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第三章

一年前①

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 ガタゴトと音を立て走る馬車の窓から目的地が見えて、心の中でため息をついた。
 湖と見紛うほど幅の広い水堀に囲まれたスペードの城は屋根も黒ければ外壁や塔に至るまでがダークグレーで統一されている。
 水面に逆さに映るその美しい景色はこの国の観光の目玉だが、あいにく俺は遊びに来たわけじゃない。

「まったく。なんだってあいつはスペードなどに逃げ込んだのだろうな」

 向かいに腰を下ろしているクローバーの8、ヘクターは俺とは違って真正面から不満をあらわにした。
 自国の9へと語りかけるのにタメ口なのは俺とこいつが同じアカデミーの同期だからだ。
 それはこの男の言う『スペードに逃げ込んだあいつ』も同様に。

「知るか。ツテなんざなかっただろうに、こっちが聞きてぇよ。お陰で見つけるのが遅れて兄貴はカンカンだ」
「それだよ。キングも放っておけばいいと思わないか? 子供でもあるまいに。家出くらいのことでなんだって俺らがわざわざ真逆の国まで行かなきゃならんのか」

 真逆の国、というのはスペードの国と俺達の国が隣り合っていないことを意味している。
 行き来するには数日かかるほどの距離があって、俺達も来るのはこれが初めてだ。

「それをそのままキングに言えたら今後一生俺の給金はお前にやるよ」
「…………」

 二人して目を見合わせ、ため息をついた。

 クローバーに生まれた者の性か、キングの我儘に進言できるだけの度胸は俺達にはない。

 俺達は、計り知れなく面倒で、とてつもなく厄介な命を受けてこの国に派遣されてしまった哀れな被害者なのだった。



 藍色の髪の男を従え、謁見の間の玉座に腰掛けたスペードのキングは俺と同年代の若い男だった。
 しかしいくら年が近いからと言っても相手は一国の長。燃えるような赤い瞳が俺へと向けられて、細められる。親しみなど微塵もない、格下を見る目だ。

 わざとらしい大仰な動きで一礼して、笑みと共に口を開いた。

「ご機嫌麗しゅう。スペードのキング。クローバーの9、キーランにございます。偉大なるキングに目通り叶いますことまこと恐悦至極に存じます。スペードのキングのご高名は遠く我が国の貴族位はもちろんのこと国外れの村の赤子にまで響き渡り──」
「長ったらしい挨拶は不要だ。貴殿らが我が国に参られた目的なら、すでに貴国からの知らせで把握している」

 へぇ。

 やはり若い分なかなかに性急な方のようだ。これが吉と出るか凶と出るかはまだわからないが。

「それはそれは、有り難きお言葉に存じます、スペードのキング。であれば、こちらからの求めに対して貴国はどのようにお考えか伺っても宜しゅうございますか」

 にっこりと外交用の笑みを浮かべて言えば、スペードのキングの口角がゆるりと上がった。

「そうして笑うとよく似ているな。年が近いように見えるが、ご友人だったのかな?」

 誰と、とは問われなかったが、もちろん誰とのことかは把握している。
 こちらの問いをはぐらかされた上のこの質問には口元が引きつりそうになったが、ここで顔に出しては外交を主な職務とするクローバーの9は務まらない。

「……ええ。アカデミーでは同じ学年に在籍しておりました」

「それは後ろの者もかな?」

 俺の斜め後ろには護衛役のヘクターが控えている。スペードのキングの視線を受けて、ヘクターは胸に手を添えて綺麗に一礼して見せた。

「クローバーの8、ヘクターにございます。私やこちらの9、それに10とクイーン、そして──クレーヴェル卿も我々の親しい学友でございました」

「へぇ。クローバーのクイーンもか。それは知らなかった」

 ヘクターがはっきりと名前を出したにもかかわらずスペードのキングはさらりと交わしてしまう。その国の特色に合わせて対応しなければならないのが外交官の難しいところだが、どうにもこの方は周りくどいのがお好きではないのかもしれない。

 言いたいことがあるなら面と向かって言ってみろと、赤い目が楽しげに語っている。

 先に知らせを出していることではあるが、はっきり言わなければこの方との交渉は始めることすら出来ないらしい。

 少々型破りではあるが仕方ない。望み通りにしてやろうじゃねぇか。

「偉大なるスペードのキングにお願い申し上げます。我々は我が国の長クローバーのキング、ルーサー・クレーヴェル公の弟君、オーウェン・クレーヴェル卿を国にお返し願いたく参りました」

