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 ぐんぐんと水を蹴って進み、水面に頭から突っ込む。
 途端に深い木々や花の爽やかな香りが鼻を抜けて、木漏れ日が目の前で雫を煌めかせた。

「タイシ!」

 池の淵に腰掛けた人間に向けて、笑顔で声をかける。すでに笑顔を浮かべていたこの人はいつもの同じ言葉を発した。

「────、──」

 うん。何を言っているのかは分からない。

 分からないが、いつも会って初めに言われる言葉だからきっと挨拶だ。だからフェリシアも笑顔で返す。

「こんにちは、タイシ! 今日もいいお天気ね」

 魔王の管理する敷地内はいつも好天に恵まれている。稀に雨が降ることもあるが、晴れた後の土と水を含んだ湿気た匂いもフェリシアは好きだった。
 それでもこの晴れた日の花と草の香りには何物も勝てない。

「人間の国もいつも晴れているの? それとももしかして雨が多いのかしら。匂いは同じ? それともまったく違う匂いがするの? 海はね、雨が降ったら真っ暗になるのよ。おまけに風が吹いたら危ないから底でじっとしていなきゃいけないの」

 タイシは笑顔のまま首を傾げて何かを話す。

 きっとフェリシアの話す言葉は通じていないし、タイシの答えもまったく的はずれなのだろう。
 それでもタイシが笑顔を返してくれるだけで嬉しくなって、フェリシアは話し続けた。

「今日はね、友達のフレーディアに怒られたの。わたしは落ち着きがなさすぎるって。フレーディアのお父さんは学校の先生なんだけど、怒った顔がそっくりでね。魔王様に、雷が落ちたみたいだなって言われて落ち込んでいたこともあるくらい怖い顔で怒るのよ」

 にこにこと微笑むタイシに伝わるように眉間にシワを作って目を釣り上げて友人の真似をする。

 吹き出して肩を揺らすタイシには友人の怖さはまったく伝わらなかったらしい。ほんの少し唇が尖る。

「いいわよ。タイシにも一度会わせてあげる。あなたも怒られたらフレーディアの怖さがよぉく分かるわ。──タイシは後ろのお友達と喧嘩することはある?」

 タイシは毎日フェリシアの住む池のほとりに来てくれるが、彼は一人ではなかった。いつも五、六人ほどの人間の男性が池から数歩離れた辺りで立ち、こちらへと視線を向けているのだ。
 その中の一人はとても優しそうで目が合うとにっこり微笑み返してくれるが、一人は目が合えば鋭く睨まれて少し怖い。

 怖いが興味があるのも事実だから、フェリシアは後ろの男達を指差して問いかけた。

「あの人達はタイシのお友達でしょう?」

「────?」

 残念なことに言葉で返されればフェリシアには何を言っているのかさっぱりわからない。
 しかし指を差したからだろう。後ろに控える男性達の一人、いつも微笑みを返してくれる男性がのんびりとこちらへ歩み寄ってきた。

「──?」
「──、────」
 
 男性がタイシに何かを問いかけ、それに対してタイシが笑いまじりに言葉を返している。
 随分長く話す二人は親しそうだ。やはりこの二人は友人同士らしい。

 二つの笑顔がそのままフェリシアへと向かい、言葉のわからないフェリシアは首を傾げる。
 フェリシアに向けられたタイシの目はどこか悪戯っ子のようにワクワクと輝いていて、笑みを浮かべたまま唇が開いた。

「『君の、名前は、なに?』」

 思わず耳を疑った。

 ──今のは、タイシが言ったの?

 タイシはじっとこちらを見つめたまま楽しげに微笑んでいる。

 まるでフェリシアの答えを待つように。

「……タイシ、魔族語が話せるようになったの!?」

 嬉しくて嬉しくて、タイシの手を引いて水中に潜る。

 次々にこみ上げてくる喜びと興奮に、タイシの手を引いて尾を振り、水中をくるくると回った。

「すごい! すごいわ! それならこれからはもっとお話ができるわね!」

 話が通じない今でもこんなに楽しいのに、会話ができるならもっと楽しくなる。
 初めはどんなことを話そうか、自分のことよりもタイシの話が聞きたい。

 あれも聞こうこれも聞こうと浮かれつつ、水中でくるくると回り続ける。嬉しい時の癖だ。母親に叱られようともこれはどうしても治らない。

「何から聞こうかしら。タイシはどこから来たの? あっ! 何をしに魔王様のお城に来たのかを聞いてなかったわ! どうして──」

 あれ?

 喜びに身を任せていたフェリシアは、はてと気がついた。

 さっきからタイシの声が聞こえない。

「タイシ?」

 尾びれを止めて、繋いだ手の主を見る。

 その瞬間、タイシの口から大量の泡が漏れ出し、視界を覆った。見たことのない不吉な光景に、フェリシアは以前魔王に言われた言葉を思い出した。

『水辺に住む魔族以外を水の中に連れて行ってはいけないよ。彼等は水の中にいては──死んでしまうからね』

 背筋が一瞬で冷たくなり全身の鳥肌が立つような、感じたことのない恐怖が襲う。目の前の体を押し戻して水面へと急いだ。

 押した勢いのまま、タイシの体を池の淵へと押し出した。

「ごめんなさい! わたし──っ!!」

 言葉を続けようとして、目の前に突き出された銀色の光に喉の奥から悲鳴が漏れた。

「──っ!? ────!!」

 太い剣をこちらへと突きつけた怖い顔の男が激しく怒鳴る。
 そのあまりの激しさに怖くなって水中に逃げ帰りたくなったが踏み止まった。タイシの口から水が吐き出されて激しく咳き込むのが見えたのだ。

 フェリシアにはその姿がとても恐ろしく見えた。
 言葉が出ないフェリシアに剣を突きつけた男は怒鳴り続けているが、その声すら遠く聞こえる。

 ──水に入っただけで、あんなに苦しそうになるなんて。

 激しく咳き込み息を乱すタイシに近寄りたくても怒鳴る男の剣が視界にちらついて出来ない。
 いつも離れたところから微笑みを返してくれていた男性がタイシの腕を引き、水辺から遠ざけようとしている様子をただ見ていることしかできない。

 しかしいまだ咳き込んでいるにもかかわらずタイシは腕を振り解き、フェリシアへと剣を突きつける男の腕を掴んだ。

「────」

 乱れた息を混ぜながらタイシは首を振り、何かを男に言うが、男は声を張り上げて言い返している。
 タイシは苛立ったように声を荒げ、そのまま淡い青の瞳がフェリシアへと向けられた。

 タイシが何かを言うより先に水中へと逃げ帰った。
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