。けれど、私たちは確かに血の繋がった親と子のようですね……」
細い指先が少しやつれたシェイドの頬へ伸ばされた。
白い肌と青い瞳、色のない白金髪。
だがエレーナが言っているのは外見の事ではなかっただろう。痩せて生気の乏しい息子の姿に、彼女は自分と同じものを見出したのに違いない。
「後を追うつもりはないのです。でも、ベレス様は私の全てでしたから……あの方のいない世界でどうやって生きて行けばいいのかがわからない……。何のために毎朝眠りから目覚めるのか、その意味を見出せなくて……」
愛しい相手を喪った世界は色褪せ、エレーナにとって何の意味も持たなくなってしまった。
どうして朝になると目覚めるのか。寝台から起きて食事を摂り、体を動かすのは何のためか。
無事を祈る相手はもういないというのに、どうして自分はここに生きているのか。
言葉通り、エレーナにとってベレスは彼女の全てだったのだろう。生家が没落し、幼い北方娼婦として娼館に売られた彼女を救い出したのは、行幸中のベレスだった。
ベレスは北方人の彼女を妾妃として迎え、後宮に居場所を与えた。
親子ほども年の離れた彼女が一人残されても生きていけるよう、治めるべき領地も与えた。
エレーナはベレスに愛され、ずっとベレスの為だけに生きていた。
宮廷の華やぎも領地の民の幸福も、エレーナには何の意味も持たない。
たった一人の血を分けた息子さえ、彼女の生きる意味にはなり得ないのだ。
「……ベレス様のお話を聞かせてくださいませんか。私は父上の事をほとんど何も知らずにきましたから」
これが最期の会話となる母親に、シェイドは乞うた。
シェイドにとってベレスは、側近くに仕えていた時も『国王』でしかなかった。
心許した愛妾の前で、ベレスはどのような人間であったのか。人として、父としてのベレスをシェイドは知りたかった。
「そう……では何から話しましょうか。思い出がたくさんありすぎて……」
微笑みを浮かべながら、エレーナは途切れ途切れに話し始めた。
穏やかな時間が過ぎた。
時折は昔を懐かしむように、時折は幸せを噛み締めるように、エレーナは胸に大切にしまっておいた思い出をシェイドに語った。
やがてその声が間遠になり、部屋には静寂が下りた。
呼吸が徐々に小さくなっていく。
弱々しくなったそれが消えてしまうまで、シェイドとサラトリアは部屋を離れなかった。
半日ほど昏睡した後、彼女は唯一の肉親に見守られながら、波乱に満ちた生涯に幕を下ろした。
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