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第五章 王宮の花
フィオナ
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書き終えた手紙に砂を振りかけて、インクが乾くのを待つ間、シェイドは書斎の窓から覗く青々と茂った木々の葉に目をやった。
初めてここへ連れてこられたのは真冬の頃だった。すべての窓には鎧戸が嵌められ、冷気を遮る厚い帳が下ろされていた。
外の景色を眺めることもできず、奥宮殿へと通じる扉には鍵が掛けられ、まるで牢獄だったのだと、今ならば思う。
冬の間中ずっと、シェイドはジハードに所有されていた。
一人でいられたのは、朝早い時間に浴室で前夜の汚れを流す時くらいではないだろうか。ジハードは政務の合間を縫ってたびたび白桂宮に戻って来ては、昼でも夕刻でも構わずシェイドを所有した。
食事の席がそのまま戯れの場に変わり、従者たちが視線を交し合って出ていったことも数え切れないほどあった。
夜眠る時もジハードの腕の中なら、その腕に抱かれて見る夢の中でさえ、ジハードはシェイドを激しく征服し、片時も離してはくれなかった。
苦しくて、逃れたくて――。いつ解放されるのかと、指折り数えた夜明けもある。
あの頃は、冬が終わる前に解放されるのだと信じていたから、この宮の中庭が青々と葉をつけた光景を見ることになるとは想像もしなかった。
日ごと夜ごとの抱擁。温かい腕に抱かれて眠ることが心地よいのだと知ったのは、いつの頃だっただろう。
飽かず囁かれる睦言が、まるで子守歌のように聞こえるようになったのは……。
ミスルへの旅路で、シェイドは生まれて初めて愛されることを理解し、自らもまた誰かを愛することができるのだと知った。だがそれを知ったのは、愛を失う悲しみと同時だった。
もっと早くに気付いていれば、何かが変わっていたのだろうか。
書斎の扉が叩かれ、シェイドはハッとなって物思いから立ち戻った。
返事をしながら、広げたままだった手紙を手早く畳む。それを本の間に挟んで、シェイドは来客を告げるフラウに入室の許しを与えた。
入ってきたのはまだ若い小柄な女性だ。
「……ご機嫌よう、フィオナ様」
「ご機嫌よう、王兄殿下!」
溌溂とした声とともに入ってきたのは、このほど国王の奥侍女に迎えられたフィオナ・ヴァルダンだ。
国王の右腕と目される若き公爵が王宮に送り込んできたのは、蜂蜜色の髪と榛色の瞳を持つ少女だった。
「父から、王兄殿下にお使いいただければと、こちらを預かって参りました」
彼女は一抱えもある大きな包みを両手に抱えたまま礼を取ると、弾むような足取りでシェイドの前にやってきた。
サラトリアの養女となったフィオナは、元々はヴァルダン縁戚筋の地方領主の娘だ。
貴族とは名ばかりの平民とほとんど変わらぬ生活を送ってきたためか、性格は純朴で率直。それに、いかにも健康そうだった。
大きな荷物を自分で運ぶなどというのは、淑女のすることではないが、フラウの顔つきからすると侍従たちの手伝いは断られたのだろう。
「乗馬用の一式だと聞いております。今ここで開けてもよろしいでしょうか」
大きな明るい色の瞳に物怖じもせず見つめられ、シェイドはその視線から逃れるように、頭から被った大振りのベールをそっと掻き寄せる。
期待に満ちた表情を見ると、とても駄目だなどと言い出せそうにもない。
シェイドは仕方なしに頷いていた。
あどけなさの残る十五歳の少女は、まるで自分が豪華な贈り物を受け取ったかのように嬉しそうだ。目を輝かせて包みを解き始める。宮廷の礼法に染まりきらない素朴さが、余人を寄せ付けない性質のシェイドでさえ調子を狂わされる。
包みを開けたフィオナから歓声が上がった。
「わぁ……素敵!」
中から現れた衣装に、シェイドも同意を示さざるを得なかった。
落ち着いた深みのある青に、ところどころ白と金を配置した見事な乗馬服だ。緩やかな曲線を描くラインは、かっちりとした男物とも華美な女物とも違って、柔らかな品の良さがあった。ウェルディスの紋章を模した刺繍や地模様にも品格がある。
一目見ただけで、職人が手間と材を惜しまず作った上質なものだということが分かった。
揃いの手袋や帽子、従者が運んだ別の包みには革の長靴もある。
それらを一つずつ開けては、輝くような顔で振り返る少女に、シェイドは僅かに口角を上げて頷いて見せた。
あの策謀家のサラトリアが、北方人風の田舎娘を養女にまで迎えたのはこの明るさだろう。
作法にうるさい宮廷人には眉を顰められるだろうが、曇りのない声と表情は回りにいる者の気持ちをも明るくさせる。ジハードが負った心の傷も、彼女が側に居れば直ぐに癒されるはずだ。
「長靴もいい革を使っています。履き心地をお試しになられませんか?」
靴底まで検分して、フィオナはシェイドの前に乗馬用の長靴を揃えて置いた。だがシェイドは軽く首を振って、それを脇に退けた。フィオナは不満そうに言葉を続ける。
「陛下の誕生祭がもう来月ですね。今年は王兄殿下も騎乗して大神殿まで赴かれるのでしょう。良い機会ですから、少し体を慣らしに王宮の馬場まで行かれませんか」
「……いいえ、今度にしましょう」
期待に満ちた視線から、シェイドは目を逸らした。
