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国にいるときは、これほどの静寂はあり得なかった。
十年前までは静かな悪意に囲まれて、王子となってからは煩わしいほどの作り笑顔に囲まれて。一人になれる時間はずっと、夜、寝室に篭る間だけだった。
朝が来るのが嫌で、夜更かしして寝不足で倒れたこともあった。
なのに今は、どうしようもなく明日が待ち遠しく思える。
分厚い辞書を開き、指で字をなぞる。
魔族語の勉強を始めてからのキースは、人魚の少女の話す言葉を記憶するように心がけていた。彼女がたくさん話してくれる単語の意味を調べることが楽しくて仕方ないのだ。
パラパラとページをめくり、目当ての単語をやっと見つけて──首を捻った。
「……タコ?」
更に記憶を頼りにページをめくり、徐々に謎が解けていく。
『タコ。ヌメヌメする。不味い』
大きく吹き出して、慌てて口元に手を当てるが笑いの波は収まらない。
あんなに楽しそうにこんなことを話していたなんて。
本当に、あの人魚の少女はキースの想像を遥かに超えていって、面白くて仕方ない。
「……そういえば、ゴードンにもなにか話していたな」
伝わってはいないだろうが失礼な態度を取ったゴードンに、あの少女は必死に謝罪していた。
気にしなくていいよという言葉を覚えておかなくてはと思いつつ、彼女の話した言葉を調べる。
「君は……いや、あなたは、かな。あなたはタイシが……大、好き……?」
机に突っ伏した。
ゴードンに話していたのだから『あなた』というのは間違いなくゴードンだ。そしてタイシとはキースのことである。
すっかり訂正する機会を逸してしまった呼び名だ。キースは人魚の少女にそう呼ばれることが気に入っているが、つまり彼女はゴードンはキースが大好きと言っていたわけだ。誤解だと大声で叫びたかった。
たしかに幼い頃から知っている友人ではあるがそれも十年前までの話だし、いやそもそも大好きとは友情としてなのだということは明らかなのだけど。
とにかく誤解だという言葉は最優先で覚えなければならなかった。
誤解を意味する魔族語を声に出して発音し、同じ話題になったときにはすんなりと口にできるよう心に留める。
──ゴードンは友達。ゴードンは僕を友達として好き。よし。
頭の中でぐるぐると思考をかき回し、冷静になれと自分に言い聞かせる。
そしてふと、気がついた。
この単語が大好きという意味なら、この後の彼女の言葉は──。
『わたしも、タイシが大好──』
バンと音を立てて本を閉じた。
激しくなった心臓の鼓動が痛くて、胸を押さえて再び机に突っ伏す。
「違う! 彼女は、だから、ゆ……友人として、その……そういう表現をしただけで……っ」
誰にともなく言い訳をしても椅子と同じデザインのアンティークの机が冷たくて気持ちいいと思えるほど、頬は熱を持っていた。
「ああ、もう……心臓に悪すぎる……」
頰を机に押し当てて冷やした格好のまま、閉じた辞書をパラパラとめくる。
一つの単語を見つけて、無意識に手が止まった。
それは、この辞書を受け取って初めて調べた単語だ。
「『可愛い』……」
誰を想って調べたのかも、そもそもこの言葉すら伝えるつもりなど欠片もない。
だが今ここにいるのは自分だけで、こぼれ落ちる独り言を聞く者は誰もいなかった。
「『可愛い』……。『可愛い、君は。……とても』」
十年前までは静かな悪意に囲まれて、王子となってからは煩わしいほどの作り笑顔に囲まれて。一人になれる時間はずっと、夜、寝室に篭る間だけだった。
朝が来るのが嫌で、夜更かしして寝不足で倒れたこともあった。
なのに今は、どうしようもなく明日が待ち遠しく思える。
分厚い辞書を開き、指で字をなぞる。
魔族語の勉強を始めてからのキースは、人魚の少女の話す言葉を記憶するように心がけていた。彼女がたくさん話してくれる単語の意味を調べることが楽しくて仕方ないのだ。
パラパラとページをめくり、目当ての単語をやっと見つけて──首を捻った。
「……タコ?」
更に記憶を頼りにページをめくり、徐々に謎が解けていく。
『タコ。ヌメヌメする。不味い』
大きく吹き出して、慌てて口元に手を当てるが笑いの波は収まらない。
あんなに楽しそうにこんなことを話していたなんて。
本当に、あの人魚の少女はキースの想像を遥かに超えていって、面白くて仕方ない。
「……そういえば、ゴードンにもなにか話していたな」
伝わってはいないだろうが失礼な態度を取ったゴードンに、あの少女は必死に謝罪していた。
気にしなくていいよという言葉を覚えておかなくてはと思いつつ、彼女の話した言葉を調べる。
「君は……いや、あなたは、かな。あなたはタイシが……大、好き……?」
机に突っ伏した。
ゴードンに話していたのだから『あなた』というのは間違いなくゴードンだ。そしてタイシとはキースのことである。
すっかり訂正する機会を逸してしまった呼び名だ。キースは人魚の少女にそう呼ばれることが気に入っているが、つまり彼女はゴードンはキースが大好きと言っていたわけだ。誤解だと大声で叫びたかった。
たしかに幼い頃から知っている友人ではあるがそれも十年前までの話だし、いやそもそも大好きとは友情としてなのだということは明らかなのだけど。
とにかく誤解だという言葉は最優先で覚えなければならなかった。
誤解を意味する魔族語を声に出して発音し、同じ話題になったときにはすんなりと口にできるよう心に留める。
──ゴードンは友達。ゴードンは僕を友達として好き。よし。
頭の中でぐるぐると思考をかき回し、冷静になれと自分に言い聞かせる。
そしてふと、気がついた。
この単語が大好きという意味なら、この後の彼女の言葉は──。
『わたしも、タイシが大好──』
バンと音を立てて本を閉じた。
激しくなった心臓の鼓動が痛くて、胸を押さえて再び机に突っ伏す。
「違う! 彼女は、だから、ゆ……友人として、その……そういう表現をしただけで……っ」
誰にともなく言い訳をしても椅子と同じデザインのアンティークの机が冷たくて気持ちいいと思えるほど、頬は熱を持っていた。
「ああ、もう……心臓に悪すぎる……」
頰を机に押し当てて冷やした格好のまま、閉じた辞書をパラパラとめくる。
一つの単語を見つけて、無意識に手が止まった。
それは、この辞書を受け取って初めて調べた単語だ。
「『可愛い』……」
誰を想って調べたのかも、そもそもこの言葉すら伝えるつもりなど欠片もない。
だが今ここにいるのは自分だけで、こぼれ落ちる独り言を聞く者は誰もいなかった。
「『可愛い』……。『可愛い、君は。……とても』」
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