王宮に咲くは神の花

ごいち

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第五章 王宮の花

砦への帰還

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 走り続けていた馬車が停まった。
 並走していた騎馬隊が馬の足を止めさせ、騎士たちが一斉に下馬する音が聞こえる。馬車の中でシェイドは静かに息を吐いた。――外に出なければならない。

 馬車の扉が四つ叩かれる。シェイドは狭い座席から身を起こし、扉の前に立った。顔を上げて前を見据える。
 許可を求める声に応えると、扉はゆっくりと外から開かれた。





 扉の正面には国王ジハードが立っていた。

 王としての威厳は損われていないが、その顔には疲労が色濃く滲み、表情は痛みを耐えているかのように固い。
 それを目にするのが辛くて、シェイドはあえて遠くを見つめた。高台に停めた馬車からは、城壁の向こうに傾いていく夕日が見えた。

「足元にお気をつけください」

 扉のすぐ横に立った将校が支えとなるよう手を差し出していた。中肉中背の、これと言った特徴のない壮年の男だが、見覚えがある。
 サラトリアが奥侍従として王太子宮へ入る夜に、ともに宮に入る側仕えの従者として、控えの間に居た一人だ。
 確か坑道の中では軽冑を身に着けて、ジハードの後ろに従っていたはずだ。籠手は血と泥に汚れ、頬には返り血を浴びている。

 見渡せば、砦の前庭を埋め尽くす騎士たちは、どの顔も泥や土埃に汚れていた。返り血を浴びた者は勿論、中には負傷して軍服を赤黒く染めている者もいる。
 重傷を負ったものは現地に残って手当てを受けていたので、ここにいるのは無傷のものか軽傷者だけだ。
 無数の目が馬車の入り口に立つシェイドを食い入るように見つめていた。

 死地を潜り抜けた騎士たちの視線は厳しい。
 彼らは王兄を助けるために命を賭し、馬車の中の相手がそれに見合う人物であったかどうか見定めようとしているように感じられた。
 死に損なったことを悔いていても、今はそれを見せるべき時ではない。

「……逆賊から助け出してくれたことに感謝します。勇猛に戦い負傷した者たちを、よく労ってやってください」

 シェイドは手を差し出して待つ将校に、王兄として言葉をかけた。無表情だった男の顔に、虚を突かれたような感情の揺らぎが浮かび上がる。
 だがそれは一瞬のことで、男は直ぐに元の無表情に戻って深々と頭を下げた。

「お褒めの言葉をいただき、光栄に存じます」

 それに軽く頷き、シェイドは顔を上げて馬車を降りた。
 砦の入り口からはドルゴ・グスタフが走ってくる。足を踏み出すと眩暈のようなものを感じたが、それを堪えて歩き出した。

 体中が痛み、膝には力が入らない。けれどここで無様を晒せば、尊い血を持つ王族のために戦った者たちが報われず、ひいては戦いを命じた国王への不信に繋がりかねない。
 今は王兄の身分に相応しい立ち居振る舞いをしなくてはならないときだった。





 ドルゴに案内されたのは、往路にも休息の場所として提供された貴賓用の一室だった。
 フラウに促されるまま長椅子に腰を下ろすと一気に体の力が抜けてしまい、そのまま椅子の上に倒れ込みそうになる。
 身も心もどうしようもないほど疲れていて、いっそ永遠に眠ってしまいたいと願ったが、まだそうはいかないようだった。

「シェイド……」

 戸惑いを隠しきれない様子で、ジハードが長椅子の端に腰を下ろした。
 二人の間にできた人ひとり分の空間を、シェイドは悲しい気持ちで見つめる。

 エスタート旧砦から移動するときに馬車への同乗を拒んで以来、ジハードはシェイドにどう接すればいいのかわからないようだった。
 かつてなら迷いもなく肩を抱き寄せただろうに、今は傍に寄り添って座ることさえ出来ない。衝動のまま誤って手を触れてしまわぬよう、膝の上で拳を握りしめているのが見えた。

 腫れ物に触れるような、遠慮がちな声でジハードが言った。

「……少し早いが、今日はこのまま一晩休もう。お前の体調に問題がなければ明日出立しようと思うが、どこか具合の悪いところはないか」

 思わず涙が滲みそうになって、シェイドはそれを堪えるために眉を寄せた。

 以前この砦にやってきた日が、今ではもう何年も前の事のように思える。
 王都ハルハーンを馬車で出立し、この砦で短い休息を取った時、シェイドの胸は悲しみで圧し潰されそうだった。
 どうしてこんなに心が苦しく、涙が溢れて止まらないのだろうと不思議だったが、今ならばその理由がわかる。

 ジハードに惹かれていたからこそ、一言もなく放り出されたことが悲しくて寂しくて仕方がなかったのだ。
 それゆえに、夜風の冷たさを纏ったままのジハードがこの部屋の扉を開けて駆け寄ってきたとき、言葉にできないほど嬉しかった。

 抱き合ってジハードの鼓動に包まれれば、胸の内が温かい思いで満たされる。永遠にこうして抱かれていたいとも思った。
 この王のために全てを捧げようと思ったのは、臣下としての忠誠心からではない。
 ジハードの情愛で心が満たされ、幸福を知ったからだ。

 それが、今はなんという違いだろう。
 たった半月ほどの間に、ジハードが側に居ることをこれほど辛く思うようになるとは。





「……王都へは、戻りません」

 自らの決意を確かめるように、シェイドは低い声ではっきりと口にした。

「ハルハーンへは、陛下お一人でお戻りください。私は戻りません」

「……シェイド……」

 ジハードの声が震えたのが分かったが、シェイドはそちらを見なかった。見れば決意が鈍ってしまう。
 砦で穢されたことを知られたくない。胸に奴隷の証がついているのを見られたくない。
 国王の側にはもういられない。どこかに隠遁し、忘れ去られた頃静かに消えなければ。
 それ以外にもう道は残されていない。

「駄目だ、シェイド。お前が戻らないというなら、俺もここにいる。お前がなんと言おうと、俺はお前を置いていかない。……絶対にだ」

 幾分身を乗り出して、ジハードが言い募った。
 どこかで聞いたような問答だ。シェイドはそれを思い出し、苦く笑った。
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