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第三章

一年前⑤

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 友人達は大慌てで国へと逃げ帰っていったが、俺には何が起きたのか分からないままだった。
 身内だけになってからキングやクイーンに何があったのか問い詰められ、洗いざらいを吐いた頃には室内にエルザ殿の姿はなくなっていた。

 一年前の初対面以降、遠目に見かけることはあっても会話を交わすことはなかったあの女性は、この一年間キングやクイーン、ジャックや同じアカデミーを卒業した9以下の面々から10になることを脅し半分、泣き落とし半分に打診されつつも全てのらりくらりと躱して逃げ回っていたらしい。

 近頃では十三位が集まって行われる会議でも諦めムードが高まってきていたというのに、一体先程あったことは現実なのだろうか。

 「でかしたぞ」と激しく肩を叩いてくるキングに断って、執務室を飛び出す。
 あの人と話をしなければ、到底信じることはできなかった。



 城中を走り回り、角を曲がったところでようやく、揺れる空色の尻尾を見つけた。

「エルザ殿!」

 足を止めてくるりと振り返ったエルザ殿は俺の姿を映した綺麗な瞳を瞬かせた。

「オーウェン様。どうかなさいました? そんなに息を切らせて」
「……これは運動不足な、だけです」

 一心不乱に探し回ったせいでいつの間にか全身が汗だくになっていた。今日は走ってばかりな一日だった。少しの運動で体が重くなった様に感じる。また鍛え直さなければ……。

 膝に手をつき肩で息をする俺の額に柔らかいものが当たる。パッと体を離すとハンカチを手にしたエルザ殿がすぐ側にいて、心臓が騒がしくなった。

「だ、だ、大丈夫、です。ハンカチが汚れてしまいますから」

 掌を掲げて断るとエルザ殿は小さく吹き出した。

「ハンカチは汚すものでは? 気にせずお使いください。とっても運動不足みたいですし。──そうだわ。今度お暇な時にでも一緒に修練場で運動しませんか? 少し走るだけでも気持ちの良い季節ですよ」
「……遠慮しておきます。運動なら、自力で出来ますので」

 この人の隣で走るなど心臓が妙な脈を打ちそうだ。

「オーウェン様もゼンみたいに運動がお嫌いなんですね。しかしいざという時にものを言うのは知恵と体力ですよ。知恵は問題なくとも動く体がなくては実力の半分も出せません。運動は大切です」

 ハンカチを持つ細い指が一本立てられ、「特に」と突きつけられた。

「見る限りでは持久力が不足しているご様子。やはり走り込みは必要かと思います」
「わ、わかりました。機会があれば是非……」
「ゼンで心得ています。機会はあるものではなく作るものですわ。さぁ、いつに致します?」

 ずいずいとエルザ殿の顔が眼前に迫る。約束するまで逃さないぞということらしいが、長い睫毛までくっきり見える近さはとにかく心臓に悪い。

 迫るエルザ殿に触れないよう気を付けて両手で押し戻し、話題を逸らす意味も兼ねて、最も気になっていることを問いかけた。

「その……よろしかったのですか」
「何がですか?」
「あなたは10になることを嫌がっておられるのだと思っていましたから……」

 颯爽と10の位を得て友人達を追い返したエルザ殿だが、あの状況では俺を助けるためにしてくださったことは明らかだった。
 あれだけ嫌がっていたというのに、一度しか会ったことのない俺のためにどうしてそこまでしてくださったのだろう。

 俺はその理由がどうしても知りたかった。

「どうして10に──」

 問いかけの言葉は途中で無意識に止まった。

 眼前のエルザ殿はハンカチを片手に顔色を真っ青に変化させていたからだ。

「どうし──」
「やっちゃったわ……」

 ハンカチがひらひらと揺れて落ちていく。それを気にも留めず、エルザ殿は頭を抱えて叫んだ。



「あと一年の辛抱だったのに……なんってことしちゃったの! もう少しでヒロインが来てやっとワンダーランドの壁紙になれるところだったのに!!」
「壁紙!?」

「どうするのよこれ! このままじゃヒロインが私を認識しちゃうじゃない! そうしたら私は……私の楽しいモブライフはどうなっちゃうの!?」

「ああでももしもハートに行ってくれればショーンルートを堪能できるかもしれない? レスターでもアレクシス様でもいいけど……でもやっぱりスペードに来て欲しい気持ちも捨てがたいっ!!」

