王宮に咲くは神の花

ごいち

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第四章 三人目のハル・ウェルディス

復讐の老将軍

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 何か食べるものを取ってくると言って、ラナダーンは部屋を後にした。
 シェイドはゆっくりと寝台から身を起こすと、掛布を巻き付けて注意深く立ち上がった。歩くと足が震えてしまい体の芯が痛んだが、動けなくはない。

 この感覚は既知のものだった。半年以上前の嵐の夜に王太子だったジハードに破瓜された時と同じものだ。ならば耐えられる。

 解放された窓にゆっくりと近寄り、全身に朝の風を受けた。
 冷たい清冽な風が心地いい。肩の高さで切られた髪が風に舞って頬を叩くのも、自由で身軽な気分だ。
 眠っている間にラナダーンが丁寧に清めてくれたらしく、肌はさらりとしていて、風を受けると仄かに乳香が香るのも気持ちよかった。

 窓からは城壁の上端と、雲一つない空が見えた。ここはラナダーンが使っている部屋のようだ。

 身を乗り出すと、国王が居たはずの塔が見えた。
 シェイドはジハードが無事救出されたことを確信していた。そうでなければ、ラナダーンが何もかも悟り切った様子で昔語りをするはずがないからだ。
 野望が潰えたからこそ、あれほど穏やかな様子で語り合うことができたのだ。

 先程から城壁の向こうに大勢の軍馬の気配がする。ここから確かめることはできないが、逆賊を殲滅するための軍が攻め上がってきたのに違いない。――この砦はもうすぐ陥落し、地上から跡形もなく消えるだろう。

 窓枠に凭れてその瞬間を待っていたシェイドは、扉の開く音に顔を振り向かせた。
 足音でラナダーンでないということは分かっていた。
 そこにいたのは、老いた一人の元将軍だった。





「……ともに来ていただこう。城壁の外に国王の軍が来ている」

 言葉遣いは幾分丁寧だった。見覚えのある上着とズボンが投げられる。ここへ連れてこられた日に奪われていたものだ。
 それを確かめたシェイドは、視線で射竦めるように、力を込めた強い目で老人を見据えた。

「行ってどうせよと?」

 低く落ち着いた声が出た。老人の顔に皮肉そうな笑みが浮かんだ。

「国王は、貴方の身柄を無事引き渡せば、罪を一等減じて斬首を免じるとの仰せだ。……随分うまく誑かしたものだ。逆賊の首を免じるとまで言わせるのだからな」

「――けれど、貴方は私の身を無事引き渡す気などないでしょう」

 静かな断言に、老人の顔から嘲るような笑みが消えた。
 金泥を含んだ青い瞳が、老人の視線を捕らえた。

「貴方は私の存在が許せない。ラナダーンが目と髪の色を理由に玉座から遠ざけられたというのに、北方の姿を持つ私が王位継承者として認められた。それは貴方にとって何よりひどい王家からの裏切りだったはずです。……貴方は決して、誇りを捨てて王に命乞いなどしない。私を殺して、その死体を国王軍の上に投げ落とすつもりでいるのでしょう」

 朗々としたシェイドの言葉に操られるように、老人は一つ大きな息を吐いた。
 ――そうだ、そうすべきだ、と。

 今し方まで胸に燻っていた迷いが晴れていく。生きてさえいれば再起の目があるなどという甘い考えは、持つべきではないのだ。
 先王ベレスに老人はすべてを捧げた。身を賭して国境を守り、大切に育てた娘を差し出し、そのために長年側に置いた愛妾さえこの手にかけた。
 そこまでして得た長子を、王は我が子として迎えることなく崩御した。マクセルが捧げたものを、王はついに顧みなかったのだ。

 最後まで北方訛りが抜けなかった不器用な女は、国母となるべき娘が卑しい血を引くと知れてはならぬと告げたマクセルに、笑みを浮かべて死んでいったではないか。儚げな笑みを浮かべる女だった。
 名すら刻まなかった墓標に向かって、今更お前の死は無意味だったなどと言えるはずがない。





 ラナダーンが王位に就くという夢がただの妄執に過ぎないことは分かっていた。
 それでも強行したのは、これが復讐だったからだ。
 不遇の兄がいたことを知りもせず安穏と玉座に座るジハードと、長子の存在を秘したまま世を去ったベレス王への。

 しかし王位を得ることは叶わなかったが、復讐ならばまだ為せる。
 北方人の姿を持ちながら王族に迎えられた庶子に、家畜よりも惨めな死を与えることこそが、今の自分に為せる最大の復讐ではないか。

「……恨むなら、ベレス王を恨め」

 目を座らせて近づいてくる老将軍を、シェイドは静謐な表情で迎えた。
 軽く顎を上げて首を差し出せば、皺深い手が吸い込まれるように絡みつく。声が出なくなる前に、シェイドは老人に告げた。

「貴方は私を恨みなさい。王家への憎しみは、残らず私、に……!」

 言い終える前に指が喉に食い込んだ。老人とも思えぬ強い力だった。
 恨みと憎しみの全てを籠めて、骨ばった指が気道を扼し首を絞めあげる。――それでいいのだと、シェイドは思った。

 死んで死体が投げ落とされれば、ジハードは城攻めを躊躇する必要がなくなる。
 情けに心を惑わされることもなく、反逆者どもを一人残らず殺し尽くすだろう。

 ラナダーンとマクセル、アリア。シェイドがここでどのような扱いを受けたかを知る兵士たち。
 彼らはただ一人として戦禍を生き延びることはない。全てを闇の中に葬り去るには、もうこれしか方法がないのだ。

 ……ジハード……。

 シェイドは神の後継たる王の姿を脳裏に描いた。
 あの腕に抱かれ、熱く想いを告げられた時の事だけを覚えておきたい。
 あれほど気高く雄々しい青年に、確かに愛された瞬間があった。そして人を想う気持ちなど持たなかった自分が、確かに誰かを欲し、何と引き換えにしてでも手に入れたいとまで願った瞬間があった。
 ――それだけで、この世界に生を受けた理由には十分だ。

 後はただ、安らかな死の闇の中へ沈み込むだけ――。





 だが、意識が遠のくより早く、喉を絞める手は離れて行った。
 噎せながら目を開けたシェイドの前で、大柄な老人の身体が宙に浮き、風に舞い散る木の葉のように床に叩きつけられた。
 首があらぬ方に捻じ曲がり、無念を湛えた双眸が光を失っていく。あっという間の出来事だった。

「……ニコ」

 そこに立っていた無口な巨人を、シェイドは見上げた。
 主君であるはずのマクセルを表情一つ変えずに葬り去った大男は、掴んでいた体を静かに床に置くと、岩のような巨躯を小さく縮めた。
 シェイドの前に膝をつき、床に着きそうなほど頭を下げて掛布の端を両手で取る。
 その口から、思いもかけない言葉が紡がれた。




「――俺に望みをおっしゃってください。ファラスの御使い……」

 ニコは神に恭順を誓うかのように、恭しく布に口づけした。
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