 スペードのキングの瞳が獲物を見定めた肉食獣のように楽しげに細められ、さも今思い出したかのように膝を打った。

「ああ、そうだったな。うちの5はルーサー殿の弟御だった」

「はい。我が国のキングはオーウェン殿が長くご実家に帰られぬことを深く案じておいでです。なにせもう、三年にもわたってご実家にお戻りになられていないそうで」

「私にも弟がいるからその気持ちは分からんではないな。いやしかしうちの5はもう二十三になる一端の男だ。御兄君に言われずとも自らの意思で実家に顔を見せに行くこともあるだろう」

 俺の思い切りの良い切り出しはこの方のお気に召したのだろうか。浮かべられた笑みは、返す返さないの話題を避けているように見えて、ただ俺達を甚振っているだけのようにも感じる。
 しかし話題が動いたのは事実だ。
 俺は畳みかけた。

「スペード国は我が国に引けも取らぬ大国、優秀な方をとても多く召し抱えておいででしょう。先日そちらの8のネビル殿ともお話をさせていただく機会がございましたが、我が国の歴史から土地の名産に至るまでその博識ぶりはさすがはスペード国の8であると感銘を受けました。オーウェン殿も我が国のキングの弟君でありますから当然その優秀さはアカデミー在学中も抜きんでておいででしたが、それでも貴国においては卿以上に優秀な方々が多くいらっしゃることでしょう」

 更に続けようとした声は、くつくつとした意地の悪い笑い声にかき消された。

「いやいや、さすがはルーサー殿の弟御であると言うべきか、あれに匹敵するほどの人材は我が国にもなかなかいなくてな。重宝してるんだよ」

「……では、お返しいただくつもりはない、と?」

「そうは言っていない。先程も言っただろう。あれもいい歳の男だ。長期の休みには自らの意思で実家に顔を出すこともあるだろうとな。──しかしだなぁ。いや困った」

 表情は確かに困った様に眉を下げ、腕を組んで唸っているが、やはりどうにも楽しそうに見えるのはこのキングの性格によるものかもしれない。人を揶揄うのがご趣味のキングとは、外交官にとっては最悪と言える。

「…………なにか、お困りなことでも?」

 尋ねれば、やはりどことなく嬉しそうに口元が緩んで見えた。

「ああ。実はなぁ。オーウェンは前キングからの推薦によって5に付けた男なんだよ。それをお返しするというのは、どうにも……前キングに申し訳が立たんと思ってな。お前はどう思う?」

 前キングの、推薦…………? あいつ、どこでそんなコネを得たんだ!?

 内心の焦りは見通されたらしい。スペードのキングは楽しげに後ろに控えた男を振り返った。

 スペードのクイーンと名乗った男は静かに「前キングはオーウェン殿を、当代スペードのキングの治世において必要な男であると仰せでありました」と俺達にとって死刑宣告にも等しい言葉を淡々と述べた。

「そうだったなぁ。そこまで言われてしまってはこちらも無碍にはできない」

 やれやれと肩を竦める姿に、冷や汗が首筋から背中へと伝う。

 正直に言って、スペードのキングからはさっさと許しをもらえるものと考えていた。
 この命の一番厄介なところは、スペードのキングから許しをもらった後にあると思っていたが、まさか顔も見ずに追い返されることになるとは……。

 だが俺達はどうやら、この意地悪なキングの掌の上であったらしい。

「いやしかし、大切なのは本人の意思だと私は考えている」

 すでに国に戻った後の対応へと飛んでいた俺の意識はすぐさま現実へと戻ってきた。

「と、仰いますと……?」

「貴殿らはオーウェンの友人なのだろう? 君らの説得によってあれが国元へ帰ると言うなら、私に止めるつもりはない」

 闇に落とされた後の光明のようだった。闇に落としたのも光を与えたのも目の前の意地悪に微笑む男ではあるが。

「説得をしても宜しゅうございますか」

「当然のことだ。私は部下が友人と会うことを制限するほど狭量ではないつもりだからな」

 話は以上とばかりにスペードのキングが立ち上がった。

「スペードは貴殿らを歓迎しよう。足りないものがあれば、なんなりと言い付けてくれ」

 胸を撫で下ろし礼を伝えれば、スペードのキングは満足げに笑って去っていった。

 軽快な二つの足音が聞こえなくなくなり、どっと疲れが押し寄せる。

 つまりは──初めからオーウェンを手放すつもりはあったわけだ。前キングから預かった男だから惜しむ姿勢を見せる必要があっただけで。

「……さっさとオーウェンを探して連れ帰るぞ。こんな伏魔殿に長居できるか!」

 同じ結論に至ったらしいヘクターが顔をしかめて何度も頷いている。
 自国のキングもかなりの問題児ではあるが、それでもこの男よりはマシだと心底思った。
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