上 下
204 / 206
第三章

一年前④

しおりを挟む
「これは、無礼を致しました。クローバーの9。──しかしながら、一つ……お願いを申し上げても宜しいですか。こちらの我が国の5を貴国へお連れになるにあたって一度、スペードのキングの元へとご同行願いたいのです」

 先ほど感じた冷たさは錯覚かと思うほど和かな笑みを浮かべた女は一つ、と言って人差し指を立てた。

「スペードのキングの元へ、だと? 一体どのような用向きで?」

「まことに恐縮ではありますが、私用によりこちらのスペードの5をお借り受けたいのです」

 女は恐縮の心を表すように、申し訳ないとばかりに眉を下げ困ったように微笑んでいる。

 馬鹿馬鹿しい。どうして部隊長の私事に国の5が付き合うのか、所変われば品変わるというが、それにしても妙な国だと呆れる思いだった。

 しかし、それと同時に思い出した。

 エルザ。そうだ。スペードのキングやクイーンの幼馴染の女性の名前が確かエルザであったはず。

 しかもその女性はただの幼馴染ではない。スペードのキングの妻候補の筆頭であるとまで言われている女性だ。

 それを思い出して、この女の真意を察する。

 恐らくは、オーウェンをスペードのキングの元へと連れて行き、匿うよう頼むつもりなのだ。

 すでにスペードのキングはクローバーとの間で不和の元となるこいつをさっさと手放してしまうつもりでいるとも知らずに。

 内心でこの女のささやかな抵抗を嘲り、また同時にクローバーとこの女の間で板挟みになるあの赤い男を困らせてやるのも面白いと思った。

「良いだろう。ならば私達も同行しよう」

 女がほんの一瞬困ったように眉を寄せたのを俺は見逃さなかった。

 外交用の笑みを浮かべながら、女の案内でキングの執務室へと向かう最中、ヘクターが「このように麗しい女性をあまりいじめてやるものではないぞ」と説教をしてきた。
 フェミニストであるヘクターらしい台詞ではあるが生憎、俺は人を困らせることは嫌いではない。

 そうして意気揚々と女の後に続いた俺は、愚かにも忘れていたのだ。

 先程この女に感じた激しい悪寒も、ヘクターを一瞬でねじ伏せた類稀な技量も。



 キングの執務室に着くと中にいたのはスペードのキングとクイーンで、御二方とも女の後に続いて入室した俺達を見て身を丸くしていた。

「これはまた随分と変わった組み合わせだな」

 問いかけるような目がオーウェンへと向き、女へと移る。

 笑いを堪えることはひどく難しく、さてこの女はこのあとどうやってオーウェンを守るつもりなのやらと内心で嘲笑っていた。

 だが、スペードのキングの眼前へと一歩進み出た女は丁寧に腰を折り、俺の予想外の言葉を口にしたのだ。

「キング。以前よりいただいていたお話しをお受け致したく参りました」



 キングの赤い瞳が大きく見開かれ、場に恐ろしい程の沈黙が降りる。キングの手から滑り落ちたペンが机から床へと弾んで落ちていき、カラカラと音を立てた。

 室内において最初に動いたのは、スペードのクイーンだった。

 唐突に大股でスペードのキングの机の元へと走り、引き出しから書類を数枚、大慌てで取り出したのだ。その表情には脂汗が滲んでいる。いくつかの紙の束が床へと散らばったが、それには目もくれないほどの慌て様だった。

 スペードのキングはクイーンからやや遅れて我に返ったらしい。机を叩く勢いで立ち上がり、ペンを拾い上げ、女の襟首を掴み、引き摺りながら女を──あろうことかキングの執務机に押し付ける様にして座らせたのだ。

「書類!!」

 スペードのキングの叫ぶ声と同時にスペードのクイーンが書類を女の眼前に叩きつけた。

「中身なんざ読まなくていいからとっとと名前書け! 名前!」

「ここですよ! この下線の箇所に……内容は後でちゃんと読み聞かせてあげますからさっさとサインしなさい! それさえ貰えればこちらのものです!!」

「…………一人でも読めます。ここにサインすればよろしいのですね?」
 
 書類に目を落とした女が呆れた声音で尋ねるが、御二方は左右から女に向けて怒鳴り続けている。

「名前、スペル間違えるなよ!?」

「予備を書かせておいたほうがいいですね……私が保管する用とルーファスが保管する用……ノエルにも持たせておくべきでしょうか!?」

「金庫に隠す用も含めて五、六枚は書かせておくぞ。……書き間違えはないな!?」

「っもう煩いわね! 自分の名前を書き間違えるほど馬鹿じゃないわよ!!」

 溜まりかねたらしい女がスペードの御二方へと怒鳴り返す。
 オーウェンを守るために連れて来られたのだとばかり考えていたが、当事者であるオーウェンすら置き去りにしてキングと女は怒鳴り合いの喧嘩を始め、クイーンは書類の上から下までを何度も往復しながら恐らくは誤りがないかの確認をしている。

 私用でとは言っていたが、俺達はまさか本当に部隊長の私用に付き合わされただけなのだろうか?

