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長編版

18 殿下視点

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 アシュレイの話を聞いて深く安堵の息が漏れた。

「エレシア嬢には礼を言わなければな……もしもこの噂がリシュフィ嬢に知られていたらどれほど……」

 どれほど……。

「リシュフィ嬢は……噂を知って気に病むだろうか……?」

 連日あれだけ婚約の解消を迫ってくるリシュフィ嬢だ。俺が自分以外を寵愛しているなどと知ったところで気にするとは正直思えないが……。

 しかしアシュレイは目元を和らげた。

「殿下。エレシア嬢は仰っていましたよ。
『自分の婚約者が他の女性と親しくしているなんて良い気分をするはずがありません』と。もしも耳に入ったとしたら、あのリシュフィ嬢でもきっと気にされたことでしょう」

「そうか……」

 それを聞いて一つ、決意した。

 もしも本当にリシュフィ嬢が噂を信じて動揺するようなことがあるなら、それは俺の責任だ。

「それなら、リシュフィ嬢には噂があることを俺から話そうと思う」

「伝えられるのですか? 知れば気にされると今も申し上げましたが……」

「今はリシュフィ嬢の耳に入っていないが、エレシア嬢も言っていたのだろう。噂は完全に消えるものではないと。なら今日明日にでも知ってしまうかもしれない」

 そしてその時、リシュフィ嬢の心にわずかでも憂いを感じさせることがあってはならない。

「意図したことではないとはいえ婚約者を不安にさせるだろう行動を取ったのは俺の認識が甘かったからだ。誤解させる前に話をして、安心させてやりたい」

 決意と共に部屋の窓へと目を向けるも、すでに空は橙と群青の混ざる時間だ。学園の夕食は男女別に寮で取ることになっているから、今から会いに行ってはやや失礼な訪問になってしまう。

 明日リシュフィ嬢に話すと言うと、どこか嬉しそうなアシュレイが「お供します」と言ってくれた。



 有難い援軍とともに翌日、リシュフィ嬢の元へと向かった。人前だからか令嬢の皮を被った婚約者に「話したいことがある」と伝えると、リシュフィ嬢の瞳に興奮と緊張が浮かんだように見えた。

「殿下。ついにご決断なされましたのね」

 …………本当に話して大丈夫だろうな。

 不安しかなかった。



「わたくし、この日を一日千秋の想いでお待ちしておりました。さぁ殿下。今こそ破棄の宣言を!」

 サロンに着いたまでは良かったが──俺が何かを言う前に訳知り顔のリシュフィ嬢が切り出した。

「なにを待ち望んでおるのだ、お前は! そんな日など二度と来んからいい加減諦めろ!!」

 この女は本当にまったくもって期待を裏切らない。

 ……期待ではないな。

 リシュフィの綺麗な唇から落胆の「えー」が漏れる。

「期待を持たせるだけ持たせてこの仕打ち……あんまりです」

「持つんじゃない、そんなもの。箱にでも詰めて河原に捨ててこい!」

 後ろから「犬の子ではないのですから、本題に入ってください、殿下」と呆れ口調のアシュレイの声がする。もしも俺に対する敬意に数値が着いていればさぞ数字が下がったことだろう。着いてきてもらったのは間違いだったかも知れない。