サラトリアの意図もフィオナの気遣いもわかっているが、シェイドには必要ないものだ。
なぜなら誕生祭の頃には、シェイドはこの王都からは姿を消しているのだから。
初めてここへ連れてこられたのは真冬の頃だった。すべての窓には鎧戸が嵌められ、冷気を遮る厚い帳が下ろされていた。
外の景色を眺めることもできず、奥宮殿へと通じる扉には鍵が掛けられ、まるで牢獄だったのだと、今ならば思う。
冬の間中ずっと、シェイドはジハードに所有されていた。
一人でいられたのは、朝早い時間に浴室で前夜の汚れを流す時くらいではないだろうか。ジハードは政務の合間を縫ってたびたび白桂宮に戻って来ては、昼でも夕刻でも構わずシェイドを所有した。
食事の席がそのまま戯れの場に変わり、従者たちが視線を交し合って出ていったことも数え切れないほどあった。
夜眠る時もジハードの腕の中なら、その腕に抱かれて見る夢の中でさえ、ジハードはシェイドを激しく征服し、片時も離してはくれなかった。
苦しくて、逃れたくて――。いつ解放されるのかと、指折り数えた夜明けもある。
あの頃は、冬が終わる前に解放されるのだと信じていたから、この宮の中庭が青々と葉をつけた光景を見ることになるとは想像もしなかった。
日ごと夜ごとの抱擁。温かい腕に抱かれて眠ることが心地よいのだと知ったのは、いつの頃だっただろう。
飽かず囁かれる睦言が、まるで子守歌のように聞こえるようになったのは……。
ミスルへの旅路で、シェイドは生まれて初めて愛されることを理解し、自らもまた誰かを愛することができるのだと知った。だがそれを知ったのは、愛を失う悲しみと同時だった。
もっと早くに気付いていれば、何かが変わっていたのだろうか。
書斎の扉が叩かれ、シェイドはハッとなって物思いから立ち戻った。
返事をしながら、広げたままだった手紙を手早く畳む。それを本の間に挟んで、シェイドは来客を告げるフラウに入室の許しを与えた。
入ってきたのはまだ若い小柄な女性だ。
「……ご機嫌よう、フィオナ様」
「ご機嫌よう、王兄殿下!」
溌溂とした声とともに入ってきたのは、このほど国王の奥侍女に迎えられたフィオナ・ヴァルダンだ。
国王の右腕と目される若き公爵が王宮に送り込んできたのは、蜂蜜色の髪と榛色の瞳を持つ少女だった。
「父から、王兄殿下にお使いいただければと、こちらを預かって参りました」
彼女は一抱えもある大きな包みを両手に抱えたまま礼を取ると、弾むような足取りでシェイドの前にやってきた。
サラトリアの養女となったフィオナは、元々はヴァルダン縁戚筋の地方領主の娘だ。
貴族とは名ばかりの平民とほとんど変わらぬ生活を送ってきたためか、性格は純朴で率直。それに、いかにも健康そうだった。
大きな荷物を自分で運ぶなどというのは、淑女のすることではないが、フラウの顔つきからすると侍従たちの手伝いは断られたのだろう。
「乗馬用の一式だと聞いております。今ここで開けてもよろしいでしょうか」
大きな明るい色の瞳に物怖じもせず見つめられ、シェイドはその視線から逃れるように、頭から被った大振りのベールをそっと掻き寄せる。
期待に満ちた表情を見ると、とても駄目だなどと言い出せそうにもない。
シェイドは仕方なしに頷いていた。
あどけなさの残る十五歳の少女は、まるで自分が豪華な贈り物を受け取ったかのように嬉しそうだ。目を輝かせて包みを解き始める。宮廷の礼法に染まりきらない素朴さが、余人を寄せ付けない性質のシェイドでさえ調子を狂わされる。
包みを開けたフィオナから歓声が上がった。
「わぁ……素敵!」
中から現れた衣装に、シェイドも同意を示さざるを得なかった。
落ち着いた深みのある青に、ところどころ白と金を配置した見事な乗馬服だ。緩やかな曲線を描くラインは、かっちりとした男物とも華美な女物とも違って、柔らかな品の良さがあった。ウェルディスの紋章を模した刺繍や地模様にも品格がある。
一目見ただけで、職人が手間と材を惜しまず作った上質なものだということが分かった。
揃いの手袋や帽子、従者が運んだ別の包みには革の長靴もある。
それらを一つずつ開けては、輝くような顔で振り返る少女に、シェイドは僅かに口角を上げて頷いて見せた。
あの策謀家のサラトリアが、北方人風の田舎娘を養女にまで迎えたのはこの明るさだろう。
作法にうるさい宮廷人には眉を顰められるだろうが、曇りのない声と表情は回りにいる者の気持ちをも明るくさせる。ジハードが負った心の傷も、彼女が側に居れば直ぐに癒されるはずだ。
「長靴もいい革を使っています。履き心地をお試しになられませんか?」
靴底まで検分して、フィオナはシェイドの前に乗馬用の長靴を揃えて置いた。だがシェイドは軽く首を振って、それを脇に退けた。フィオナは不満そうに言葉を続ける。
「陛下の誕生祭がもう来月ですね。今年は王兄殿下も騎乗して大神殿まで赴かれるのでしょう。良い機会ですから、少し体を慣らしに王宮の馬場まで行かれませんか」
「……いいえ、今度にしましょう」
期待に満ちた視線から、シェイドは目を逸らした。
サラトリアの意図もフィオナの気遣いもわかっているが、シェイドには必要ないものだ。
なぜなら誕生祭の頃には、シェイドはこの王都からは姿を消しているのだから。
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