「……よし。これで問題ありません」

 一息ついてクイーンは書類の束から一枚抜き取って丁寧に折り畳み、懐の奥深くへとねじ込んだ上で、キングへと残りの書類を渡す。額の汗を拭いつつ。

 キングもまた汗を袖口で拭い、書類の一枚を懐へと仕舞い込んでいる。ため息と共に女を見下ろし睨みつけた。

「長い戦いだった……」
「しつこいわよ。書いたんだからいいじゃないの」

 睨まれた女は頰を膨らませつつ席を立ち、キングの前に真っ直ぐに立つ。

 そして腰に手を当て、ある意味では爆弾発言ともいえる言葉を口にしたのだ。

「それで──私に与えられる位はいくつになるのかしら?」

 位。キングから与えられる位。

 この言葉の意味は、どの国でも共通のものだ。

「何寝惚けたこと言ってやがる。俺の部下共で空きは10だけだろうが。お前は今日から──スペードの10だよ」

 スペードの国はエースだろうが10だろうが対等に話のできる国柄だ。

 ハートやダイヤもそうだ。

 だが、クローバーだけは違う。エースは2以上の位に丁寧に接することが公然の常識であり、それに倣って他国間では位の数を重視する。

 その事実が脳内に染み込んだ時、俺の目の前で女は満足気に頷いて、ゆっくりと歩みを進めた。

 スペードのキングの執務室は応接間も兼ねているのか立派な革張りのソファが二つ向かい合わせに並べられている。

 その一つ、上座へと腰を下ろし、女は長い脚を見せつけるかの様に悠然と組んだ。

 そして、笑いを滲ませる空色の瞳は真っ直ぐに俺を映したのだ。

「私の用は済みました。それでは先程のお話の続きをいたしましょうか。──そちらに掛けなさいな。クローバーの9、キーラン殿」

 勝ち誇った笑みが向けられ、『スペードのキングの執務室にある』ソファを手で示される。

 もはや口元が引きつるのを堪えることは出来なかった。

 結局、震える足を誤魔化すのを精一杯に、這々の体でこの伏魔殿から逃げ出したのだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

目が覚めたら夫と子供がいました

青井陸
恋愛
とある公爵家の若い公爵夫人、シャルロットが毒の入ったのお茶を飲んで倒れた。 1週間寝たきりのシャルロットが目を覚ましたとき、幼い可愛い男の子がいた。 「…お母様?よかった…誰か!お母様が!!!!」 「…あなた誰?」 16歳で政略結婚によって公爵家に嫁いだ、元伯爵令嬢のシャルロット。 シャルロットは一目惚れであったが、夫のハロルドは結婚前からシャルロットには冷たい。 そんな関係の二人が、シャルロットが毒によって記憶をなくしたことにより少しずつ変わっていく。 なろう様でも同時掲載しています。

皇太子の子を妊娠した悪役令嬢は逃げることにした

葉柚
恋愛
皇太子の子を妊娠した悪役令嬢のレイチェルは幸せいっぱいに暮らしていました。 でも、妊娠を切っ掛けに前世の記憶がよみがえり、悪役令嬢だということに気づいたレイチェルは皇太子の前から逃げ出すことにしました。 本編完結済みです。時々番外編を追加します。

婚約者が他の女性に興味がある様なので旅に出たら彼が豹変しました

Karamimi
恋愛
9歳の時お互いの両親が仲良しという理由から、幼馴染で同じ年の侯爵令息、オスカーと婚約した伯爵令嬢のアメリア。容姿端麗、強くて優しいオスカーが大好きなアメリアは、この婚約を心から喜んだ。 順風満帆に見えた2人だったが、婚約から5年後、貴族学院に入学してから状況は少しずつ変化する。元々容姿端麗、騎士団でも一目置かれ勉学にも優れたオスカーを他の令嬢たちが放っておく訳もなく、毎日たくさんの令嬢に囲まれるオスカー。 特に最近は、侯爵令嬢のミアと一緒に居る事も多くなった。自分より身分が高く美しいミアと幸せそうに微笑むオスカーの姿を見たアメリアは、ある決意をする。 そんなアメリアに対し、オスカーは… とても残念なヒーローと、行動派だが周りに流されやすいヒロインのお話です。

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

砕けた愛は、戻らない。

豆狸
恋愛
「殿下からお前に伝言がある。もう殿下のことを見るな、とのことだ」 なろう様でも公開中です。

モブ令嬢ですが、悪役令嬢の妹です。

霜月零
恋愛
 私は、ある日思い出した。  ヒロインに、悪役令嬢たるお姉様が言った一言で。 「どうして、このお茶会に平民がまぎれているのかしら」  その瞬間、私はこの世界が、前世やってた乙女ゲームに酷似した世界だと気が付いた。  思い出した私がとった行動は、ヒロインをこの場から逃がさない事。  だってここで走り出されたら、婚約者のいる攻略対象とヒロインのフラグが立っちゃうんだもの!!!  略奪愛ダメ絶対。  そんなことをしたら国が滅ぶのよ。  バッドエンド回避の為に、クリスティーナ=ローエンガルデ。  悪役令嬢の妹だけど、前世の知識総動員で、破滅の運命回避して見せます。 ※他サイト様にも掲載中です。

深窓の悪役令嬢~死にたくないので仮病を使って逃げ切ります~

白金ひよこ
恋愛
 熱で魘された私が夢で見たのは前世の記憶。そこで思い出した。私がトワール侯爵家の令嬢として生まれる前は平凡なOLだったことを。そして気づいた。この世界が乙女ゲームの世界で、私がそのゲームの悪役令嬢であることを!  しかもシンディ・トワールはどのルートであっても死ぬ運命! そんなのあんまりだ! もうこうなったらこのまま病弱になって学校も行けないような深窓の令嬢になるしかない!  物語の全てを放棄し逃げ切ることだけに全力を注いだ、悪役令嬢の全力逃走ストーリー! え? シナリオ? そんなの知ったこっちゃありませんけど?

処理中です...