 本題に入ろう。埒があかない。

「そのような話ではない。女生徒の間で俺に関する馬鹿げた噂が流れておるというから、その話をしたかっただけだ」

 噂? とリシュフィ嬢が小首を傾げる。

 さすがはエレシア嬢だ。見事にリシュフィ嬢の耳には入っていないらしい。

「俺が、その……特定の女生徒を寵していると噂があるらしくてな。そのことでお前に」

「まぁっ!」

 なんとも弾んだ声とともに、藍色の瞳がキラキラと輝いた。

「殿下にご寵愛なさる方が出来ましたのね! なんておめでたいことでしょう。わたくし、全力でお祝いいたしますわ!」

「…………アシュレイ……」

「……申し訳ございません。リシュフィ嬢とエレシア嬢を同じ枠で考えた僕の失態です」

 そうだな。ごく当たり前に模範的な令嬢であるエレシア嬢と『これ』を同じ扱いにしてはエレシア嬢に失礼だ。

「にしても一体お相手は誰なのです? はっ……エレシア!? 遂にエレシアがやってくれましたか!? あの子はきっとやり遂げてくれると信じておりましたのよ!」

 なにをやり遂げるのかは聞きたくない……。

「そうと決まればすぐにでもエレシアを呼んで参りますわね! アシュレイ様、立会人をお願いしても!?」

「殿下、お気を確かに……。落ち着いてください、リシュフィ嬢。殿下の愛する方はエレシア嬢ではありませんよ。そうですよね、殿下?」

 背中をやや強く叩かれて我に帰る。

 そうだ。俺はなんのためにここに参ったのだ。

 リシュフィ嬢に誤解をさせないために、会いにきたのではないか。
 あいにく不安はまったくもって抱いてはいないようだが、それならむしろ良かった。
 少しでも悲しい思いをさせていないのなら、良かったではないか。

「そうだ。エレシア嬢ではない」

 そもそもお前以外に愛する者などいないのだ。

 そう告げてしまいそうになったところで、婚約者殿は可愛らしく頰に手を当てた。

「──では、殿下はどなたを寵愛していらっしゃいますの?」

「………………………………」



 い………………言えるかぁ!!

 たったいま他の女性を愛していると分かって喜んでいた女に『愛しているのはお前だ』などと伝えて、幸せになれる未来が一欠片も見えんわ!!

 後ろから『ここです、殿下!』と要らないエールが飛ぶ。

 お前はリシュフィ嬢を分かっていない!

 ここで言えばまさしく『お気持ちは有難いのですがお断りさせていただきます』の返答まっしぐらではないか!!

 返事に苦慮する俺に、リシュフィ嬢が目を瞬き、首を不思議そうに傾けた。

 長い睫毛に縁取られた藍色の瞳に俺が映って、絹糸のような銀髪が開けられた窓から入る風にそよぐ。
 そうして改めて見た細い指をもつ手のひらが添えられた頰はあまりにも滑らかで、俺も触れたくなって……いやそれならば薔薇色に色付いた形の良い唇に──。

 ああ。本当に。この女は。

「か、かわいい、女だ……」

 意識せず、答えていた。

 そしてそれを自覚した俺の脳内を占めたのは、『やってしまった』という後悔の言葉だ。

 これでリシュフィ嬢から正式にお断りの言葉をもらうことになれば、俺はもう今夜ベッドに入ったきり起き上がれなくなる……。

 しかしリシュフィ嬢はある意味で期待を裏切らなかった。

「なるほど。殿下が愛しておられるのは可愛らしい方ですのね。それならばエレシアではないのも頷けます。あの子はわたくし同様『可愛い』よりも『美しい』と言う言葉がぴったりですから」

「違う!! お前がかわ…………………………っ、た令嬢、だな。本当、に……」

 後ろから敬意の数値がマイナスに振り切ったらしい呆れどころか軽蔑すら感じさせるため息の音がする。

 分かっている。お前の言いたいことは分かっているが、この状況で言えるわけがないだろう!

 リシュフィ嬢の顔が見れずにアシュレイを睨んで誤魔化す俺の耳に、恐ろしく低い「違う?」と言う声が届いた。

 そのあまりにも不穏な声音に、振り返る首が錆びた玩具のようにギコギコと音を立てた。

 振り返った先には、紛れもなくこの国で最も美しく恐ろしい笑顔があった。

「……いま。わたくしが美しくないと。そう仰いました?」

「あ、いや……今の違うというのは、だな……」

 美しい笑顔は、一瞬で背に怒りの炎を背負う修羅に変わった。

「言い訳は無用でございます!! このわたくしの美貌を否定するなんて許しませんわよ! 今日という今日こそは絶対に婚約を破棄していただきますから!!」

 這々の体で逃げ出す羽目になった。

 王太子が婚約者に恐れをなして逃げ出すとはいかがなものだろうか。
 自信をなくしてしまいそうだ……。
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