王宮に咲くは神の花

ごいち

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第一章 嵐の夜

国王弑逆

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 しばらく進み始めたところで、シェイドは奥宮殿を警備する兵士が異様に少ないことに気がついた。
 侍従をしていた頃には回廊のあちらこちらに夜番の兵士がいたように覚えているし、二人組で絶えず巡回する兵もいたはずだ。なのに、誰にも会いはしない。
 もしかして王太子は自分が思うよりもずっと早くから全てを計画していたのか。

 緊張に高鳴る胸を押さえながら、シェイドは後宮を目指した。妾妃である母エレーナに会い、彼女から国王にそれとなく忠告して貰わなければならない。
 エレーナ自身もできるだけ早く北端の領地ファルディアに身を隠す必要があった。
 王太子が譲位を待たず王位簒奪を目論んでいるのならば、まず目障りになるのは異母兄のシェイドとその生みの親のエレーナだからだ。

 出血が多かったせいか、歩くと息が切れた。焦る気持ちはあるが、これでは誰かに見られたときに不審がられる。
 壁に凭れて静かに息を継いだとき、シェイドは微かに聞こえる言い争う声のような物音に気づいた。

 ここはすでに王宮殿の一角であり、聞こえてきたのは国王の居室の方角だ。
 ジハード、と聞こえた気がした。その名に血の気が引いていく。
 後宮はもう目の前で、その角を曲がった先は王の居室だ。
 壁伝いにぎりぎりまで身を寄せて、耳を澄ませる。部屋の中の何かが倒れる物音が断続的に聞こえた。

 言い知れぬ恐怖が足元から這い上がってきた。
 何かが起こっているはずなのに、駆けつけてくる王宮兵もいなければ、侍従のやりとりも聞こえない。国王の居室だというのにだ。

 もしや、と思ったとき、荒々しい音を立てて扉が開く音がした。

「止めろ! 止めろ、ジハードッ……!」

 狼狽して掠れた声は、老いてはいるがかつて聞き慣れた国王のものだ。
 それが悲鳴に変わるのを聞いて、シェイドは弾かれたように走り出した。





「誰だ!」

「止まれ!」

「追え! 始末しろ!」

 通り過ぎざまに見れば、何人もの武装した兵士と廊下に倒れてもがく国王の姿が見えた。シェイドはもはや後ろも振り返らずに後宮に向かって走った。

 背後からは、追いすがってくる兵士達の重たげな甲冑の音が聞こえる。
 足が縺れそうになりながら薄暗い回廊を走り抜ける。後宮への扉が目に入ったとき、シェイドは僥倖に感謝した。扉を守っている老兵は、シェイドが内侍の司に配属となったときに母からの護符を届けに来てくれた男だった。

「火急の用件だ。通してくれ!」

 当直の任が終わろうという時刻で半ば居眠っていたらしい老兵は、目を白黒させながらも扉を開けてくれた。中に飛び込んで頭布を脱ぐと、扉の把手に巻き付ける。少しくらいの時間稼ぎにはなるだろう。

 廊下にある調度品を床に叩きつけながら、シェイドは後宮の端に部屋を構えるエレーナの元を目指した。迷惑顔で部屋から出てきた後宮の女達も兵士の足止めになってくれるはずだ。

「エレーナ……エレーナ様!」

 二十年ほど前に出たきりの懐かしい部屋の中に、シェイドは飛び込んだ。飛び込むなり力尽きたように床に倒れ、破れそうな胸を押さえて荒い息をつく。
 走り通したせいで喉も胸も脇腹も痛む。それに体の奥の傷が開いたらしく、息を吸うたびに引きつるような痛みがあった。

「何事ですか……」

 エレーナはすでに目覚めていたらしい。
 部屋着の上にガウンを羽織った姿で、奥から怖々と様子を見に来た。
 シェイドは床に倒れたまま、その姿を見上げた。

 白い肌、蜂蜜色に渦巻く豊かな金髪、澄んだ蒼い目。
 僅か十四歳でシェイドを産み落とした母は、四十の坂を越えたはずの今もまるで少女のように見える。

「……シェイド……?」

 幼い頃に別れたきりだったが、走ったせいですっかり解けた長い髪が、エレーナの記憶を喚び覚ましたらしい。
 忘れられてはいなかったという、ただそれだけで、シェイドは何もかも満たされたような気持ちがした。

 床から半身を起こして、母を見上げる。奇妙なほどに静かな気持ちになれた。

「政変が起こりました、母上。王太子殿下が国王陛下を……」

「……!」

 怯えたように息を詰まらせたエレーナに、シェイドは両手をさしのべた。
 瞬きを繰り返しながら声も出せぬ様子で腕に収まった体を、シェイドは守るように両腕に抱きしめた。





 本当は逃げてくれと言いに来た。だが、もう遅すぎるのだ。

 エレーナも自分も、北の領地には一度も行ったことがない。
 今から馬車と従者の手配をして、路銀をかき集めて王都を逃げ出し何処とも知れぬ領地に逃げ延びるなど、夢のまた夢だ。
 追っ手はもうこの後宮の中にまで迫っている。できることと言えば、こうやって最期のひとときを手を取り合って過ごすくらいのものだ。

 それでも来て良かったと、シェイドは思った。
 来なければ最期に一目顔を見ることも叶わずに殺されたはずだからだ。

 シェイドがエレーナの元で養育された期間は短く、互いに愛情らしきものがあったとも断言できない。親子だと名乗ることも、親子だと実感することもないままだった。

 だが、この髪と瞳の色が、確かな血の繋がりを教えてくれる。シェイドはこの世にたった一人生まれたわけではなく、この女の腹から産み落とされたのだと、やっと確信を持つことができた。





