王宮に咲くは神の花

ごいち

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第四章 三人目のハル・ウェルディス

月のない夜

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 微かな異音に、ジハードは目を開いた。
 今夜は月も姿を現さないらしく、灯りを消された塔の一室は暗闇に包まれている。最後に夜回りの兵が覗き窓を確認に来てから随分になるから、もう真夜中のはずだ。

 身体は動かずに目を開き、唯一の出入り口である扉を見つめる。
 窓の格子から差し込む弱い星の光でも、夜目の利くジハードには辺りを知るには十分だった。――と、音も立てずに木の扉が薄く開いた。

 ジハードは一瞬の躊躇もしなかった。隣で眠る女の顔を掴み、呻き声を上げる暇さえ与えず思い切り捻じ曲げる。
 骨が砕ける鈍い音と、腕に伝わる末期の痙攣。それらが敵兵に知られぬよう、上から圧し掛かって封じながら、ジハードは中に滑り込んできた人影を確認した。

「……ノイアート」

 ジハードは囁くような小声で足音も立てずに近づいてきた相手の名を呼んだ。
 ベラード領兵の装備を身に着けているが、独特の隙のない歩き方と背格好はヴァルダンの私兵部隊の一つを預かる将校のものだった。偵察などの隠密行動を主体とする部隊の長で、かつて父王ベレスの弑逆を計画した時もサラトリア付きの世話係を装って王宮入りした男だ。

 ノイアートは無言のまま腰に結び付けてきた袋をジハードに差し出した。中身はベラード兵の外套だった。
 捕らえられた時のままのシャツの上にそれを羽織り、腰にノイアートが差し出した剣を吊るす。
 何時まで幽閉されていても、敵に屈するつもりは微塵もなかったが、いざ脱出となるとさすがに気分が高揚した。

「シェイド・ハル・ウェルディスはどうした。俺とともに捕らえられた北方風の――」

 金具が当たって音を立てぬよう剣帯を押さえ、あたりの気配を伺いながらジハードは尋ねた。
 浅黒い顔をした壮年の将校は口の前に指を立てる仕草をし、懐から小さな布の包みを取り出した。

「……これをお預かりしております」

 闇の中に溶け込むような、聞き取りづらい低い声だった。
 ジハードが布を開くと、幽かな星明かりにも煌めく白金の髪が一束現れる。シェイドのものに間違いない。
 どうやら先に助け出されたようだが、それにしてもあの見事な髪を僅かとはいえ断ち切るとは何者の仕業だろうか――。そんな憤りを抑えながら、布の包みを懐に仕舞い込む。
 後は一言も発さず、意識を脱出することに集中した。

 寝台を振り返り、まずはアリアが完全に息絶えていることを確かめる。
 ジハードを助ける見返りにと、王妃の座と世継ぎの王子の母の座を要求してきた女だ。万が一にでも生きていて、その腹に子が宿りでもしていた日には悔やんでも悔やみきれるものではない。
 だが虚栄心ばかりが肥大した愚かな女は、醜い死に顔を晒して屍となっていた。発見までの時間を稼ぐために、ジハードはその骸を掛け布で覆って、眠っている風を装った。

 ノイアートの合図に従って、ジハードは大きな猫科の獣のように気配を殺し、塔の一室を後にした。
 扉を出たところには二人分の領兵の死体が転がっていた。ノイアートの部下はその死体を壁に凭れさせ、地面に座り込んで眠っている姿勢を取らせている。
 一つ下の階に降りると、そこは領兵の詰め所になっていたようだが、生きて動いているのはベラード兵に偽装したヴァルダン兵だけだ。ジハードの姿を認めると、視線を交し合うことさえなく合流してくる。
 見張りの兵たちは寝台の中に横たえられ、眠っているように見せかけられていた。

 まるで塔の警備を知り尽くしていたような、怖ろしいほどの手際の良さだった。
 各階で退路を確保していた部下が合流すると、塔の出口をくぐる時には総勢で十名ほどになった。たったこれだけの人数で国王を救出するために敵陣に侵入してきたのだ。この作戦を決めた者も、実行する者も、驚くべき胆力の持ち主だと言わざるを得ない。





 ジハードたちは夜回りの兵に怪しまれないために、数人ずつに分かれて塔を出ることになった。先発隊が見回り兵を装った落ち着いた様子で先に進んでいくのを確認し、ノイアートと部下がジハードを中央に隠すようにして塔を出る。少し離れて最後の数人が殿を守るように後ろについた。
 怪しまれればこの人数で交戦しなければならない。
 平静を装う兵たちは緊張感に包まれていたが、城壁に囲まれた砦の中庭には人の気配がなかった。

 今夜は宵の口の時間帯に宿舎の方から少しばかり騒がしい気配が感じられたが、それもすっかり止んだようだ。砦の中は誰も彼もが死に絶えたか、ぐっすりと眠りを貪っているかのようにやたらと静かだった。

 無人の庭を落ち着いた足取りで進む。
 やがて山と城壁との境の場所に辿り着くと、目立たぬ場所の垣根が一部朽ち果て、山の中へ獣道が続いているのが見えた。どうやらここから侵入してきたらしい。
 背後を警戒しながら、人ひとり進むのがやっとの狭く険しい道を這うように進んでいく。
 山中に迷い込みそうだと思ったが、山に慣れたものが先導しているらしく、やがて反対側の平野に出た。地図の上では角のように突出していた峠を一つ横断したことになるようだ。
 山裾には物音を立てぬようにハミと蹄に布を巻かれた馬が待っていた。

 山向こうの空は薄く白み始めている。夜明けまでは後僅かだ。
 追跡を逃れるためには、少しでも暗いうちに一気に駆け抜ける必要がある。
 馬に巻いた布を外し、男たちが鞍に跨った。ジハードに用意されたのは伸びやかな四肢を持つ黒い駿馬だ。

「――ミスル離宮へ!」

 ノイアートが低く宣言した。鬨の声を上げることもなく、男たちは馬の腹を蹴る。
 ジハードも馬を駆けさせるべく、外套を体に巻き付け、身を倒した。

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