「ルーファスルートもゼンもノエルももう一周しておきたいところだけど、さすがに全てを現実で見るのは無理かしらね!? ──っもう私の馬鹿!! ずっとずっと目の前で見られるのを楽しみにしてたのにこのままじゃ私がヒロインの邪魔者ってことになるじゃないの──!!」

 エルザ殿は錯乱していた。取り乱し、瞳には異様な輝きがある。

 ──俺を助けたせいで、エルザ殿は錯乱しているのだ。

「お……落ち着いてください!」
「落ち着いていられるわけないでしょう!! 苦節十年以上にも及ぶ私の壮大な計画がぁ──!!」
「計画!? ……十年!?」

 俺の静止でエルザ殿が落ち着くことはなかった。しかしこの人が地団駄を踏み、百面相をしているのは全て俺のせいだ。その事実が心に沁みて、普段なら決して口にはしない言葉を口にした。

「本当に申し訳ございません。俺のせいでご迷惑を……詫びをさせていただけるなら、なんでもおっしゃってください。俺に出来ることならなんでもします」

 深く頭を下げれば、目の前のエルザ殿の動きが恐ろしいほどピタリと止まった。

「……なんでもと、おっしゃいました?」

 普段ならなんでもするなどという言葉を軽々しく口にすることはないのだが、この時ばかりはこの人のために出来る償いをしたいという思いが強かった。
 だから、混乱して揺れる空色の瞳を見つめて頷いた。

「はい。なんでもさせていただきます」

 途端に両手が暖かく柔らかいもので包み込まれた。
 それがエルザ殿の手であると気が付いた時には再び真摯な色を称える綺麗な瞳が眼前に迫り、吐かれた息が顔にかかる。

「本当になんでもしてくださいます?」
「は、はい……っなんでも、させていただきます!」

 だから手と体を離してくださいと余程叫びたかったが、情けないことにそこまで舌が回らない。しかしエルザ殿の瞳は、困惑と焦燥から一変した。
 それは、叫べば良かった、とも叫ばずにいて良かったとも思えるほど美しい輝きを称えていた。

「本当に、頼りにしてもよろしい?」
「も、もちろん、で……」

 俺の返事を聞いて満足気に微笑み、やっと離れたエルザ殿が体を向けたのは──キングの執務室のある方向だった。

 片手を腰に当て、もう片手の指でビシッと真正面を指す。
 そしてこの人は、高らかに宣言したのだ。

「キングの執務室に向かいます。私がサインした書類は六枚。全て盗み出して処分しますよ!」

「駄目です!!!」

 相手がエルザ殿であることも忘れて叫んでいた。
 何を言い出すんだ、この女!?

「駄目!? どうしてです! なんでもするとおっしゃったではありませんか!」
「なんでもにも限度があります! キングの執務室から正式な書類を盗み出して処分するなんて許されるわけないでしょうが!!」
「限度があるなんて一言もおっしゃいませんでしたよ! それでは詐欺です!」
「常識の範囲で見ても限度を遠く超えているから断ってるんだ!!」

 やはりなんでもなどと滅多に言うものではないと痛感した。……少なくとも常識を遠く外れた相手に言うものではない。

 目の前の細い肩を両手で叩く勢いで掴む。

 これがあのエルザ殿の肩であるということは頭の中から抜け落ち、俺は今後数百度に渡って言い聞かせることとなる言葉を、この時初めて口にしたのだった。

「エルザ殿……直筆で、安易にサインをしてはいけません」

 俺の必死の説得を受けたエルザ殿はしょんぼりと項垂れ「敬語でのお説教は骨身に染みるわ……」と溢したのだった。
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