「居たぞ!」

 部屋の扉が叩きつけるように開けられた。追っ手の兵士達が雪崩れ込んでくる姿に、エレーナが悲鳴を上げる。
 それを庇うように抱きかかえたシェイドの背後で剣が振り上げられた。

 これまでだ、と思ったその時――。

「やめろ! 剣を下ろせ!」

 雷にも似た鋭い制止の声が、部屋の空気をビリリと凍らせた。

 逸れた剣先がシェイドの髪を揺らし、床に火花を散らして止まった。
 鞭打つような鋭い声音には聞き覚えがあった。顔を上げて確かめてみれば、部屋の入り口に立っているのはあのサラトリアだ。
 だが、昨夜の柔和な笑みを浮かべた貴公子はそこにはいなかった。

「何故、貴方がここに?」

 冷え冷えとした感情のない声で、サラトリアは抱き合って蹲る二人に問うた。
 明るい色の瞳は目の前の光景に嫌悪を抱いたように、薄く眇められている。手は腰に帯びた剣の柄にかかっており、卑しい北方人などいつでも斬り捨ててくれるとその表情が言っていた。

「……最期に、この方に一目お会いしたかったので」

 何もかもを覚悟して、シェイドは正直にそう言った。
 サラトリアがピクリと不快そうに目を細め、周りを取り囲んだ数人の兵士が侮蔑の表情を浮かべた。

 だがそれよりも、拳を扉に叩きつける音が部屋に居た全員を凍り付かせた。

「……お前は、どこまで俺を愚弄する気だ……」

 腹の底から怒りを絞り出すようなその声に、死を覚悟したはずのシェイドの喉が干上がった。扉の影から、血に染まった剣を手にした王太子が姿を現したのだ。





 怒りの気配が、まるで黒い炎となって全身から立ち上っているような気さえした。胸が早鐘を打ち、冷静であろうとする覚悟を砂の城のように突き崩してしまう。

 これは本能的な畏れだ。
 ジハードの怒れる姿を見ただけで、その足下に這いつくばり、理由の如何に関わらず許しを請いたい衝動に駆られる。
 体さえ自由に動けば、きっとそうしていただろう。だが全身は怖れのあまりに硬直し、母親のエレーナが怯えたように縋り付いているために動くこともできなかった。

「……その女を離せ」

 少し掠れた、地を這うような低い声。
 爆発しそうな怒りを無理矢理に抑え込んでいるような、抑揚の少ない声だった。
 シェイドは息を荒げて王太子を見上げた。
 手を離さなければと本能的に思う。思うのに、恐怖のあまりに握りしめた手を開くことができないのだ。

「離せと言っているだろうッ!」

 溜めに溜めた王太子の怒りがついに箍を失った。

 叫びざま父王の血に濡れた剣を床に投げ捨てると、ジハードは左手に持った鞘でシェイドの背中を打ち据えた。
 指の先まで痺れが走るような強打に力が抜け、悲鳴を上げるエレーナがサラトリアの手によって引き剥がされていく。取り戻そうと伸ばしかけた腕も打たれ、脇腹には硬い革の長靴を履いた王太子の爪先がめり込んだ。

 身を丸めて呻こうとしたが、襟首を掴んで体を持ち上げた王太子がそうはさせなかった。後ろから羽交い締めにして、顔を上げさせる。
 体一つ分離れた正面に、同じようにサラトリアの手で羽交い締めにされたエレーナの姿があった。

「その女を殺せ、サラトリア。貞淑な妾妃として父の後を追わせてやるんだ」

 恐慌に陥ったエレーナが金切り声をあげたが、サラトリアは眉一つ動かさなかった。小柄な体を抱え直し、背後からその首に太い腕を巻いた。
 じわじわと首を絞め上げる腕にエレーナが叫びながら爪を立てたが、サラトリアに動じる気配はない。狩りの獲物を捌くかのように、一片の躊躇いも同情も見せはしなかった。

「よく見ておけ。お前のせいであの女は死んでいく」

 耳元で、王太子が残酷に囁いた。

 何か言おうとすると腹の底から熱の塊が迫り上がってきて、口を開くと同時に鉄錆の匂いが鼻腔を満たした。

「……母上」

 恐怖と混乱のさなかで縊り殺されようとしている母親に、シェイドは手を伸ばした。

 自分を産み落としさえしなければ、こんな風に無残に殺されることもなかっただろうに。
 自分がここへ駆け込みさえしなければ、もう少しは平穏な死があったはずなのに。

「は、はうえ……」

 涙で視界が霞む。
 声を絞り出せば、腹の底から熱い塊が後から後から湧き出して、鼻からも口からも溢れ出た。





 拘束が解かれ、床に体を投げ出されたが、シェイドにはもう瞬きをする力も残っていなかった。
 ぼんやりと開いた目に、腕を解かれて激しく咳き込むエレーナの姿が映ったが、ぼやけてしまってよく見えない。
 闇が深くなり、何も見えなくなっていく。

「……イド!…………ド……」

 名を叫ぶ声に、何人もの悲鳴が重なった。
 身を横たえた石の床が激しく揺れ、物が倒れて壊れる音が続いた。大地が怒りを表すように大きく揺れているようだった。

 だが、それらを感じ取れたのは僅かな間だけだった。
 手足の感覚が消えていき、耳に届く音や叫び声も小さくなっていく。――すべての感覚が薄れ、視界も暗闇に閉ざされる。

 最後まで耳の奥でこだましていた鼓動が、緩やかに伸びて、ついには止まった。
 苦痛からも喧噪からも解放され、闇はただ安らかにシェイドを包みこんだ。




 ――死とは、これほど心地よく穏やかなものだったのか。
 そう思いながら、シェイドは胸に残った最後の息を静かに吐き出した。 
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